第8話 キュプロス砦の番人⑧
夜は、何も変わらなかった。
陣形も。
進行も。
合図も。
すべてが、前日までと同じように流れる。
ミッドナイト隊が森へ入る。
暗闇に溶けるように散開し、それぞれの位置へ滑り込んでいく。
木々は高く、枝葉は空を覆い、月明かりすら細く砕かれていた。
地面は湿っている。
踏みしめるたび、土の奥から冷たい匂いが立ちのぼる。
風はある。
だが、それは森を抜けない。
葉を揺らし、枝を鳴らし、どこかで止まる。
まるで、森そのものが息を潜めているようだった。
やがて。
光が一瞬、走った。
撤退の合図。
誰も声を上げない。
誰も振り返らない。
流れるように、気配が引いていく。
残るのは――一人。
ノアだけだった。
「……あれ?」
周囲を見回す。
静かだ。
だが、異常だとは思っていない。
「まぁ、いっか」
軽く呟く。
それから視線を落とした。
地面。
藁が散っている。
しゃがみ込む。
指でつまみ、軽く撫でる。
繊維の向き。
乾き具合。
折れ方。
「……いいな」
小さく頷く。
一本ずつ選り分けていく。
長さを揃え、固いものを弾き、柔らかいものだけを残す。
音もなく、手が動く。
そこに戦場の緊張はない。
ただの作業だった。
少し離れた場所に、白いものを見つける。
「……これ」
手に取る。
綿のような植物。
軽く裂くと、ふわりと広がる。
繊維が細かい。
空気をよく含む。
「使えそうだな」
匂いを嗅ぐ。
刺激はない。
むしろ、ほんのりと甘い。
ノアはそれをまとめて抱えた。
地面を見る。
硬い。
冷たい。
湿っている。
「ここはダメだな」
視線を上げる。
木々の配置。
風の流れ。
湿気の抜け方。
枝の重なり。
夜露の落ちる位置。
ほんの少しだけ、場所をずらす。
「……ここか」
決まる。
そこからは早かった。
藁を組む。
層を作る。
綿を挟む。
空気を含ませる。
地面から浮かせ、冷気を遮断する。
手順に迷いはない。
何度も繰り返してきた動きだった。
形が整っていく。
やがてそれは、繭のような構造になる。
外気を遮り、内側に熱を留める。
ミノムシのように、すっぽりと包み込む寝床。
「よし」
ノアは中へ潜り込む。
体を預ける。
軽く動いて、沈み方を確かめる。
「……いいな」
満足そうに呟く。
目を閉じる。
呼吸が、ゆっくり落ちていく。
数秒。
すぐに眠りへ沈んだ。
森は静かだった。
静かすぎた。
遠くで何かが鳴いた。
近くで枝が擦れた。
けれどそのすべてが、ひどく遠い。
包まれた寝床の中だけが、別の世界みたいに温かかった。
その少し後。
影が一つ、森に入った。
音はない。
足取りは軽い。
だが、迷いはない。
シャルルだった。
口元には、いつもの笑み。
だが、その奥は冷えている。
獲物を見る目だった。
やがて。
木々の間に、不自然な塊を見つける。
「……本当にやってる」
小さく呟く。
理解はしている。
だが、納得はしていない。
あれで、生き延びている。
それが気に入らない。
手が動く。
投げナイフ。
一閃。
空気を裂き――
繭を支える部分を、正確に断つ。
ミノムシが落ちた。
鈍い音。
わずかに揺れる。
「……これでいい」
淡々と呟く。
戦う必要はない。
このまま放置すれば、魔物が来る。
終わりだ。
もし逃げるなら。
その時は、自分が殺す。
それだけの話。
だが。
「……ん」
中で、動いた。
次の瞬間。
「あれ。落ちちゃった」
間の抜けた声が、夜に溶ける。
シャルルの眉が、わずかに動いた。
繭の中から、ノアが顔を出す。
眠そうに、周囲を見回す。
そして。
「あ、シャルルさん」
軽く手を上げる。
状況を理解していない顔で。
「そこ、危ないですよ」
一拍。
沈黙。
「……あ?」
低い声が返る。
「危ないのはお前だろ」
冷たい視線。
「力もないくせに」
事実だった。
だが。
「いえ」
ノアはあっさり否定する。
「僕の周りの木々の裏に、ダクネス現象が頻発してるんです」
「……へ?」
思わず、声が漏れる。
意味が分からない。
だが。
その瞬間だった。
ざわり、と。
空気が変わる。
気配が増える。
木々の影が濃くなる。
闇そのものが、形を持って寄ってくる。
次々と。
影の中から、魔物が現れる。
キラーコンバット。
リッチデッドウルフ。
数が、多い。
多すぎる。
枝の上。
倒木の陰。
窪地の奥。
さっきまで見えていなかったものが、いっせいに輪郭を持つ。
「……」
シャルルの目が細まる。
状況を測る。
多い。
位置が悪い。
包囲されている。
「……多いな」
小さく呟く。
それでも、動く。
踏み込む。
一体を切り裂く。
無駄はない。
正確。
速い。
次。
次。
次。
だが。
減らない。
影が増える。
包囲が狭まる。
羽音と腐臭が、四方から重なる。
その中で。
「だから言ったじゃないですか」
後ろから、気の抜けた声。
ノアだった。
状況を理解していない顔で、普通に立っている。
「ここ、良くないですよ」
淡々とした指摘。
シャルルは振り返らない。
ただ、わずかに舌打ちする。
その時。
背後から――光。
強い光が、森を切り裂いた。
夜が、一瞬で白に染まる。
影が弾ける。
魔物の動きが止まる。
空気が変わる。
「おーい! 無事か!」
明るい声。
聞き慣れた声だった。
木々の間から、人影が現れる。
ライガ。
ロイド。
シエラ。
フィナ。
暁紅蓮隊。
光を背に、立っていた。




