サイダー飲んで、げっぷして
そもそも戦前の日本人は戦死者が多いことに我慢ができない性格をしていた。
戊辰戦争、西南戦争は戦死者が武士や士族で、期間も短く、それぞれ数千人の死傷者で済んだ。
同じころにアメリカに起きた南北戦争は三年以上続き、死者は六十万人を超え、南部の主要都市は荒廃した。
それに比べると日本の戦争はずっと軽い。
それは対外戦争でも同じだった。日清戦争は約一年、戦死者は1900名ほどで出征中に病死した9000名のほうが多かった。
日清戦争では清から八億円という巨額の賠償金をゲットしたので、戦争は儲かるという危険な勘違いを生んだほどだ。
そんな日本人の目を覚まさせたのが日露戦争だった。
戦死、戦傷死、戦病死者8万8000人。
日本史上最も多くの戦没者を出してしまった。
与謝野晶子が『君死に給うことなかれ』を発表するくらい、当時の日本人の大量の戦死者に頭に来ていた。
日本の徴兵は現地主義だから、地元で徴兵した若者は地元人のみの連隊に配属になる。
これは隊の結束を上げる長所があるものの、戦死者を大量に出すと、ある一定の地域から若者がごっそりいなくなってしまう。だから、戦死者がたくさん出るとわかりやすいのだ。
連隊本拠地の住人は怒り狂う。連隊長は偉いが、一方で地元の若者たちを預かっているという見方も強く存在するのだ。
旅順要塞戦で戦死者1万人負傷者5万人を出した乃木希典の家には連日のごとく石が投げつけられ、警官は止めるどころか一緒になって石を投げつけた。
こんなに戦死者出しやがって、というわけである。この時期の日本では「あの将軍は戦が下手だ、けしからん」と放言しても責められなかった。むしろ、大量の犠牲者を出しても要塞を落とせない将軍のほうが国賊だった。
こんなわけで日本人は戦死者が大量に出ることに我慢ができなかった。
第一次世界大戦は日本にはなじみがなく、戦争特需で儲かって、お札に火をつけて靴を探す成金どものことが浮かぶのだが、当のヨーロッパではとんでもないことになっていた。
イギリス軍やフランス軍というのは戦場で紅茶を飲んで紳士的に話したり、戦場で看護婦と恋に落ちたりするスマートな存在に思えるが、実際はとんでもなかった。
まずフランス軍の首脳部ではエラン・ビタールという精神論が横行していた。
簡単に言うと、攻撃をしている限りは負けないというものだ。
開戦から一か月の間、フランス軍はこの精神論のもと侵攻してくるドイツ軍に攻撃を続け、戦死者14万人、負傷者18万人の被害を出した。日露戦争で日本が一年以上かけて被った犠牲をはるかに上回る数で、フランスの将軍たちは18歳から20歳の若者をこの一か月で使い切った。
しかも、これで終わりではなかった。シャンパーニュ攻勢、ヴェルダンの戦いと20万、30万という犠牲者をポンポン出していく。
第二次世界大戦が勃発するまで、狂気の自殺突撃といえば、フランス軍の十八番だったのだ。
イギリス軍も負けていない。
1916年7月1日、ソンムで攻勢に出た。
その一日で1万9000人の戦死者、5万人の負傷者を出した。
旅順要塞戦の一年を上回る被害をたった一日で出したのだ。
得たものは二マイルの前進だったが、大本営発表をやって、国民相手に大勝利と嘘こいた。
ただ、イギリスも日本と同じ郷土連隊方式の徴兵をしているので、ある地方で18から20歳の若者がごっそりなくなっている。
さらにイギリスにはパルという仕組みがあって、教師たちのパル、郵便配達人のパルといった具合に職業別に仲良し団体をつくって、そのまま同じ連隊にしてもらっている。
だから、ある地方から教師や郵便配達人が、本当にいなくなることが多々あった。
イギリスもその後、第三次イープル攻勢まで無駄遣いを繰り返す。それが止まったのは首相のロイドジョージが新しい兵隊を送るのを拒否したからだ。
フランスでも兵士たちが反抗して攻撃のボイコットが起こって、司令官たちは攻勢作戦に自信をなくし(つまりエラン・ビタールを失い)、結局、アメリカが参戦するまで攻撃は止められた。
数えてみれば、イギリス軍の戦死者は88万人、フランス軍は130万人。
第二次大戦のイギリス軍戦死者は36万人、フランス軍は20万人。
第二次大戦のイギリス、フランスが精神論にはまらなかったのは凶悪な前科があったからなのだ。
こうして第一次大戦が英仏軍に人口ピラミッドが歪むほどの教訓を与えているとき、日本は戦争特需で笑いが止まらなかった。日本軍の戦死者は数百人ほどで他の参戦国と比べれば極めて少ない。
第一次大戦の結果、ロシアが革命が起き、それに対する出兵として英仏米日のシベリア出兵があったが、日本軍の規律はかなり緩かった。将校たちは略奪と投機に夢中になり、兵士たちはいじめられたが、一方で前線では人気のない将校や軍曹を敵との戦死に見せかけて撃ち殺す『後ろ弾』が流行していた。
シベリア出兵はただ軍事費がかかっただけの損に終わり、非難の声が出たが、満州事変では大した被害なしに奉天を支配下に置けたので、また戦争は得をするような考えがうっすらにじみ出始める。
1937年の時点でも日本人は大量の戦死者に我慢ができなかった。
日中戦争開戦時、日本軍は上海を囲む中国軍の防衛ラインを全線で突破した。詳細は説明しないが、そのとき使った浸透戦術は敵を大量に捕虜にして戦線を崩壊させるが、自軍にもそれなりの被害が出た。静岡県を本拠地にする連隊ではかなりの戦死者が出て、連隊長の家に石が投げられた。その結果、主人は出征していますので、わたしが代わりにお詫びいたします、といって、妻が自殺した。
この五年後に日本人は集団自殺の玉砕カルトにはまり込む。
生きて虜囚の辱めを受けず、と降伏するのを拒んで玉砕。
明らかに戊辰戦争以降の日本人の戦争に対する考え方とはかけ離れている。
太平洋戦争前の日本人はサイダー飲んでげっぷして、エノケンの映画を見て笑っていた。ダンスホール「フロリダ」を舞台にした華族たちのセックススキャンダルに興味深々だった。サラリーマンの悲哀を面白可笑しく書いた新聞コラムが大人気だった。城を枕に討ち死にとは戦国時代の出来事だった。
戦争が終わったとき、戦前と戦後で日本人の価値観が変わった、というが、そうではない。
戻ったのだ。




