第1話 知らない街、大きな街
朝の光が、街の外壁をやわらかく撫でていた。
低い石造りの家々。
白く塗られた壁に、淡い影が落ちる。
窓辺には小さな花。紫や黄色が、控えめに揺れている。
通りはまだ静かだった。
石畳は夜の冷たさを残し、空気は乾いている。
遠くで鐘が鳴り、どこかの店が扉を開ける音がした。
街の外へと続く道。
その先には、緩やかな丘が連なっている。
緑が広がり、風に撫でられて波のように揺れる。
穏やかな景色だった。
戦いとは無縁のような、何も起きない朝。
その中で。
ギルドの扉が、背後で閉まる。
さっきまでの喧騒が、嘘みたいに遠ざかった。
ノアは、とぼとぼと歩き出す。
視線は落ちている。
行き先はない。
ただ、足だけが前に出る。
――ドン。
「うわっ」
肩に衝撃。
体が揺れる。
反射的に踏みとどまる。
「……すみません」
ぶつかった相手は、ちらりとこちらを見ただけで、そのまま人混みに消えた。
ノアは軽く頭を下げる。
それから、もう一度歩き出そうとして――止まる。
違和感。
背中に意識が向く。
「……あれ」
軽い。
やけに軽い。
何も背負っていないみたいに。
「……そっか」
小さく呟く。
「藁、ないからか」
そう思って、歩こうとして。
また止まる。
「……いや」
違う。
そんな単純じゃない。
軽すぎる。
肩も、腰も、どこにも負荷がない。
まるで、ずっと何かを背負っていたこと自体が間違いだったみたいに。
「……おかしい」
手が背中へ伸びる。
何もない。
当然だ。
藁は、もうない。
――でも。
指が止まる。
腰へ。
紐。
あるはずのもの。
――ない。
「……え」
空を掴む。
もう一度、触る。
それでも、ない。
「……ない」
ゆっくりと、繋がる。
さっきの衝撃。
一瞬の接触。
「……やられた」
財布。
分け前として受け取った金貨。
全部、持っていかれた。
ノアは、その場に立ち尽くす。
怒りはない。
ただ。
「……どうしよう」
ぽつりと漏れる。
生活が詰むほどではない。
もともと、持っているものは少ない。
だが。
――夢は、違う。
ギルド。
パーティ。
少しだけ見えていたもの。
それが、もうない。
手の届かない場所に行った。
遠くへ。
完全に。
ノアは顔を上げる。
街は変わらない。
人も変わらない。
朝の光は、同じように石壁を照らし、
丘の向こうでは風が草を揺らしている。
ただ、自分だけが取り残されたみたいだった。
その時。
コツン。
「……?」
手に、何かが当たる。
反射的に受け止める。
掌の上。
金貨が、一枚。
視線が落ちる。
少し考える。
腰を探る。
やっぱり、ない。
「……すられたのか」
今さらみたいに思う。
それから、手の中の一枚を見る。
しばらく、黙っていた。
全部持っていかれても、おかしくなかった。
なのに。
「……一枚は、返してくれたんだ」
ぽつりと呟く。
理由は分からない。
ただ。
胸の奥に、妙な感覚が残る。
軽くもない。
重くもない。
言葉にしにくい、何か。
指先で、金貨を転がす。
その重みが、やけに現実的だった。
スリにさえ、同情された。
はぁ、と小さく息を吐く。
……情けない。
自分でも、そう思う。
ノアは、金貨を握る。
ぎゅっと。
それだけで、思考を切り替える。
もういい。
ここに残る理由は、ない。
この街では、続けられない。
なら。
行くしかない。
別の場所へ。
ノアは歩き出す。
通りへ出る。
馬車が行き交う。
出ていくもの。
入ってくるもの。
流れがある。
その中で、ノアは一台の馬車に近づいた。
「……あの」
御者がちらりと見る。
「なんだ?」
「乗せてもらえますか」
「行き先は?」
「……大きい街まで」
曖昧な言い方。
だが、御者は肩をすくめる。
「大きい街ねぇ……」
一拍。
口の端を上げる。
「ちょうどいい。マルシェリア行きだ」
ノアは、わずかに顔を上げる。
商人の街。
人も、金も、流れる場所。
聞いたことはある。
「金は?」
ノアは金貨を差し出す。
御者の眉が上がる。
「……釣りは出ねぇぞ」
「いいです」
間を置かずに言う。
「お釣りは、いりません」
少しの沈黙。
御者はノアを見る。
軽い。
装備もない。
荷物もない。
だが、迷いはない。
「……乗りな」
短く言う。
「ありがとうございます」
ノアは荷台に上がる。
木の板。
硬い。
揺れる。
寝心地は、良くない。
それでも。
座る。
膝に手を置く。
背中は、空っぽ。
何もない。
馬車が動き出す。
街が、ゆっくりと離れていく。
白い壁も、花も、石畳も。
やがて、小さくなる。
遠くには、朝日に照らされた丘が広がっていた。
風が草を揺らし、まるで何も変わっていないかのように世界は続いている。
ノアはそれを見ていた。
最後まで。
何も言わずに。
ただ。
ほんの少しだけ、目を細める。
夢は、遠のいた。
それでも。
道は、続いている。
◇
馬車は、何日もかけて進んだ。
カルンを離れ、土の道をなぞる。
緩やかな丘。風に揺れる草。
白い壁の家と、低い屋根。
踏めば沈む。
均せば応える。
そんな地面だった。
ノアは、それを当たり前のように触っていた。
止まるたびに、しゃがむ。
指で確かめる。
靴でならす。
わずかに整えるだけで、違いは出る。
朝、分かる。
足取りが変わる。
だが。
ある地点を越えたあたりから、感触が変わる。
石が増える。
最初は、ところどころ。
やがて、道の大半を占めるようになり。
ついには。
土が、消える。
踏む。
沈まない。
逃げない。
硬い。
夜。
馬車が止まる。
「ここでいいだろ」
御者が言う。
ノアはしゃがむ。
指で触れる。
冷たい。
乾いている。
押す。
動かない。
砂を寄せる。
靴でならす。
変わらない。
均そうとする。
均せない。
角度を変える。
変わらない。
――できない。
その事実だけが、残る。
それでも。
癖で手を動かす。
寄せる。
踏む。
途中で止まる。
「……はは」
小さく笑う。
乾いた音。
「……意味ないか」
手を離す。
中途半端なまま。
そのまま座る。
硬い。
逃げない圧。
体が覚えている。
本来なら、どうすればいいか。
だが。
ここでは、何もできない。
その夜。
眠りは浅かった。
沈まない。
分散しない。
圧が、抜けない。
数日後。
景色が、変わる。
畑が消える。
土が消える。
代わりに。
石。
壁。
ガラス。
光を反射する面。
直線。
人工の形。
門をくぐる。
その瞬間。
ノアは、理解する。
ここには。
土が、ない。
石。
どこを見ても石。
足元も。
壁も。
通りも。
すべてが固められている。
隙間がない。
人が流れる。
絶え間なく。
声。
金属音。
車輪。
匂いが混ざる。
油。
香料。
熱。
土の匂いは、どこにもない。
見上げる。
建物が空を切る。
ガラスが光を返す。
眩しい。
だが。
冷たい。
石とガラス。
それだけで出来た、場所。
――砂漠だ。
ノアはそう思った。
踏む場所はある。
だが。
踏み場はない。
整える余地がない。
休める場所がない。
馬車が止まる。
「着いたぞ。マルシェリアだ」
降りる。
背後で馬車が去る。
音が遠ざかる。
残るのは、人の流れ。
◇
人混みの中。
えんじ色の髪の少女は、歩いていた。
光を受けて、わずかに赤を帯びる髪。
暖かい色。
だが。
その周囲は、冷たい。
石。
ガラス。
直線。
この街は、整いすぎている。
だからこそ。
異物は、すぐに分かる。
ぶつかる。
軽い衝撃。
振り返る。
倒れる。
石の上に。
「……は?」
思わず声が出る。
視線の先。
男。
細い。
軽い。
そして。
浮いている。
この街の中で、明らかに。
服。
田舎っぽい。
布の質。
色。
手入れの跡はある。
だが。
街のそれじゃない。
髪。
鈍色。
ボサボサ。
整えられていない。
「……まさかね」
小さく呟く。
あり得ない。
この街で、ここまで“外”のままの人間。
だが。
視線が止まる。
「……でも」
一歩、近づく。
しゃがむ。
顔を覗き込む。
呼吸はある。
浅い。
限界。
石の上。
逃げ場がない。
休める場所がない。
「……はぁ」
ため息。
「久々に買い物に行ったらこれ?」
肩の袋が揺れる。
パンと、包まれた肉。
本来なら、通り過ぎる。
この街では、それが普通だ。
だが。
もう一度、男を見る。
軽い。
このままなら、消える。
簡単に。
「……はぁぁ」
頭を掻く。
「今日ツイてな」
立ち上がる。
周囲を見る。
客待ちの馬車。
「……ちょっと」
手を上げる。
「乗るのかい?」
「うん。人一人」
顎で示す。
「料金は割増だぞ」
「いいよ」
即答。
二人で持ち上げる。
軽い。
「……軽いな」
「でしょ」
荷台に乗せる。
一瞬、手が止まる。
顔を見る。
「……ほんと、何なのよあんた」
呟く。
それから乗り込む。
「どこまでだい?」
「……うち。分かるよね」
御者が苦笑する。
「あぁ、あの辺か」
手綱が鳴る。
馬が動く。
石畳を進む。
整いきった街の中を。
その上に。
場違いなままの男を乗せて。
えんじ色の髪の少女は、横目でそれを見る。
「……運悪いのか、運いいのか」
ぽつりと呟く。
その声には。
ほんの少しだけ。
興味が混じっていた。




