第16話 ル=ヴァンの森②
森に入った瞬間、ユズハは眉をひそめた。
空気が重いわけではない。
湿っているわけでもない。
それなのに、肌に触れる感覚が妙にざらついている。
「……空気に傷って、なにそれ」
軽く言う。
だが足は止まっている。
ノアは少しだけ視線を上げ、森の奥を見る。
焦点は遠く、だが曖昧ではない。
「……線が通ってます」
「線?」
「空気が、細く削られてます」
ユズハは目を細め、同じ方向を見る。
だが何も見えない。
木々の隙間。影。葉の揺れ。
どれも普通の森の景色だ。
それでも、ノアの言葉を頭の中で転がす。
「……あー、はいはい」
思考が繋がる。
「それ、飛び道具ってやつじゃん」
「おそらく、弓を使ってきます」
「え、言っちゃうんだそれ」
「手間なので」
「ちょっとさぁ、今までの苦労どこいったのって感じなんだけど」
ユズハは笑う。
軽い調子のまま、ちらりとノアを見る。
「で? 対策とかあるわけ?」
「あります」
ノアは何でもないように藁ボックスを下ろした。
そして、その中に手を入れる。
次の瞬間。
弓を取り出した。
「……は?」
ユズハが固まる。
「ちょっと待って、なんで持ってんのそれ!?」
「森と言えば弓です」
「いやいやいや、そういう問題じゃなくない?」
ユズハの視線が弓から藁ボックスへ移る。
じっと見る。
嫌な予感しかしない。
「ねぇ、それ中見せて」
「嫌です」
「いいじゃん別に!」
強引に手を突っ込む。
――何もない。
「……え?」
もう一度探る。
底まで手を入れる。
だが、やっぱり空っぽだ。
「ちょっと待って、マジで何もないんだけど?」
「気のせいです」
ノアは肩をすくめた。
「いやいやいや、今めっちゃ触ったし」
顔を上げる。
「それさ、もしかして魔法のやつ? むぎわ的な?」
「いえ。森と言えば弓です」
ノアはわずかに首を傾げた。
「もういいってそれ!!」
ノアは気にした様子もなく、矢を取り出す。
さっきまで空だったはずの箱から。
ユズハは一瞬だけ固まり――すぐにどうでもよくなった。
「いやだからさ! それ先に出しときなって!」
弓をひったくる。
軽く構える。
狙いは雑だ。
だが――
放つ。
風を切る音。
遅れて、奥で何かが崩れる気配。
ゴブリンが一体、地面に転がった。
「……え」
ノアが目を見開く。
その瞳がわずかに揺れた。
「ユズハ。弓の経験は――」
「えー、なにそれ」
ユズハは笑う。
「引っ張って離したら飛ぶじゃん。めっちゃシンプルじゃない?」
ノアは息を呑む。
理解が追いつかないまま、目の前の結果だけを受け入れる。
その瞬間。
風切り音。
ユズハの身体が、わずかに横へズレる。
矢が通り過ぎた。
「……あっぶな」
軽い声。
だが動きは滑らかだ。
次の矢も、同じように避ける。
三本目も、流すように躱す。
「……ねぇこれさ、全然当たんなくない?」
ユズハは肩をすくめる。
ノアは視線を細める。
見えていない。
だが、整っていることだけは分かる。
ユズハが矢を拾い上げる。
「ま、回収すれば――」
放つ。
微妙にズレる。
「……ん?」
もう一発。
またズレる。
「ちょっと待って、これブレすぎじゃない?」
「羽、歪んでます」
即答だった。
「軸も、少し曲がってます」
「え、そんなの分かる?」
「分かります」
ノアは肩をすくめる。
矢を一本取り、軽く撫でる。
羽の角度を整える。
ほんのわずかな調整。
「木製の構造を整える時と同じです」
「いやいや、これ矢なんだけど?」
ユズハが撃つ。
今度は、真っ直ぐ飛んだ。
「……あ、戻った」
だが状況は変わらない。
矢は減る。
回収したものも、徐々に使い物にならなくなる。
ユズハは舌打ちした。
「ちょっとさ、もう矢ダメなんだけど」
「これ、使えると思います」
「へ?」
ノアが取り出したのは、別の矢だった。
羽根の揃い方が明らかに違う。
歪みがない。
「……なにこれ」
「試していたものです」
「試してたってレベルじゃなくないこれ」
「余裕があったので」
ノアは肩をすくめる。
「いやいや、全部それに使ったとか言わないよね?」
「必要な分だけです」
「いやそれ絶対全部でしょ!」
ユズハは半分呆れながら、矢を番える。
放つ。
一直線。
綺麗に飛ぶ。
「……え、なにこれ。めっちゃ違うんだけど」
「羽根を選別しています」
ノアはわずかに首を傾げた。
「……これさっきのと別物じゃん」
だが。
それでも終わらない。
敵はいる。
森は変わらない。
ノアが周囲を見た。
地面、木、空間。
全てを確認するように視線を巡らせる。
「……一度、止まります」
「は? ここで止まんの?」
返答はない。
動いた。
木を組む。
布を広げる。
天蓋を張る。
無駄のない動きで、それは形になる。
簡易とは思えない、整った構造。
ベッドだった。
「……え、藁じゃないの?」
「僕を軽く見ていませんか」
ノアは静かに言う。
「セレニア交易会にある僕のベッドも、木と綿と金属で構成されています」
「ちょっと待って、それ初耳なんだけど」
ユズハは眉をひそめる。
だが、その中に入った瞬間。
空気が変わった。
音が戻る。
圧が消える。
森の歪みが、ここだけ静まる。
「……なにこれ」
「ここなら大丈夫です」
ノアが言った。
ユズハは何も言わずに横になる。
抵抗する理由がない。
すぐに、眠りに落ちた。
◇
目が覚める。
ユズハはゆっくりと目を開けた。
「……は?」
見える。
森は暗い。
光はほとんど届いていない。
それなのに。
「……いるじゃん」
奥。
木の隙間。
葉の揺れ。
気配。
全部、分かる。
「ちょっと待って、普通に見えるんだけど」
「いますね」
ノアは答える。
「いやいや、見えてんだけどマジで」
「枕を調整しましたから」
「いやいやいや、枕でどうにかなる話じゃなくない?」
「首の角度が安定すると――」
「はいはいストップ! 聞いたあたしが悪かった!」
遮る。
だが。
身体が軽い。
迷いがない。
矢を放つ。
当たる。
次も。
その次も。
飛んでくる矢を、わずかにズラして避ける。
「……てかさ」
ユズハは笑う。
「マジで当たんなくない?」
ノアはその瞳を見る。
翡翠の瞳が、はっきりと光を帯びている。
ノアは、わずかに息を呑んだ。
ユズハは矢筒を見る。
「……あ」
一言。
「矢、ないんだけど」
森は、静かにそこにある。
まだ、終わっていない。




