第6話 キュプロス砦の番人⑥
昼の砦は、わずかに緩んでいた。
朝の張り詰めた空気は薄れ、石壁の影に腰を下ろす者や、武具の手入れに没頭する者の姿が目立つ。
だが、完全に気が抜けているわけではない。
誰もがどこかで周囲を意識している。
声の大きさ。
視線の向き。
立つ位置。
──見えない規律が、そこにあった。
「……あんたら」
低い声が、静かに差し込む。
ロイドが顔を上げた。
ガイルが、少し距離を取った位置に立っていた。
周囲を一瞥する。
一度。
二度。
誰も聞いていないことを確認してから、ようやく近づく。
だが、それでも足は止まりきらない。
半歩だけ、距離を残す。
「例のガキと、組んでるな」
「……ノアのことか」
「あぁ」
短く肯く。
それ以上、前置きはない。
「ここじゃな」
声が、さらに落ちる。
喉に引っかかるような、低さ。
「弱ぇ奴は……消える」
ロイドの眉が、ぴくりと動いた。
「……事故、って話じゃないのか」
ガイルは笑う。
だが。
音がない。
口だけが動いている。
「事故に“見せてる”だけだ」
即答だった。
迷いも、含みもない。
だが。
その指先が、わずかに震えていた。
「夜のあれも、そうだ」
「……あれってのは」
「分かってるだろ」
それ以上は言わない。
言わないが。
言葉の隙間にあるものは、十分すぎた。
ロイドは、息を一つ吐く。
「……間引き、か」
「言い方はどうでもいい」
ガイルは肩をすくめる。
その動きが、わずかに硬い。
「誰も騒がねぇ。そういうもんだからだ」
淡々とした声。
だが、その奥に。
擦り切れたような乾きがあった。
「……見たことあるのか」
ロイドが問う。
ガイルは、止まる。
ほんの一瞬。
呼吸が止まる。
視線が、わずかに逸れる。
石壁。
地面。
誰もいない空間。
そして。
「……さぁな」
とだけ返した。
短い。
軽い。
だが。
その声は、明らかに浅かった。
ロイドは、それ以上追わない。
追えば、崩れると分かる。
ガイルもまた、話を切るように背を向けた。
だが。
一歩目が、わずかに遅れる。
「余計なことは考えんな」
それだけ言い残す。
その声は、先ほどよりも小さい。
そして。
何事もなかったかのように離れていく。
だが。
二度、振り返りそうになって。
結局、振り返らなかった。
◇
少しの沈黙。
「……どう思う」
ロイドが低く言う。
隣で腕を組むシエラは、すぐには答えない。
視線を落とし、ゆっくりと考える。
「つまり……意図的に、ってことだろ」
「……そうね」
だが、肯定は曖昧だった。
「でも、断定はできないわ」
「何が引っかかる」
「証拠がない」
即答だった。
「話としては筋が通ってる。でも、それだけよ」
風が、砦の上を抜ける。
シエラはその流れを目で追いながら、続けた。
「合理的ではあるわね。弱いのを切るなら」
「納得はできねぇな」
「アタシもよ」
あっさりと同意する。
だが、その声は冷静だった。
「だからこそ、分からない」
そこで、会話が途切れる。
ロイドは、少しだけ視線を落とし──
「……で、ノアは」
と、口にした。
「あいつなら──」
シエラが答えようとした、その時だった。
「お疲れさまです」
間の抜けた声が、横から差し込む。
ロイドが反射的に振り向く。
「……お前」
そこに、ノアがいた。
いつもの調子で、軽く手を上げている。
「どこ行ってた」
「ちょっと周り見てました」
あっさりと返す。
そして、二人の顔を見比べて首を傾げた。
「何の話してたんですか?」
「……いや」
ロイドが言葉に詰まる。
シエラが、静かに口を開いた。
「昨日の夜のことよ」
「昨日?」
ノアは一瞬だけ考えて。
「あぁ」
納得したように頷く。
「大丈夫ですよ」
軽く言う。
「ちゃんと寝れてますし」
その一言で。
会話が、止まった。
ロイドが黙る。
シエラも、何も返さない。
ただ。
ほんの僅かに、目を細める。
「……最初に言われた通りです」
ノアは続ける。
「夜はぐっすり眠れるみたいで」
悪びれもなく、そう言った。
風が吹く。
誰も、言葉を返さない。
返せない。
やがて。
「……そうかよ」
ロイドが、低く吐き出すように言った。
それ以上、何も続かなかった。
◇
夜。
森は、昼とは別の顔を見せていた。
音が少ない。
風はある。葉も揺れる。
だが、それが逆に静けさを際立たせていた。
バルカスは、一人で歩いていた。
灯りは持たない。
足音も殺している。
ただ、目的だけを持って進む。
確認する。
あの少年が、どうやって生き残っているのか。
森の奥へ。
影が濃くなる。
視界が狭まる。
その中で。
違和感が、あった。
空間に、何かが“ある”。
いや。
“整っている”。
足を止める。
目を細める。
そして。
「……は?」
思わず、声が漏れた。
木と木の間。
枝と布が、幾重にも巻き付いている。
風を遮り、外気を断つように。
地面から完全に浮かせるように。
組まれている。
即席で。
だが。
異様なほどに“完成している”。
それは──寝床だった。
だが。
普通じゃない。
完全に包まれている。
繭のように。
ミノムシのように。
その中心で。
ノアは、眠っていた。
静かに。
何の疑いもなく。
よく眠れている顔で。
風に揺られ、その塊がわずかに軋む。
不気味だった。
理解できない。
意味が分からない。
だが。
形だけは、はっきりしている。
──“正しい”。
バルカスの足が、わずかに後ずさる。
理屈が、拒絶する。
経験が、否定する。
それでも。
目の前のそれは、崩れない。
数秒。
固まる。
そして。
「……いや」
ぽつりと漏れる。
次の瞬間。
「いや!そうはならんだろっ!」
思わず声が上がった。
抑えきれない、純粋な否定。
その声が、森に吸い込まれる。
「……ん……」
ノアが、わずかに身じろぎする。
だが、それだけだ。
起きない。
気づかない。
ただ、眠り続ける。
風が吹く。
ミノムシのようなそれが、ゆっくり揺れる。
バルカスは、その場に立ち尽くした。
言葉は、もう出てこなかった。
理解も、まだ追いついていなかった。




