ギーズ公アンリの最期
1588年12月23日。
湿って崩れやすい雪が絶えず降るなか、ギーズ公を乗せた一台の馬車が市街に硬質な車輪の音を響かせながら、市の中心にあるブロワ城へと向かっていた。
ギーズ公アンリは午前八時に目が覚めた。少し寝坊をした。三部会開催前に国王と会談をする予定だったのだ。
カトリック同盟の盟主として、パリ市民に絶大な人気を誇るアンリを国王アンリ三世は王位を狙っているのではないかと気が気でなく、前日もブロワ城の中庭で話したが、どうもしこりのようなものを感じた。
「陛下はわたしを誤解していらっしゃるが、そう心配するほどではない」
彼は人にそう話したが、実際、自分の勢威を思えば、顔が笑みにほころぶのは仕方がないことだ。
パリ、いやフランス国内で彼に対抗できるほどの人物がいるだろうか?
父フランソワの仇でもあるガスパール・ド・コリニーは16年前のサンバルテルミの日、大勢の異端者たちとともにその汚れた血をセーヌ川へと注いでいった。
ナバール王アンリ? 確かにサンバルテルミの日、カトリックに改宗して命を拾い、またユグノーに戻ったが、そのような変節漢を誰が信じる? 国王と結んで、自分に対抗しようとしたらしいが、ギーズ公は既に国王と和解した。ナバール王はいま、宙吊りの状態で大したことは出来はしまい。
国王はというと、確かに意思が弱いところがあり、そこを異端者たちに付け込まれたのだが、佞臣さえ除いてしまえば、きちんとした態度を取れる。
今、何が問題かというと、寒いことだ。
ひどい天気で、雪は止まず、馬車のなかは氷でつくったように寒い。おまけに寝坊したせいで朝食と朝の懺悔をあきらめなければならなかった。召使のサン=プリが気をきかせて、毛布を車内に用意していたが、世人が望む自分のイメージに合わないので、使わなかった。フランスを異端者の手から救う英雄が馬車のなかで毛布をかぶる? 大胆に、しかし用心深く尖らせた髭と髪型は戦場で負った顔の傷跡と合わせて、軍人らしい雰囲気を三十七歳の男盛りの貴族に与えている。あくまで異端者との融和的な態度を崩さない国王に愛想を尽かせたパリ市民がバリケードをつくって迎え入れたのは馬車のなかで毛布にくるまる軟弱者ではないのだ。
「サン=プリは気がきくが、ききすぎるのがな」
忠実な召使は今朝、国王アンリ三世がギーズ公を暗殺せんと謀をしているという匿名の手紙を渡してきた。それも五通も。
「わたしはそのようなものに気を煩わせることはもうないのだ」ギーズ公は愛人の部屋を出て、忠実な召使に言った。「陛下とわたしのあいだに一切の秘密事はない」
それにあの、発育不良の植物みたいな貧弱な国王にそれだけの度胸があるとは思えない。とは、さすがに口にはしなかった。
それよりも寒かった。何も食べていないせいか、寒さがいつもよりも身を刺した。
ブロワ城に到着し、評議室に来てみると、弟のロレーヌ枢機卿と軍の将校がひとりいるだけで、三部会前の会議はまだ始まっていなかった。
将校が先を譲ったが、枢機卿が首を振ったので、将校が恐縮しながら、ギーズ公に拝謁した。
相談の内容は給与の未払いであり、すぐに支払われるだろうと約束した。続いて、ロレーヌ枢機卿がやってきて、閣下、猊下の形式ばった挨拶のあと、枢機卿が声を潜めた。
「母上にはお会いになりましたか?」
「いや」
「居館にいないと心配されていました。どこにいたのです?」
「わかるだろう?」
「ああ、そういうことですか」
「それで母上の用とは……まさか、暗殺の話じゃないだろうな?」
「ええ」
「サン=プリといい、母上といい――お前まで、真に受けたわけじゃないだろうな?」
なんとも言えないと肩をすくめた。
「何があるかわからない情勢です」
「心配しすぎで考えが引きずられるのはよくないことだ。いまのフランスで我々に対抗できる勢力は存在しない」
「スペイン海軍が見舞われた不幸を思い出してください」
「イングランドの女狐めが」
「国内の異端者たちが大いに勇気づけられました」
「それよりも、この部屋は寒いな」
「……隣で暖炉が焚かれています」
弟の心配を置き去りにして、控室に入ると、ギーズ公は暖炉のそばに立った。ふと、今日はまだ懺悔をしていないことを思い出した。そのことを枢機卿に話そうと思ったが、ああいう話の後に出す話題ではないと思い、体を温めることにした。
「サン=プリ、来てくれ」
まもなく召使があらわれ、ギーズ公は何か食べるものを持ってきてくれと命じた。しばらくして、サン=プリはプロヴァンス産のプルーンを盛った皿を手に戻ってきた。ギーズ公は手袋を外して、マントルピースに置くと、皿を受け取って、次々とつまんで、不機嫌な顔で甘い実を嚙み潰した。
「ああ、くそっ」
細く高い鼻から滴り落ちた血が皿に落ちて、彩色された夫人の顔に広がった。
「ハンカチだ。はやく」
「はい、閣下」
差し出されたハンカチで鼻を数度強くぬぐうと、血は止まった。
白髪の国務長官があらわれて、ひどく驚いた顔をした。
「閣下、それは?」
「鼻から垂れたのです。寒暖の差でしょう。それで、陛下は? ――もし?」
国務長官は顔を蒼くして、陛下は寝室でお待ちです、とだけこたえた。
ギーズ公は控室を出かけて止まった。
「何か?」
と国務長官がたずねると、
「手袋を忘れた」
暖炉のそばまで取りに戻り、手に自分の血が染みたハンカチを持っていることに気がついた。手袋を取って、ハンカチを置いていこうかと思ったが、結局、両方とも手にして、国務長官の後に続いた。
歴代王妃の肖像が並ぶ廊下を歩き、寝室のドアを近衛兵が開く。
碧の幕を四方から垂らした天蓋付きの寝台があり、そのそばに、紳士装束の近衛兵が四人。ギーズ公に気づくと、うやうやしく礼をした。
「それで、陛下は?」
ギーズ公の背後でドアが音を立てて閉まった。
近衛兵のひとりが剣を抜く。
ギーズ公の手が佩剣に触れるより先に近衛兵の剣が腕を貫いた。
「卑怯者! 暗殺だ!」
公は叫び、近衛兵の顔を血で染まったハンカチを握ったまま、左手で打ったが、別の近衛兵が足に飛びつき抱きかかえたので、公は倒れかけた。
「サン=プリ!」
そこに別の剣が閃き、首をかすめる。
「告解だ! せめて告解をさせてくれ!」
首をかすめた剣が、今度は後ろから背中を突き、腎臓を串刺しにして、公の肋骨のすぐ下から切っ先が飛び出た。
背中からの剣が刺さったまま、倒れたギーズ公の最期の思念は、誰が弟に自分の死を告げるのだろう?という、覇者に似合わぬ感傷的なものだった。
※ ロレーヌ枢機卿以外の登場人物はみな、カボチャパンツ、タイツ、そして、綿を入れてチンポコの形を強調したコッドピースを股間に着用しています。これを頭に入れて、もう一度読んでみましょう!
直垂って素晴らしい!




