第3話 怪しいパンフレット
マルシェリア冒険者ギルドは、今日も変わらず静かだった。
磨き上げられた床は足音を鈍く返し、規律正しく並ぶ受付には、無駄な動きも無駄な声もない。
白を基調とした空間は冒険者ギルドというより、どこか宮殿めいた冷たさすら感じさせた。
その静けさの中で、ユズハの声だけが妙に浮く。
「あたしはノリノリなの! でもノアが全然オッケー出さない!」
「ユズハさんが読まないからです」
「だって魔物の名前とか分かんないじゃん!」
受付越しに向かい合うセレナ・ルクレールは、表情を崩さないまま書類を整えていた。
「もう少しお静かにお願いいたします」
注意の言葉すら柔らかい。
だが、その柔らかさの奥にある距離感は相変わらずだった。
「依頼成功。見事です」
「はい」
「それにしても、あれから無理をしていないのですね」
観察するような声だった。
褒めているようで、同時に確かめてもいる。
ノアは余計な反応を返さず、ただ短く頷いた。
その直後、セレナが一枚の紙を差し出す。
「ですが、ユズハ様のお気持ちに私も応えたいですね。では、こちらを」
受け取った紙は驚くほど軽かった。
淡い色合い。
丸みを帯びた文字。
簡単な地図に、妙に楽しげな装飾までついている。
どう見ても危険な依頼書ではなく、子供向けの催しの案内にしか見えない。
ユズハが漸く分かるのは、ランクC相当という話くらい。
しばらく無言で眺めたあと、勢いよく顔を上げた。
「いやいやいやいやちょっと待って!? これ、“古代遺跡を探検しよう!”って書いてあるけど!?」
「気軽すぎない!? 絶対ヤバいやつでしょこれ!?」
紙をひらひら振りながら、さらに続ける。
「“複数パーティ参加で安心!”って何!? 安心要素どこ!? むしろ取り合いになるやつでしょ!?」
セレナはその反応を遮らず、ただ静かに答えた。
「複数のパーティが参加予定です」
「撤退は自由ですので、ご判断はお任せします」
押しつけるでもなく、引き止めるでもない。
ただ事実だけを置く言い方だった。
「いや、そもそもさ!」
ユズハはパンフレットを指で叩く。
「これ、報酬っていったい何なわけ!?ランクC以外に書いてないんだけど!?」
それともう一つ。
知らない言葉。
――および評価対象案件。
「あとこれ……どういう意味?」
セレナはわずかに間を取り、事務的な口調で説明する。
「この国には、複数ギルド要件という制度があります」
「一定以上のランクに到達した後、別のギルドでも実績を積むことで、上位組織――騎士団への道が開かれます」
「本案件は、その評価対象として扱われます」
その説明を聞いて、ユズハはゆっくりと顔を上げた。
「……あたし、関係なくない?」
あまりにも率直で、あまりにも核心だった。
「いやだってさ!? 騎士団とか、そういうのって上の人の話でしょ!? これ、あんたの話じゃないの!?」
そう言って、隣のノアを見る。
だが、ノアは静かに首を振った。
「違います。ユズハさんに関係があります」
「ないし」
即答だった。
「あたしはマルシェリアしか所属してないし」
するとノアは、いつもの調子で淡々と続ける。
「複数ギルドの制度は、田舎のギルド目線です」
「マルシェリアは中心だから、外で実績を積む側じゃない」
「え? そうなの?」
思わず素で聞き返したユズハは、そこから数秒考え込み、やがて少しだけ顔をしかめた。
「……あぁ、そっか。そもそもマルシェリアって、低ランク向けに出来てないし」
新人の頃から感じていた違和感が、ようやく形になる。
依頼の重さも、視線の意味も、空気の硬さも、全部そこに繋がっていた。
「だから“外で実績積め”って話になるんだ……」
だが、理解したところで納得は別だった。
「……いや、それでもあたし関係なくない?」
ノアはそこで、何気ない声音のまま言う。
「騎士団になれば、土地が持てます」
「ユズハさんの夢、近づく」
ユズハの思考が止まる。
「へ?」
次の瞬間には、勢いよく顔を逸らしていた。
「ち、違うし!」
「あたしの部屋のもの、勝手に見ないでよ!」
隠すような、誤魔化すような反応だった。
だが、それ自体が答えになっている。
その様子を見ていたセレナが、ほんのわずかに口元を緩めた。
「流石は田舎……」
言いかけて、滑らかに言い直す。
「……ではなく、ノア様ですね」
「今、田舎モノって言いかけたよね!?」
「気のせいです」
「気のせいじゃない!」
騒ぐユズハの横で、ノアはパンフレットを覗き込んでいた。
「古代遺跡か……」
小さく漏れた声は、しかし依頼そのものを見ていない。
視線は紙の上にありながら、思考は別の場所へ飛んでいた。
「湿度は安定しているはずだし、魔素も濃い」
「極楽鳥の羽毛、保存状態いいかもしれないな」
「は?」
ユズハが振り向く。
だが、ノアはそのまま続けた。
「ふわっと沈んで、でも沈みすぎない」
「体の輪郭だけ支えて、呼吸は邪魔しない」
「羽毛は軽いけど、層にすれば熱は逃げない」
「……あれなら、朝まで一度も目が覚めない」
口元が、気の抜けたようにゆるむ。
遺跡の危険ではなく、そこで組めるかもしれない寝床のことしか見えていない顔だった。
「……いいな、それ」
「いや待って!?」
ユズハが一歩踏み込む。
「なんで寝る前提なの!? そこ敵いるって話してるよね!?」
「ていうかさ! いつもみたいに、調節とか調整とか考えてる!? 絶対に考えてないよね!?」
ノアはようやく視線を戻し、至って真面目に答える。
「取る必要はないです」
「落ちてる分で十分だと思う」
「会話して!? あたしと会話して!?」
「落ちてるわけないでしょ!!」
その横から、セレナが静かに補足した。
「古代遺跡ですので、可能性がゼロとは言い切れません」
「なんで乗るんですか!?」
叫ぶユズハをよそに、ノアは短く言った。
「行く」
迷いはない。
理由も説明しない。
「いやいやいやいや!? ちょっと待って! 今の流れで!?」
だが、ノアはもうパンフレットを返していた。
「条件は成立してます」
「成立してないよ! いつもなら駄目って言ってるレベルだからね!?」
セレナは、そのやり取りを見ながらわずかに目を細めた。
「参加手続きは、こちらで行います」
その声音は穏やかだった。
けれど、まるで最初からそうなると分かっていたようでもあった。
◇
ギルドの外に出ると、空気が少しだけ軽くなる。
だが、それもほんの数歩だけだった。
ユズハは手に持った紙を見下ろす。
軽い。
あまりにも軽い。
この質感が、逆に不吉だった。
「……これ、ほんとに行くの?」
問いというより、確認に近い声だった。
「行く」
返ってくる答えは変わらない。
「はぁ……」
ユズハは大きく息を吐き、紙を軽く振る。
「絶対ヤバいやつだよね、これ」
ノアは返事をしない。
ただ隣を歩く気配だけが、変わらずそこにある。
少ししてから、ユズハはもう一度パンフレットを見た。
端をつまむ指先に、ほとんど重みが伝わってこない。
「……なんでこんな軽いの」
その呟きに答えるものは、どこにもなかった。
ノアはちらりと紙を見て、ほんのわずかに口元を緩める。
さっきと同じ、だらしない笑みだった。
「……極楽鳥」
「まだ言ってるの!?」
即座にツッコミが飛ぶ。
その声は夕方の通りに溶けていき、手の中にある軽い紙だけが、最後まで不釣り合いなまま残った。
軽そうに見える依頼だった。
だが、その軽さの下に何が沈んでいるのかは、まだ誰にも見えていない。




