Moral Edukation
三匹もいっぺんに水に浸かっていた理由がわかったのは、二・三日後だった。
「えぇ‥!?酷いことする‥」
「もう、最近の小学生は‥」
あやまって流されたのではなかった。
都会から引っ越してきて一年生になったばかりの少年に、彼の両親が問いただしたところによると、男の子何人かで下校途中、道草して仔猫を偶然に見つけ、ネズミみたいだとふざけあい、それは三匹だけではなかったとも答えたそうだった。
ネズミみたいとは、まだ母乳を求めて、何の抵抗も出来ぬ時期。
見つかってないまま、まだ犠牲になってしまったものもいたのだ。
これを聞くと、益々母猫が哀れなものである。キュウリの花が咲く頃からは、母猫とおぼしき猫は、とんと姿を見ることは無くなっていた。
猫一匹が一日に縄張りを見回って歩く距離は、13キロとも15キロともきく。
どこか遠く心落ち着ける場所に、住み替えでもしたのかもしれない。・・
善悪の区別の付かない、恐ろしい面を持っている、ちびっこという存在。
それはかわいいものであると同時に、社会の責任がかからない存在である。
この所謂、仔猫事件のうちの一人の子が言ったのだそうだ。
「犬はペットなんでしょ?猫って何てゆうの?」
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幾つかの農家では、夜中、畑の真ん中で縄張り争いをした末の残害(小さい苗たち)が横たわっている事があった。
飛び出してスポーツカーの犠牲になっていたり、うちでは春先に、苺に粗相事件に出くわし、真理恵を怒らせる事となる。
視界の端々で遠くに目にする毛玉の、模様の種類が増えてきていた。
8月。
暗い森に分け入ると、白い鉄砲百合の頭がちらほら。タチアオイは、振り上げられた鍬の高さ近くに育って、黒揚羽が飛び回る。
最近山でしか殆ど見る事がなくなった、大きなイラは、幼虫の折りには毒があるなどといって、人からは避けられるが、夏にはその美しい正体を現す。
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現代人の目というのは、そういう、ものの表面を見ているときに、改めて人間本意なのだと思う。
人間以外は人間ではないから、それなりの扱いしか受けることはない。
枕草子の蟲を愛でる姫君は、今の日本の現状を、彼女を冷笑して嫌がっていた周りの女房達と同じに見るだろう。
育ちすぎたカボチャの巨大な葉っぱを眺めながら、件の真白猫が陽を遮って、真理恵の部屋の間近の陰で涼んでいるのを目撃した。
其れを、宿題をほったらかしにして眺めてみる。初めて見たときよりも、四肢は臼黒い。
隣の真理恵の部屋からは音量を絞ってオルガンをひいている音が聞こえる。
いつ物差しやら投げられるかもしれないのに、真白猫のその余裕の様や、いい気なもんである。
その時のわたしはどうだったかというと、極めて危うい体制であった。
魔がさした夏休みの宿題の途中、窓を開けようと、くるくるよく回る椅子に立ち、立て付けの悪い、大きなすりガラス窓を左手で開けたら、レースカーテンの向こうにその白いやつを発見した。
椅子と壁の間は割と離れていて、よく回るから、バランスが悪い。
窓の明け閉めだけなら問題はないが、 直ぐ左側の部屋の方にいる猫を覗くのだから、足下の揺れ具合が半端ではない。
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「何してんの?」と。
畳んだ洗濯物を持って階段を上がってきた母に、憐れ冷たい目で見られ、此方は曖昧な返事を返す。
ほんと、何やってんだろうと思う。
わたしの気配に気付いたのか、いつの間にか、そいつは居なくなっているし。
次の水曜日は登校日。
登校日と言えばテスト。
公民のテストのヤマは、半分覚えられていない。
この時代にはまだ、携帯電話等はない。
今やるべき事は目の前の冊子の山であるという事が認識しやすい、非常に分かりやすい時代である。――‥