第9話 初体験
納屋の中は、思っていたよりもずっと広かった。
乾いた木の匂いの奥に、干し草の残り香がうっすらと混ざっている。
壁板の隙間からは細い風が通り、こもった空気を少しずつ押し流していた。
「ここ使っていいってさ」
ユズハが中を見回しながら言う。
視線は梁の上から床の端まで、ざっと一巡していた。
「いいね。風も入るし」
「はい」
ノアは短く頷き、そのまま床の様子を確かめ始めた。
土の上に敷かれた藁を手で払って、重なりを少しずつずらしていく。
固くなっている部分を崩し、柔らかい層が均一に残るように整えていく。
指先の動きは静かで、迷いがない。
寝返りを打った時に引っかからないように、表面の高さまでわずかに変えていた。
ユズハはその様子を、少し離れた場所からぼんやり眺めていた。
何をしているのかは分かるのに、やり方が妙に細かい。
「それ、やってるとさ」
「はい」
「なんか職人っぽいよね」
「そうですか?」
「うん。地味だけど」
ノアは答えず、最後に一度だけ全体を見回した。
それでようやく手を止める。
「ユズハさん」
「なに?」
「武器ですが」
ユズハは腰のショートソードを軽く叩いた。
「これだけど?」
「今回は、あちらを」
ノアが指差す。
納屋の隅には、農具がまとめて立てかけられていた。
「……フォーク?」
「はい」
ユズハは歩み寄り、一本を手に取った。
軽く振って、間合いと重心を測る。
「……あー」
すぐに理解する。
「これ、長いね」
「はい」
「数が来るなら、こっちの方がいいか」
「そうですね」
ユズハはそのまま、くるりと一度だけ回してみせた。
穂先の動きは素直で、思ったよりも扱いやすい。
「ちょっと楽しいかも」
「そうですか」
ユズハはフォークを脇に置き、そのまま藁の上に腰を下ろした。
ぐっと体重を預け、沈み方を確かめる。
「で、ここで寝るんだよね?」
「はい」
「ふーん」
手のひらで藁を押す。
もう一度、少し位置を変えて押してみる。
「……あれ?」
「どうかしましたか」
「なんかさ」
さらに一度押してみて、首を傾げる。
「ちょっと柔らかくない?」
「ベッドメイクしました」
「ん」
そのまま、どさっと横になる。
肩が沈み、腰が受け止められる。
「……あ、これいいかも」
「そう……ですか」
「何それ」
足を少し動かして、背中の落ち着き方を確かめる。
「いつもと違っ……」
「はい」
「……ねぇ……、ノア」
「はい」
「なんかさ」
天井を見たまま。
「落ち……る……」
「そうですか」
「う……ん……」
目を閉じる。
呼吸が一つ深くなって、そのまま言葉が途切れた。
「……まだ夜じゃないよね」
「はい」
「だ……ね……」
そこまでだった。
次の瞬間には、もう深い眠りに落ちていた。
ノアは一度だけその様子を見て、自分も藁の上に静かに寝る。
目を閉じ、余計な動きをせず、そのまま呼吸を整えていく。
「ベッド……」
そして寝息の隣で、もう一つ
「メイ……」
寝息。
◇
やがて夜が更けていく。
空気が冷え、納屋の外を抜ける風の質が変わる。
草を踏む音と、低い唸りが、闇の奥から少しずつ近づいてきた。
複数。
その瞬間、ユズハの目が開いた。
「――来た」
跳ねるように体を起こす。
その瞳が、ほんの一瞬だけ翡翠色に淡く光った。
確かに光った。
だが、それは次の瞬間には消えていて、本人は気づいていない。
ノアはわずかに息を呑む。
「行く」
ユズハはフォークを掴み、そのまま外へ出る。
夜気が一気に流れ込み、納屋の中の温度を押し下げていった。
暗いはずの畑で、ユズハは迷わなかった。
どこに何がいるのか、最初から分かっているような動きだった。
「そこ」
走る。
一直線ではない。
わずかに角度をずらしながら、足場の良い場所だけを拾っていく。
踏み込みが軽い。
速度が、まるで落ちない。
メイジジャッカル。
細い体。
口元に集まり始めた火。
詠唱に入る。
だが、遅い。
「遅い」
踏み込む。
間合いの外から、一気に内側へ滑り込む。
フォークの穂先が喉元へ伸びる。
体ごと押し込む。
一体目。
魔法、未発動。
「……いける?」
短く息を吐く。
まだ余裕がある。
次の気配。
右。
振り向くより先に、体がそちらへ流れる。
腰を切り、足を入れ替え、視界が自然に繋がる。
そこにいる。
火が弾ける前に、もう踏み込んでいた。
「近づけば――」
距離を潰す。
そのまま突く。
「関係ない!」
二体目。
腹を貫く。
火球が横をかすめる。
だが、もう遅い。
「あたし、戦ってる?なに……これ」
思わず漏れる。
足が軽い。
息も乱れない。
次。後ろ。
位置が分かる。
「……そっちじゃない」
一歩だけずらす。
火球が空を切る。
そのまま踏み込む。
突く。
三体目。
倒れる。
囲まれない。
無理に動かない。
動けば、そこにいる。
四体目。
詠唱に入る前に潰す。
突き。
倒す。
五体目。
距離を取ろうとする。
「逃がすか」
踏み込む。
追いつく。
突く。
倒す。
最後の一体が逃げる。
ユズハは迷わず加速した。
一気に距離を詰める。
背中へ。
突く。
貫く。
静かになる。
風が戻る。
ユズハはフォークを下ろし、息を吐いた。
肩で息をすることもない。
まだ動ける。
余裕がある。
「凄い……ですね」
ノアが歩いてくる。
急ぎすぎず、遅れすぎず、ちょうどいい歩幅だった。
「終わりましたか」
「終わったっていうか。ノア、あたし、もっと」
ユズハが振り返る。
「ねぇ」
「僕も驚いてます」
「でも、なんかさ」
少し笑う。
「めっちゃ調子いい」
「そうですか」
「うん」
フォークを軽く振る。
手の中の重さが、まるで邪魔にならない。
「……なんかした?」
「寝床づくり」
「だよね」
ユズハはあっさり頷く。
「まぁいいや」
くるっと回る。
「まだ、夜だし。二度寝しよ。これ、絶対に無理してるし」
二人は納屋へ戻る。
夜は、そのまま静かに終わった。
◇
朝の光が、納屋の隙間から細く差し込んでくる。
「んー……」
ユズハが、ゆっくりと体を伸ばす。
目を開けて、数秒だけぼんやりした。
それから体を起こす。
「……?」
肩を回す。
足を動かす。
「軽っ」
思わず声が出た。
「なにこれ」
立ち上がる。
違和感がない。
疲労が、どこにも残っていない。
「あたし、初めてだったんだよ?あんだけ動いたよね?」
「……動いていました」
ノアはすでに起きていた。
「もう、そうじゃなくて!」
ユズハは腕をぶんぶん振る。
「絶対に来ると思ったの!」
「そうですか」
「……なんかした?」
「ベッドメイキング?」
「だよね」
ユズハはあっさり納得する。
「ま、いいや。なんか調子いいし」
そのまま外へ出る。
朝の畑に風が通り、麦の穂が静かに揺れていた。
荒れた跡はある。
だが、新しい被害はない。
「おお……!」
納屋の方から、農家の男が走ってくる。
「もう終わったのか!?」
「終わったよ」
ユズハが軽く手を振る。
「いた分は全部潰した」
「本当か……!」
「ボス個体もユズハさんが倒しました」
「へ?そうなの?」
ユズハの顔に答えず
ノアは書類を渡した。
「暫くは出ません。ダクネス現象の再発生は読めませんが」
男は畑を見回し、何度も頷いた。
「……助かった……本当に助かった……」
「まぁEだしね」
ユズハは軽く言う。
「これに記しておく。ギルドに持っていけばいい」
手早くペンを走らせ、紙を差し出す。
「これで問題ない」
「了解」
ユズハはそれを受け取る。
「ありがと」
「こちらこそだ」
男は深く頭を下げた。
「本当に助かった」
「また出たら呼んでよ」
「……いや、できればもう出てほしくないがな」
「まぁね」
ユズハは笑う。
そのまま、くるっと振り返る。
「じゃ、戻ろっか」
「はい」
二人は畑を後にする。
朝の風が、土の道の上をゆるく流れていく。
しばらく無言で歩く。
足音だけが続く。
「ねぇ」
ユズハが口を開く。
「はい」
「なんかさ」
空を見上げる。
少し考える。
「これが冒険者?」
「依頼は成功です」
「うん」
足を止めて、その場で軽く動いてみる。
踏み込む。
回る。
止まる。
「まだ動けるし」
「はい」
「全然疲れてない」
ユズハはノアを見る。
「普通じゃないよね?」
「えっと……それは」
「いや、普通じゃないでしょ」
即答だった。
少しだけ間。
「……まぁいいや」
ユズハは肩をすくめ
また歩き出す。
数歩進んで、ふと思い出したように振り返る。
「細かいことはいいんだけど、一個だけ教えてよ」
「細かいこと……はい……」
「あたし、魔物が来る前に起きたのって偶然?」
ノアは少しだけ考えてから答える。
「寝心地が悪いと起きる、普通じゃないですか?」
「……あ」
目を丸くする。
「それもそっか」
あっさり納得する。
軽く頷く。
「はい」
「納得した」
満足そうに笑う。
「じゃあ問題なし」
「そうですか」
「うん」
また歩き出す。
少しだけ間。
「あとさ」
「はい」
「フォーク、ありだね」
くるっと回して見せる。
「思ったより使いやすかった」
「そうですか」
「うん」
少し笑う。
「あの。借用物なので」
「分かってる!もう、浪漫ないなぁ」
「そうですか」
「うん」
また少し歩く。
街が近づき、人の気配が戻ってくる。
「……あ」
ユズハが思い出したように言う。
「なにか」
「報酬いくらだっけ」
「確認していません」
「え?」
「ユズハさんが選んだので」
「えー」
少し顔をしかめる。
「まぁいいか」
すぐに笑う。
二人はそのまま、街へ戻っていった。




