第7話 ダンジョン攻略ミッション⑦
巨体が動いた。
通路を埋めるように、一角ホブゴブリンが踏み込む。
その瞬間、空気が潰れた。
ただ大きいだけではない。
速い。
その質量に似合わない踏み込みだった。
岩を削るような足音。
支柱が、わずかに軋む。
灯りの火が揺れ、壁に映る影が膨れ上がる。
「来るぞ!」
ハルトが叫ぶ。
前衛が受ける。
ロイドが盾を構え、正面に立つ。
「任せるであります!」
激突。
鈍い音が通路いっぱいに響いた。
金属と肉の衝突音ではない。
もっと硬く、重く、嫌な音だ。
盾の芯まで震わせる一撃。
だが、押し返しきれない。
ロイドの足が滑る。
踵が岩を削り、火花が散る。
「重い……!」
ライガが横から斬り込む。
シエラの魔法が通路を焼き、ケインが側面へ回る。
ルナが詠唱を通し、ミナが流れを整える。
形は出来ている。
だが、それでも。
「……足りない」
ハルトが低く言った。
視線は、角へ。
届かない。
異様だった。
あの角は、ただ頭に生えているだけではない。
黒く濁り、根元が脈打つように膨らんでいる。
岩塊を無理やり捻じ曲げて刺したような、不自然な太さ。
表面には何かを擦り潰したような赤黒い跡がこびりついていた。
顔もひどい。
ホブゴブリンの面影はある。
だが、その比率が壊れている。
顎は裂け、鼻は潰れ、片目は白く濁り、もう片方だけがぎらついている。
筋肉は膨らみすぎて、まるで皮膚の下で別の生き物が蠢いているみたいだった。
でかい。
ただ大きいのではない。
見ているだけで、こちらの間合いが壊される大きさだ。
「でかすぎる」
ケインが吐き捨てる。
想定より、一回りどころではない。
踏み込み一つで距離感が狂う。
肩を振るだけで、前衛の立ち位置が崩される。
削れている。
こちらが。
斬れてはいる。
焼けてもいる。
押してもいる。
だが、止まらない。
押しても、押し返される。
その間にも、視線が走る。
あの濁った片目が、揺れる。
こちらを見ている。
見て、選んでいる。
誰を狙うか。
「……チッ」
ライガが舌打ちする。
次の瞬間。
フィナの回復が、わずかに遅れた。
ほんの一瞬。
呼吸一つぶん。
だが、それで十分だった。
視線が収束する。
「来る!」
ケインが叫ぶ。
一直線。
フィナへ。
「フィナ!」
ライガが踏み込む。
だが、間に合わない。
その前に割り込む影。
ロイド。
「通さないであります!」
激突。
今度は、止まらなかった。
「ぐっ……!」
弾かれる。
ロイドの体が宙を浮き、地面に叩きつけられる。
盾ごと持っていかれた。
受けたのではない。
押し潰されたのだ。
止めきれない。
空いた。
ハルトが踏み込む。
視線は、まだフィナへ。
間に合うか――
「引く!」
鋭い声が割り込んだ。
一瞬、全員が止まる。
「撤退!」
重ねる。
迷いはない。
押しても届かない。
このまま続ければ、どこか一枚が剥がれる。
それを、全員が理解していた。
ライガがフィナを引く。
シエラが魔法で遮断する。
煙が視界を塞ぐ。
ケインが側面を切り、ルナとミナが動きを整える。
距離を取る。
下がる。
主坑道へ戻る。
追撃は来ない。
ただ、奥で動かず、こちらを見ている。
待っている。
追うか、待つか。
その判断すら、向こうにあるように見えた。
その視線を残したまま、距離が開く。
やがて、気配が遠ざかった。
呼吸だけが残る。
◇
少し離れた位置で、ハルトが短く言った。
「……角は、無理だ」
誰も口を挟まない。
「届かない」
「高さも間合いも足りてない」
ルナが頷く。
「正面からでは通らない」
ミナが続ける。
「流れを固定する必要がある」
ハルトは地図を軽く叩いた。
「作る」
「その形を」
ライガが息を吐く。
「……簡単に言うなよ」
「簡単じゃない」
ハルトは即答した。
「だから引いた」
それで終わりだった。
誰も、その判断に異論はない。
あれは押し切る相手じゃない。
崩して、剥がして、ようやく届く相手だ。
◇
拠点に戻ると、誰もすぐには言葉を発さなかった。
それぞれが装備を外し、腰を下ろす。
金具の鳴る音が、妙に大きく響く。
無事ではある。
だが、余裕はない。
「……強ぇな」
ライガが呟く。
それは感想ではなく、確認に近かった。
「想定以上だ」
ハルトが短く返す。
ケインが壁にもたれかかる。
「長引いたら削られるな」
ルナが言う。
「単体の強さじゃない」
ミナが続ける。
「崩れない」
「押し続ける」
ドルトが無言で肩を回す。
ロイドは盾の縁を確かめ、歯を食いしばる。
フィナだけが、まだ少し呼吸を乱していた。
選ばれた。
その感覚が、身体に残っている。
◇
ノアは、既に動いていた。
床を整え、藁を敷き直し、布の位置を変える。
手が止まらない。
少しでも良くする。
それが当たり前だった。
戦闘の反省より先に、休息の修正に入っている。
「……早いな」
ロイドが呟く。
座っただけで分かる。
違う。
さっきまで通路でこびりついていた重さが、もう抜け始めている。
呼吸が深くなる。
肩が落ちる。
奥歯の噛み締めが、自然に緩む。
「ほんと……」
シエラが目を細める。
「反則でしょ、これ」
ライガが笑う。
「助かってるけどな」
ケインが壁から背を離す。
ドルトも一度深く息を吐く。
ルナは短く目を閉じ、ミナは肩の力を抜いた。
違う。
明らかに、さっきまでと違う。
戦場の中に、ここだけ“夜”がある。
眠れる空気がある。
◇
「今日はここまでだ」
ハルトが言う。
「明日、もう一度当たる」
誰も反対しなかった。
無理に押せば、確実に崩れる。
それは全員が理解している。
◇
それぞれが寝床に入る。
藁の上に体を預ける。
沈む。
支えられる。
呼吸が自然と深くなる。
力が抜ける。
意識が落ちる。
静かになる。
初めてだった。
この炭鉱に入ってから、こんなふうに静まるのは。
ただ一人。
フィナだけが、横にならなかった。
壁にもたれ、膝を抱える。
視線は落ち着かない。
呼吸が浅い。
あの瞬間が、離れない。
視線。
選ばれた感覚。
あと一歩遅れていたら、という実感。
眠れない。
だから、起きていた。
ただ、それだけだった。
「……大丈夫?」
小さく声をかける。
ノアだった。
フィナは顔を上げる。
「うん、大丈夫」
笑う。
だが、薄い。
「ちょっと、まだ起きてるだけ」
「……そっか」
ノアはそれ以上言わない。
責めない。
励まさない。
ただ、そのまま自分の寝床へ戻る。
足音も立てない。
藁の沈む音だけが小さく鳴る。
◇
時間が過ぎる。
静かなまま。
誰も起きない。
呼吸だけが揃っている。
フィナは、目を閉じなかった。
天井の暗がりを見る。
支柱の影を見る。
耳を澄ませる。
遠くで、何かが鳴いた気がする。
あるいは、まだ頭の中に残っているだけかもしれない。
眠れない。
だから、起きていた。
ただ、それだけだった。




