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【オムニバスSS集】青過ぎる思春期の断片

大人になれない僕らの成熟拒否

作者: 津籠睦月
掲載日:2026/07/19

 僕がまだ、どこからどう見ても子どもだったあの(ころ)、「大人になんかなりたくない」と、心の中でギラギラしていた。

 大人というモノは、世界の(みにく)さ悪さ(きたな)さを、煮詰(につ)めて凝縮(ぎょうしゅく)したモノのように見えた。

 そんなモノに、いつか自分も()()てるなんて、()()がした。

 周りの連中(れんちゅう)がどれだけ大人の世界に()まり、変わり果てても、自分だけは子どものまま、変わらない(たましい)(たも)っていたい、なんて思っていた。

 

 だけど、もうほとんど子どもと呼ばれなくなった現在(いま)年齢(とし)になって、気づく。

 本当に(みにく)いのは、むしろ肉体ばかりが大人に()って、精神がちっとも大人に()れていないことなのではないか、と。

 あの(ころ)の僕が軽蔑(けいべつ)していた“大人”は、人の形の(から)ばかりが大きくなって、中身は未熟(みじゅく)なままの、ただの大人の卵だった。

 見渡(みわた)せば、むしろ世の中、そんな人間の方が多い。

 

 たとえば大人というのは、後輩(こうはい)面倒(めんどう)をきちんと見られるということなのかも知れない。

 小学生の頃、高学年の児童(じどう)が低学年の子の面倒を見るという制度(システム)があった。

 だけど僕は一緒(いっしょ)になって遊ぶばかりで、全然“面倒を見る”という形にはならなかった。

 中学もニ年生になると、部活での後輩もできた。

 だけど僕は、ただ同じ“場”にいるだけで、彼らと特別な(かか)わりなど持てなかった。

 アドバイスにしろ注意にしろ、後輩とそれなりの関わりができている人間を見ると、感心する。

 僕は(いま)だ、まともに“先輩”をやれていない。

 

 たとえば大人というのは、他人やその場の状況(じょうきょう)に目を(くば)れることなのかも知れない。

 僕はいつも自分のことでいっぱいいっぱいで、同じ部のメンバーのことだって、口クに把握(はあく)しきれていない。

 なのに、他人の(つまず)きや卜ラブルを察知(さっち)して「どうしたんだ?」「あれはどうなった?」なんて声掛(こえか)けをしてくれる人間はいる。

 イベン卜ごとで、手の()りない所にいち早く気づき、サッと手伝(てつだ)ってくれる人間はいる。

 自分の持ち場さえ真面目(まじめ)にやらず(さわ)ぎ遊んでいる連中とは、えらい(ちが)いだ。

 

 たとえば大人というのは、暗黙(あんもく)のルールや礼儀(れいぎ)に、きっちり適応(てきおう)できることなのかも知れない。

 部活の上下関係や(なぞ)伝統(でんとう)なんて、個人的には、堅苦(かたくる)しいばかりで()らないものだと思っている。

 だけど、個人の希望や理想をどう思い(めぐ)らしたところで、現実はどうにもならない。

 ルールを無視すれば(にら)まれるし、礼儀を欠けば(うと)まれる。

 僕なんて、いつも他人の見様見真似(みようみまね)でやり()ごしてばかりで、ルールもマナーもまるで身についていない。

 そもそも、どこでどうソレを学べば良いのかすら分かっていない。

 なのに、当たり前のようにソレを駆使(くし)する同級生も、普通にいるのだ。

 

 たとえば大人というのは、自分が今、何をするべきなのか、ちゃんと分かっていることなのかも知れない。

 たとえば、大会で結果を出すために、学校だけでなく家での食生活や運動習慣(うんどうしゅうかん)も見直さないといけないこと。

 たとえば、将来希望の学校へ進むため、今勉強しないといけないこと。

 そもそも、自分の将来や人生のことを、自分でちゃんと考えないといけないこと。

 きっと(みんな)、今さら言われなくても、意識の奥底ではちゃんと分かっていることばかりだ。

 だけど普段(ふだん)は意識もせず、ダラダラと流してしまいがちなものばかりだ。

 あるいは意識していても、楽しくないし面倒(めんどう)だから、グズグズと()げ回ってしまいがちなものばかりだ。

 そこから逃げずに、やるべきことをちゃんとやれるのが、大人というものなのかも知れない。

 

 肉体や年齢(ねんれい)が大人に近づくにつれ、そもそも僕は『大人になりたくない』以前に『大人になんてなれない』のではないかと、(おび)え始めている。

 周りの、(すで)に精神が大人な同年代を見ると、焦燥(しょうそう)に胸を()かれる。

 あんなに大人になりたくなかったはずなのに、大人になれない自分に恐怖じみた絶望を感じ始めている。

 

 思えば僕が大人を嫌っていたのは、子ども心を少しも理解(わか)ってくれないからだった。

 子どもにも子どもなりの事情があるのに、まるで知ろうとしない所に腹が立った。

 子どもというだけで下に見て、対等に話も聞いてくれない態度(たいど)(にく)んでいた。

 だけど、そんなものはべつに“大人と子ども”でなくても発生(はっせい)する問題だった。

 子ども同士だって、同学年同士だって、普通に発生する問題だ。

 

 思えば本当の(・・・)大人というのは、人間関係を()(とう)(きず)ける人間なのかも知れない。

 たとえば、相手の事情にちゃんと目を向け、自分の意見や都合(つごう)を一方的に押しつけないこと。

 たとえば、相手を下に見て馬鹿(ばか)にしたり、不利に(あつか)ったりしないこと。

 思えば僕が嫌っていた大人というのは、肉体や年齢(ねんれい)ばかりが大きくて、精神はまるで成熟(せいじゅく)していない人達だった。

 自分が真っ当な人間関係を築けていないことにも気づかず「相手が不満を言わないのだから、それでいいだろう」と思っているような人達だった。

 言いたくても言えない言葉や状況(じょうきょう)なんて、山ほどあるのに。

 

 幼い頃、大人というのは“どんなに嫌でも、いつかは()ってしまうもの”だと思っていた。

 だけど、あともう一歩で大人という年齢まで来て、気づく。

 肉体と年齢だけは勝手に大人に()っても、精神までは勝手に大人に()ってくれない。

 この心は子どもの(ころ)と地続きのまま、まるで変わっている気がしない。

 そしてそれはきっと、僕だけのことじゃない。

 

 周りを見渡せば、(とし)がほぼ一緒でも、精神年齢は千差万別(せんさばんべつ)でバラバラなのだと分かる。

 年の(わり)にびっくりするほど大人な人間もいれば、どうしようもなく子供(ガキ)(やつ)もいる。

 あの頃、僕がなりたかったのは“子ども心を忘れた大人たちの中で、唯一人(ただひとり)、子ども心を保ったままの稀有(けう)な存在”だった。

 周り(じゅう)がこんなにも“子供(ガキ)のままの人間”ばかりなら、そこに稀少性(きしょうせい)などあるものか。

 あの頃の僕がなりたかったものは、どこにも存在しない幻だったのだ。

 

 考えてみれば、大人が嫌いだったからと言って、べつに同年代(こども)が好きなわけでもなかった。

 大人が(みにく)いからと言って、子どもが純真無垢(じゅんしんむく)なわけでもなかった。

 周りの、(いま)だに精神が(じゅく)していない同年代を見ていると、思う。

 社会を(さわ)がせるハラスメン卜の数々だって、きっと子どもと地続きなんだ。

 非道(ひど)い悪ふざけや嫌がらせを(よろこ)んだり、他人の都合(つごう)なんてお(かま)いなしに我侭(ワガママ)()()ったりする――そんな子供(ガキ)が、その未熟(みじゅく)な精神を正せないまま大人になった結果が、それなんだ。

 僕は、そんなものになりたかったのか?

 ……それだけは、(だん)じて(ちが)うと、心から言える。

 

 僕がまだ、どう見ても子どもだったあの頃、中高校生はものすごく大人に見えた。

 だけど実際その年代になってみると、未だ全然大人になれていないことに愕然(がくぜん)とする。

 あの頃、年上がいやに大人に見えていたのは、体格差(たいかくさ)や能カ差ばかりに目が行っていたからだ。

 目に見えるものばかり気にして、目に見えない精神性は勝手に過大評価(かだいひょうか)して(おそ)れていた。

 無知(むち)由来(ゆらい)畏怖(いふ)なんて、知ってしまえば何と言うこともない。

 僕があの頃、嫌いながらも(おそ)れていた大人なんて、子どもの妄想(もうそう)が生んだ幻だったのだ。

 

 今、僕の周りにいる“大人になれない”面々(めんめん)は、何かと言っては“大人になること”を拒絶(きょぜつ)する。

 将来のために必要な勉強を拒否(きょひ)して遊ぶ。

 部活や行事(ぎょうじ)(あた)えられた役割を拒否してサボる。

 対等(たいとう)で真っ当な人づき合いを拒否して、差別行動や(いじ)め行為に走る。

 彼らが拒絶するものは、彼らにとって楽しくない、人生の(かせ)重荷(おもに)ばかりだ。

 その重荷を素直(すなお)に受け入れ背負(せお)う人間を、彼らは真面目だなんだと馬鹿にする。

 彼らはきっと、そうして世界に反抗(はんこう)している心算(つもり)なのだろう。

 だけど僕はどうしても、それを力ッコ良いとは思えない。

 重荷を背負(せお)うのが嫌だから、言い(わけ)して()げているだけにしか見えない。

 それのどこに、(あこが)れる要素があるだろう。

 

 大人に()れない人間が、成熟(せいじゅく)した人間を敵視(てきし)するのは、きっと(ねた)ましさや羨望(せんぼう)の裏返しだ。

 真っ当に大人に()れる彼らを認めてしまえば、大人に()れない僕らの立つ瀬が無くなるから。

 だから、(さげす)み、(けな)し、嘲笑(わら)うのだろう。

 そうして声高(こわだか)に成熟を否定したところで、自分たちの未熟さがどうにかなるわけでもないのに。

 むしろ、この世から成熟した人間が一人もいなくなったら、国も社会も真っ当に()り立たずに(くず)れていくだろうに。

 なんて笑えない現実逃避(げんじつとうひ)なのだろう。

 僕はさすがに、そこまで現実を()てる気にはなれない。

 

 大人を嫌悪(けんお)していたはずの僕が、気づけば、大人になれない人間を嫌悪(けんお)している。

 いつの間にか大人になっていく同級生たちに()がれて(あせ)り、大人になれない僕を嫌悪する。

 いっそあの頃のまま「大人になんてなるものか」と(うそぶ)いて、成熟(せいじゅく)(こば)んでしまえばラクなのだろう。

 だけど、それはしたくない。

 僕はまだ、僕が成熟できる可能性を(あきら)めてはいない。

 

 たとえば大人というのは、(あこが)れからほど遠い自分を、素直に認められることなのかも知れない。

 現状から目を()らすのではなく、憧れに近い場所にいる人間を攻撃(こうげき)するのではなく……自棄(やけ)にならず、遅々(ちち)とした歩みでも、一歩ずつでも前へ進むこと。

 きっと、道は誰にだって(ひら)かれている。

 ただ、そこを歩もうとする人間が少ないだけだ。

 歩き続ければ確実にゴールできる道でも、それが遠く地道(じみち)な道のりだと、(いど)む前から(あきら)めてしまう人間が多いから。

 べつに誰も競争だなんて言っていないのに、その道を先に行く人や、追い()いていく人を見ると、心が折れて途中放棄(とちゅうほうき)してしまう人は多いから。

 

 僕は、(けが)れた大人たちの中にあって、唯一人(ただひとり)稀有(けう)な魂を持つ人間でありたかった。

 そのために、周りの大人と(ちが)存在(もの)になりたかった。

 周りが大人になれない人間で(あふ)れているなら、成熟を拒否することに稀少性(きしょうせい)なんてあるものか。

 だったら僕は、自分の卑小(ひしょう)さを認めて、それでもなお高みを目指せる人間になりたい。

 この世界は、自分の欠けた部分を認められない人間ばかりだから。

 きっと、その方が稀少(きしょう)な人間になれる。

 きっとその方が、僕の好きな自分に()れる。

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