こンのくそったれどもがああああああ! By Niccolò Machiavelli
1500年、ニコロ・マキャヴェリはそう叫んでもおかしくない状況に置かれていた。
フィレンツェは海へのアクセスはピサの自由港に依存していたが、ピサがフィレンツェに対して、港を閉鎖。フィレンツェはピサへと侵攻した。
これはフィレンツェに限った話ではないが、当時、常備軍が存在せず、フィレンツェも傭兵隊長と契約した。
マキャヴェリはフィレンツェの書記官として、傭兵たちとの交渉を任されていたのだが、ピサの城壁が崩れて、さあ、戦の総仕上げだ!と意気込んだら、傭兵隊長が攻撃したくない、市街戦は危険だから攻めてもらいたいならボーナスを払えと言ってきたのだ。
マキャヴェリは辛抱強く交渉をしたが、結局、野営地でマラリアに倒れた兵士が出たので、勝手に引き上げてしまった。
マキャヴェリは頭に来たし、フィレンツェ政府も頭にきて、傭兵隊長は反逆罪で死刑にしたが、ピサは依然として健在であり、フィレンツェはどうしてもピサを落とさなければいけない。
そんなとき、フィレンツェはフランスと交渉した。
フランスはナポリに攻め込みたい、すでにスイス兵五千人と契約をしていたが、先立つものがなかった。
そこで、フランス側はこの金を用立ててくれれば、フィレンツェがピサを攻めるのにスイス兵五千人を貸そうというわけである。
もちろん、その金もフィレンツェが払う。
明らかにヤンキーにジャンプさせられているフィレンツェだが、海へのアクセスがないことは致命的だったので、どうしてもピサの港が欲しかった。
そこで、この条件を飲んだ。
イタリア人傭兵の怠慢にうんざりしていたマキャヴェリは、きちんと命令通りに働くことで有名なスイス傭兵五千人に期待をして、副官としてピサ攻撃を監督する立場になった。
1500年、戦場に到着すると、五千人の傭兵どころか六千人の傭兵がいた。
スイス兵が四千、フランス兵が二千。
いきなり契約違反である。
案の定、フランス兵はマキャヴェリの命令をきかなかった。
ピサに到着しても、付近の略奪に明け暮れ、城壁を崩すと、市街戦は危ないからヤダと言った。
マキャヴェリはこめかみに青筋を浮かべながらも我慢して、フランス兵のもとに部下を送り、フランス王との協定通りに働くよう交渉した。
それに対するフランス側の返答は、マキャヴェリの部下を捕らえ、返してほしければ身代金を払えというものだった。
マキャヴェリの理想の政府は市民軍を有する政府だった。
古代共和制ローマではローマ市民は全て兵役に就く義務があった。
給料は払われない。戦利品がその代わりだ。
しかも、武器と防具はそれぞれで用意しなければいけない。
そんな不利な兵役にローマ人が就いたのは、戦わなければ、そして、敵に勝たなければ、全員が奴隷にされるからだ。
ちょうど、マキャヴェリが生きていた時代のように、都市国家が乱立していた古代イタリアでは戦争に負けると奴隷になり、財産は没収され、妻や娘は敵の慰みものになる。
そうならないためには戦うしかない。
つまり、古代ローマ人は自身の利益と国家の利益を同一視することができた。
都市の富裕層も中小農民もその義務を分かち合い、無給で戦うことを当然とした。
傭兵くそったれ、フランス兵くそったれ、必要なのはフィレンツェ人からなる市民軍だ。
――が、フィレンツェの銀行家の御曹司と郊外の農民が同じ義務感を有するのは不可能だった。金がすべてだったのだ、当時のフィレンツェは。
市民軍が無理なら、強い君主制しかない。
つまり、『君主論』は次善策だった。
1527年6月、マキャヴェリは58歳で亡くなる。
その一か月前、神聖ローマ皇帝が雇った傭兵たちが教皇軍を破り、ローマへなだれ込み、犯して、殺して、奪いつくした。
それからイタリアは『目的のためなら手段は選ばない』と吹聴する君主たちによって、ボロ雑巾にされる。
我が魂よりも我が祖国を愛する。
これは間違いなく、マキャヴェリの言葉である。
マキャヴェリは全てのフィレンツェ人がこれを共有して、市民軍を結成することがイタリアを他国の玄関マットにされない唯一の道、繁栄と平和への道だと確信していたのだが、それが叶うのは三百年以上後のこと。イタリア統一まで待たなければいけない。




