第14話 寝起きのユズハは跳ねる
夜の畑は、ひどく静かだった。
風だけが通り、麦の穂を低く揺らしていく。
葉と葉が触れ合う音はある。
けれど、その擦れる気配さえ、どこか遠くで鳴っているみたいに薄かった。
ユズハは、納屋の中で目を閉じていた。
藁の上に横になっている。
だが、眠りは浅くない。
むしろ、その逆だった。
沈み込むように休んでいるのに、意識の芯だけが研ぎ澄まされている。
指先がわずかに動き、呼吸が静かに整っていく。
その時だった。
「……来る」
ユズハが目を開ける。
身体を起こし、そのまま一歩を踏み出す。
「……え?」
違和感が走る。
足が、軽い。
軽すぎる。
地面を蹴った感触が、ほとんど残らない。
力を入れている感覚も薄いのに、身体だけがするりと前へ出る。
もう一歩。
踏み込む。
速い。
明らかに、速い。
なのに、負荷がない。
どこにも引っかからない。
軽い。
軽すぎる。
その瞬間、昼間の言葉が繋がった。
「……っ、昨日の言葉ってそういう意味!?」
ユズハが振り返る。
ノアは、静かに頷いた。
「はい」
「ユズハさんの足がフル稼働すれば、攻略可能です」
「……最初から、これ前提!?」
「はい」
ユズハが歯噛みする。
「はぁ!?」
だが、次の瞬間には、もう地を蹴っていた。
速い。
予測より一段上、どころではない。
二段も三段も、身体の切れが違う。
ノアが、わずかに息を呑む。
足運び。
踏み込み。
重心移動。
すべてが想定より速い。
そして、速いだけじゃない。
正確すぎる。
ユズハのチェストプレートが月のない夜気を受けて鈍く光る。
偽りの柔らかな曲線を包むように、内側のワンピースの裾がひるがえる。
袖口から覗く柔らかな布が、レイピアの動きに遅れてふわりと舞う。
そして、えんじ色のポニーテール。
振り向きざまに、踏み込みざまに、夜の空気の中へ鮮やかな軌跡を描く。
まるで夜空に文字でも書くみたいに、しなやかに、鋭く、流れていく。
ノアは何も言わない。
ただ、その動きを目で追った。
地を抉る音がした。
重い。
複数。
気配が散る。
囲むように、広がる。
「左、二。正面、一」
ノアの声。
短く、無駄がない。
「了解」
ユズハは、もう迷わない。
「迎えます」
「は?」
「間に合いません」
「……はいはい!」
踏み込む。
前へ。
待たない。
寄せるのではなく、迎えに行く。
突進。
速い。
だが、直線だ。
ユズハが、ずれる。
それは回避というより、位置の書き換えだった。
相手の視界から、するりと消える。
次の瞬間には、もう内側。
レイピアが走る。
細く、鋭く、一直線。
狙うのは関節。
刺す。
鈍い音。
脚が沈む。
六本脚の均衡が、一気に崩れる。
巨体が転倒し、土を大きく削った。
まだ火すら吐けていない。
「前から思ってたけど!」
ユズハが次へ踏み込む。
えんじ色の髪が、弧を描いて跳ねた。
「左からも」
ノアの声。
短い。
ユズハの足が、もう勝手に動く。
視線を使わず、位置だけをずらす。
「どうして」
刺す。
崩れる。
「後ろです」
即応。
振り向かない。
踏み替えだけで、牙を紙一重で外させる。
袖がふわりと翻り、その直後に穂先のようなレイピアが走る。
「位置が分かるの!?」
牙が空を切る。
そのまま突き。
「不眠の」
ノアの声が、淡々と入る。
「聞いたあたしが」
ユズハが踏み込む。
軽い。
速い。
「……予感?」
横から回り込む個体。
だが、もう遅い。
「バカだった!」
加速。
一直線。
レイピアが、正確に脚へ入る。
均衡が崩れ、連携が壊れる。
一体がよろけ、もう一体がそれに絡む。
倒れる。
巻き込まれる。
六本脚の意味が、そこで消えた。
夜気が裂ける。
ユズハの足は止まらない。
えんじのポニーテールがひと振りごとに夜へ赤い線を描いていく。
それは戦いというより、風の中に形を刻む動きだった。
しなやかで、無駄がなくて、そして容赦がない。
静かになる。
風だけが通る。
麦が揺れる。
焦げは増えていない。
土も、大きくは抉れていない。
ユズハがレイピアを振る。
血を払う。
「……ほんとに当たらなかったんだけど」
「はい」
ノアは短く答える。
「なにこれ」
「設計です」
「設計ってレベルじゃないでしょ」
「想定通りです」
一拍。
ユズハがじっと見る。
「……いや、絶対盛ってる」
ノアは答えない。
ただ、ほんのわずかに息を吐いた。
「次はあんたがやりなさいよ」
「無理です」
「即答!?」
「僕は戦えません」
「いや戦ってたでしょ今!」
「していません」
ユズハが頭を抱える。
だが、その口元は、少しだけ笑っていた。
風が吹く。
麦が揺れる。
その中に、もう荒らすものはいない。
ユズハがふと周囲を見渡す。
「……あれ」
一歩、歩く。
倒れている巨体を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
……四つ。
さらに奥。
重なって見えなかった影。
もう一つ。
そして――。
「……ちょっと待って」
ユズハが振り返る。
「六体いるんだけど」
ノアは、そちらを見ない。
「はい」
「はい、じゃないでしょ!」
「最低三頭、とのことでした」
「増えてるじゃん!」
「想定範囲内です」
「絶対嘘でしょそれ!」
一拍。
ユズハが肩を落とす。
「……まぁいいや」
レイピアを肩に担ぐ。
「勝ったし」
ノアは静かに頷いた。
納屋の影から、老婆がゆっくりと出てくる。
戦いは、もう終わっていた。
倒れた巨体を、一つひとつ見ていく。
その足取りは、年寄りのものにしては妙に安定している。
「……見事だね」
低く、静かな声。
ユズハが肩で息をしながら振り返る。
「いやー、まぁ、なんとか」
軽く手を振る。
老婆は、まずユズハを見る。
次に、ノアへ。
その視線が、ほんの一瞬だけ鋭くなる。
値踏みするように。
だが、すぐに戻った。
懐から、小さな革袋を取り出す。
差し出す。
ユズハが首を傾げる。
「え?」
ノアは受け取らない。
視線だけを落とす。
「……報酬は、ギルド経由のはずです」
一拍。
老婆は、わずかに笑った。
「昔の癖だよ」
軽く、袋を揺らす。
「そっちも振り込んでおくから、チップだと思ってもらっとくれ」
空気が、ほんの少しだけ変わる。
ユズハがノアを見る。
「……チップ?」
「規定外です」
ノアが短く答える。
だが、視線は袋から外さない。
重さ。
革の質。
結び目。
どれも“慣れている”手つきだった。
金に。
支払いに。
そういう立場に。
老婆は気にした様子もなく、さらに言う。
「畑も無事だ」
「それに――」
一拍。
ノアを見る。
「面白いものを見せてもらった」
評価するような声音だった。
依頼主のそれではなく、観る側のそれ。
風が吹く。
外套が揺れる。
その内側の布が、一瞬だけ覗いた。
上質だった。
場違いなほどに、整った縫製。
ユズハは気づかない。
だが、ノアは――。
ほんの僅かに、視線を落とす。
「……ありがとうございます」
短く、受け取る。
老婆は何も言わない。
ただ、小さく頷いた。




