南無酸多大菩薩
神社の八幡さまが八幡大菩薩になれるなら、サンタクロースも菩薩になれるのでは?
プレゼントによって衆生を救わんとするその性質は十分、酸多菩薩の可能性を秘めている気がする。
聖バレンタインはおそらく無理だろう。チョコレートをもらえないことによって苦界に落ちる男子が多すぎる。
駅前で新約聖書振りかざして、道行く人びとに「あなたは神を信じますか?」とたずねているけど、信徒にとって、神はいるいないの話であって、信じる信じないの存在を考えるところではないはずだ。
そもそも信者という言葉がおかしくて(由来は違うだろうけど)在家のほうがしっくり来る。
「神を信じるか?」とは「馬を信じるか?」と同義なのだ。つまり、その馬のために馬券を買うという浄財をし、払戻金というご利益が自分にもたらされることを信じる。天を仰いで、神さま、あんた、おれのダチだよな?と恐る恐る同意を求める。そんなところではないだろうか。
先日、プロテスタント系の教会を追放された友人がいるのだが、最初はタダで気持ちよくお祈りさせてくれたが、そのうち、寄付を求められ、それが強制の色合いが濃くなってきたので、こうたずねたそうだ。
「なんで、寄付しないといけないんですか?」
「あなたの稼いだお金の十分の一は神さまのおかげで稼ぐことができたのです」
じゃあ、毎日、出勤でしんどい思いをして、労基を恐れぬブラック企業で働かされるのは神のご意思なのかときけばいいところを友人は、
「じゃあ、おれおれ詐欺で稼げるのは十分の一は神さまのおかげで、ホモの娼夫が稼げるのは十分の一は神さまのおかげなんですか?」
と、かなり飛び跳ねたところをきいて、追い出されたらしい。
全ての教会がそうではないと思うが、十分の一税というものは過去にあったわけだし、15世紀のイタリアの商人たちは二重帳簿をつけて脱税を屁とも思わなかったが、それでも『神の取り分』として10%を記載し残していたという。
そもそも日本人は神さまは八百万柱存在するという信仰で、その八百万のなかから自分にご利益を呉れそうな神さまを、これぞと信じて賽銭箱に小銭を投げている。
おれは無宗教だと述べる方も、まあ、子どもがサンタを信じてて、どうしてうちはプレゼントはないの? サンタは来てくれないの?とたずねられて、うちは無宗教だからだ!とのたまえば、子どもは成人してから、うちの親は毒親だったというだろう。
神さまなんているわけねえ!と豪語するひとだって、じゃあ、自殺者が出て、祟りがあると評判の廃神社に真夜中に行って、ご神体蹴っ飛ばしてこいと言われたら、ひるむ。
無神論者とは神さまはいないと信じる人たちで、そうすることで理性や合理的な思考を手に入れ、それによって利益を得られるかもしれないと期待もしている人たちだから、根っこは大差ない。
肯定するに否定するにしろ、神秘的なものに対する態度によって、何らかのご利益が欲しい。
片思いのあの子が新興宗教のサークルに入っているから自分もそのサークルに入って、お近づきになろう。
片思いのあの子が無神論者のサークルに入っているから自分もそのサークルに入って、お近づきになろう。
そして、お布施、もしくはカンパの形で金を巻き上げられる。
人類の永遠の真理は男の悲しいまでの愚かさ、そこにあるのだ。




