政宗くんとピュロスちゃん
伊達政宗とエピロスの王ピュロスに無理やり共通点を見つけるとすれば、まずことわざのもとになっていることが挙げられる。
『伊達者』と『ピュロスの勝利』。
伊達者の意味は派手な装いをかっこよく着こなす男のことで、ピュロスの勝利は日本でいうところの『骨折り損のくたびれ儲け』で欧米では一般的に使われている慣用句だ。
もうひとつの共通点は大きすぎる目標。
ピュロスの目指すところはアレクサンドロス大王の帝国を再興することであり、政宗の目指すところは曾祖父稙宗が成した陸奥と出羽の支配だった。
そして、その大きすぎた目標設定のためにへし折られることになる。
エピロスの王ピュロスは戦術の天才と呼ばれる人物で、『ドリフターズ』に出てくるカルタゴの名将ハンニバル・バルカがやはり『ドリフターズ』に出てくるスキピオ・アフリカヌスに最も優れた指揮官が誰かとたずねられたとき、第一にアレクサンドロス大王、第二がピュロスで、自分が三番目だと述べている。
バケモノレベルで戦争に強いハンニバルがいうくらいだから、このピュロス、相当強い。
ただ、戦の指揮がうまいというだけでなく、野営地の作り方を定めて、兵を安ませることをしっかり考えるあたり、彼の強さは突撃一辺倒ではないことをうかがわせる。
ただ強いのだが、彼は勝ち逃げの仕方が致命的に下手だった。
カルタゴが支配するシチリアを攻め、ピュロスはあっという間にカルタゴ軍を負かして、主要都市をいくつも落とした。
カルタゴは勝てないと思って、奪われた都市をピュロスに割譲し、講和を結ぼうとした。
つまり、損切をしようとしたのだ。
願ってもない勝ち逃げのチャンスだが、ピュロスはそれを蹴ってしまう。
ピュロスの目指すところはアレクサンドロス大王であり、シチリアを完全に領有しようとしていた。
だが、ピュロスは大王のごとくふるまってシチリア人から反感を買って、最終的にはカルタゴによってシチリアから駆逐されてしまう。
ローマとの戦争でも似たようなことになった。
連戦連勝して、部下が「あと一度勝てば、ローマは滅ぶ」と豪語すると、ピュロスは「あと一度勝てば、こちらが滅ぶ」と返した。
勝ってはいるが、ピュロス側も戦死者を出していて、エピロスから連れてきた精鋭の数は確実に減少していたのだ。
結局、このときも勝ち逃げができず、負けたはずのローマにとって有利な講和を結ぶざるを得なかった。
これが『ピュロスの勝利』の語源である。
のちにピュロスはギリシャのアルゴス地方の紛争に出陣し、籠城側の名もなき女性が投げた瓦が頭にぶつかって死んでしまう。
アレクサンドロス大王の後継者を目指し、そして、それに値する天才を持った英傑のあっけない最期だった。
ローマとの戦争の際、ローマ側は捕虜にされた兵士たちを解放してもらうため莫大な身代金を持ってきたが、ピュロスは「わたしは商売をしに来たのではない。戦場で決着をつけよう」と一銭も受け取らず、捕虜を全員解放した。
また、文学の素養が高く、自身でも作品を残し、それは演説の天才キケロに賞賛され、ハンニバルは自身の戦術の参考にしたという。
つまり、ピュロスは勝ち逃げで満足するにはあまりにも高潔過ぎたのだ。
一方、伊達政宗には呪いがかけられていた。
陸奥と出羽を制覇した曽祖父、伊達稙宗の呪いだ。
稙宗は戦勝と政略結婚、そして養子縁組と複数の側室に産ませた子どもたちを利用しまくって、周囲の大名を傘下に置き、陸奥と出羽を支配するというこれまで誰もしなかった偉業を成し遂げた。
しかし、その拡大路線の裏では伊達家の本拠地である陸奥六郡からの資産と家臣の持ち出しがあり、本拠地の家臣たちは貧乏していた。
そのことで拡大路線に反対する嫡男晴宗(つまり政宗の祖父)とのあいだで戦が起こり、六年に及ぶ戦乱の末、晴宗が勝利した。
稙宗は隠居を余儀なくされ、彼が血縁関係でつくった帝国はバラバラになり、傘下の大名は伊達から独立した(このせいでのちの仙台藩では政宗とその父輝宗、曽祖父稙宗は名君として崇められたが、祖父晴宗については完全なバカ殿扱いされている)。
伊達政宗には曽祖父稙宗の偉業の再興をたくされた。
政宗は勝ったり負けたりを繰り返し、死に物狂いでざっと見て150万石以上、東北地方の三分の一を支配下に置いた。
稙宗も喜んでいることだろう。
ただ、ひとつ問題があった。これらは豊臣秀吉が惣無事令を出した後に広げた領土であることだ。
惣無事令とは合戦禁止令、天下は秀吉のもとに定まったのだから、領土拡大目的の戦はするなというものだった。
秀吉が小田原城の北条氏を攻めているところに参加して、恭順の意を示したことにより、秀吉は政宗の領土を安堵したが、案の定、安堵されたのは伊達家の本拠地である陸奥六郡を中心とした72万石だけで惣無事令後にゲットした領地は取り上げられた。
稙宗のときと同様だったが、今回の相手は実子ではなく天下人の秀吉だから戦を仕掛けるわけにもいかない。
政宗が特に未練タラタラだったのは陸奥中部の大崎・葛西の地であった。すでに秀吉は大崎・葛西に木村吉清を送り込んで大名ににしていた。ところが、この地を取り戻したい政宗はとんでもないことをしでかす。
大崎・葛西の地で一揆を扇動したのだ。
秀吉が直々に任命した大名のいる土地である。
一揆を鎮圧できなければ木村吉清は秀吉の不興を買って、大崎・葛西を没収される。そこに自分が華麗にあらわれて、一揆をちゃっちゃっちゃーと鎮圧すれば、褒美として大崎・葛西の旧領十三郡が戻ってくる。
こうして政宗は誰が得するか考えれば簡単に謎が解けてしまうミステリの犯人役になったのだ。
案の定、秀吉に疑われ、政宗は申し開きをさせられたが、自分の花押は鶺鴒の姿を真似てござるが、ここ、この目に当たる部分に針で穴を開けてござるという言い訳にもなっていない言い訳をする。
そんなことほとんどの人間は知らないから、一揆側に「こっそり応援するよ」と書いた書状に穴のない花押でサインしても一揆側は偽物と疑わない。
というより、この申し開きが一揆側の耳に入れば、すぐ密書の花押に穴が開く。
こんな言い訳を秀吉は信じるふりをして、政宗には責任をもって一揆を鎮圧させた。政宗は助命するから降伏しろと言って、降伏してきた一揆勢を皆殺しにして、証拠の隠滅を図ったが、余計怪しまれるだけだった。
一揆が鎮圧されて論功行賞になるわけだが、案の定、秀吉は政宗を罰した。
本拠地の陸奥六郡を取り上げ、政宗が欲しがっていた大崎・葛西の地を与えるという、加増というよりは国替え、というか石高が72万石から58万石に減ったのだから、減封だ。それに大崎・葛西は一揆の戦闘で荒れ果てていて、領民も相当死んだので、たぶん実際の石高は58万石よりも少ない。
いやいや、数の問題ではない。
四百年近く前の1190年、下野国中村壮住人、中村朝宗は奥州合戦の功あって 源頼朝より陸奥国伊達郡を与えられる。
中村朝宗はまだ未開ながらも広大な伊達郡の可能性に賭けて移住し、名を伊達朝宗に改めた。
つまり、伊達家のアイデンティティ、代々のご先祖さまから受け継いだ、絶対に失ってはならないクソ大事な土地をちんけな策を弄したせいで、モンキーそっくりの天下人に没収されてしまったのだ。
腹切って先祖に詫びるか、マジで考えないといけない状況である。
状況は芳しくなく、秀吉には疑いの目を向けられている。全ては自分の野心のせいで起きたことだが、何とか挽回をしなくてはと次期天下人で関白、秀吉の甥である秀次に近づくが、秀次が秀吉の不興を買って切腹させられると、四国に国替えされそうになった。
だから、徳川家康に近づいたのも納得と言えば納得である。
秀吉が亡くなった後、家康の息子と政宗の娘が婚約した。大名同士の無断の婚約を秀吉は遺言で禁止させていたので、石田三成に詰められるが、秀吉相手に鶺鴒の目に穴を開けてますと言い訳させられ、首の皮一枚でで四国に流されかけたことを考えると三成など物の数にも入らない。
すっかり家康の子分となった政宗は家康の上杉攻めに従い、関ヶ原の戦いでも東軍に所属したのだが、ここでまた悪い癖が出た。
また、やったのだ。一揆の扇動を。
相手は南部利直。同じ東軍の大名である。
さらに信じられないのは政宗は、家康から、味方をすれば秀吉に没収され、今は上杉景勝のものになっている所領を与えるという『百万石のお墨付き』をすでにもらっているのだ。
一揆扇動はもちろん家康の知るところとなり、お墨付きは反故。かろうじて刈田郡だけはもらえたが、百万石には程遠い。おまけにその異常な野心は家康も問題視をしたらしく、関ヶ原の戦いが終わっても、二年間、政宗は領地に帰らせてもらえなかった。さらにあれこれ公共工事をするから金を払えとカツアゲもされた。
自業自得である。
しかし、この政宗の異常なまでの領土拡大欲はどこから来ているのだろうか。
案外、それを解くカギは名前にあるのかもしれない。
伊達家当主は名前の一字と室町幕府の将軍からもらっていた。
足利義稙 → 伊達稙宗
足利義晴 → 伊達晴宗
足利義輝 → 伊達輝宗
政宗の元服は1577年で征夷大将軍は足利義昭だから昭宗と名乗るところだが、義昭は既に織田信長にぶっ飛ばされている。天下人から一字をもらおうという考え方なら信長からの一字で長宗になるだろう。
だが、政宗は政宗なのだ。
由来は何かというと、約百数十年前のご先祖さまである政宗から来ている。この元祖政宗は鎌倉公方から出先機関を奥州につくるから土地をよこせと言われ、中指を突き立てて返答とし、合戦におよんで、所領を守り切った人物だ。
ニュー政宗には元祖政宗みたいな当主になるようにと願をかけられたのだろう。
もうひとつの原因は家族観。
曽祖父稙宗は六人の妻とのあいだに二十一人の子どもができ、それを片っ端から養子縁組と政略結婚に使った。
祖父晴宗は確認されている妻はひとりだけで、子どもは十一人だが、政略結婚で他家に嫁がせず、養子縁組もしていない。
父輝宗は正室と妾の二人、子どもは四人しかいないが、自分の兄弟姉妹を片っ端から政略結婚に送り出している。
そして、父輝宗は祖父晴宗とのあいだで諍いを起こし、強制的に隠居に追い込んでいた。
祖父晴宗は子どもを政略に利用することに抵抗があったが、父輝宗は自分の兄弟姉妹を曽祖父稙宗と同じ、政略結婚の弾丸と思っていた節がある。
父輝宗が曽祖父稙宗の路線をよしとしていれば、父晴宗とは仲も悪くなる。
そして、父輝宗は政宗という将軍家の横暴な領地要求を戦で突っぱねたご先祖の名前を息子につける。
現代の考え方で正常なのは晴宗だが、戦国時代ではむしろ稙宗と輝宗のほうが正常だ。
それでも少年時代の晴宗には側室から側室に渡り歩き、子どもができ次第、外に放り投げる父親の存在がちょっとしたトラウマになってもおかしくない。
それで極端に逆走し、家族を外に出さない晴宗を輝宗が否定し、輝宗は政宗を教育するのだ。
曽祖父のようになれと。
そして、政宗の妻は八人、妾がひとり。子どもは合計で十六人。
政宗の一揆好きの根本には想像以上に暗いものがあるのかもしれない。
過ぎた野心は身を亡ぼすというが、ピュロスと政宗にもそれはあてはまるだろうか。
ただ、ふたりの野心にまわりはふりまわされるのだから、自滅するならひとりでしろよタコというのが周囲の正直な気持ちかもしれない。
しかし、後世の歴史好き錯乱中年が身勝手を言うことを許してもらえるならば、英傑には大きな野望をいだいてもらいたいと思ってしまうのだ。




