第5話 キュプロス砦の番人⑤
朝の空気は、いつもと変わらなかった。
焚き火の残り香。
湿った土の匂い。
まだ低い太陽の光が、砦の石壁を淡く照らしている。
誰もが淡々と準備を進めていた。
昨日の続きのように。
何事もなかったかのように。
──一人、足りないはずだった。
だが。
そのことに触れる者はいない。
ミッドナイト隊の面々は、互いに視線を合わせることもなく、ただ静かに装備を整えている。
消えた人間の話題など、最初から存在しなかったかのように。
それが、この組織の“普通”だった。
だから。
「おー!ノア!」
場違いな声が、その空気を軽く裂いた。
ライガが、大きく手を振っている。
「生きてたか!」
「よかったぁ……!」
フィナも、心底ほっとした顔で駆け寄る。
その先にいるのは──
「おはようございます」
何事もなかったかのように、ノアが立っていた。
軽く土を払いながら、いつもの調子で挨拶をする。
服は少し汚れているが、目立った外傷はない。
息も乱れていない。
ただ、普通に朝を迎えた人間の顔をしていた。
「お前、どこにいたんだよ」
「森で寝てましたけど」
あっさりと返す。
「寝てたって……いや、お前な……」
ライガが呆れたように頭を掻く。
フィナは「すごいね……」と素直に感心している。
そのやり取りを、少し離れた位置から見ていた影があった。
バルカスだ。
葉巻を咥えたまま、ゆっくりと歩み寄る。
足音は小さい。
だが、確実に距離を詰めてくる。
「……お前」
低い声が落ちる。
「どこにいた」
「え?ですから、森で」
ノアは首を傾げた。
「ちょっと地面が硬かったですけど、まぁ、寝れました」
それだけだった。
特別なことは、何一つ言っていない。
ただ事実を述べただけの、軽い口調。
バルカスは、数秒だけ黙る。
視線を外さないまま、煙を細く吐き出した。
ノアの靴。
裾の土。
指先。
順に見る。
乱れは、ほとんどない。
「……そうか」
それ以上は、何も言わなかった。
そのやり取りを、さらに遠くから見ている男がいる。
シャルルだ。
細い目のまま、いつもの柔らかい笑みを浮かべている。
その視線は、ノアとバルカスを順に追い──
ふっと、興味を失ったように逸れた。
──まぁ。
内心で、軽く結論づける。
バルカスが処理したのだろう、と。
そういうことにしておくのが、この組織では一番自然だった。
◇
夜は、また訪れる。
同じように隊が分かれ、同じように配置が決まる。
ノアは、再びミッドナイト隊に組み込まれた。
誰も反対しない。
誰も何も言わない。
ただ、同じ手順が繰り返される。
森の奥。
闇の中で、光が一瞬だけ走る。
短く。
長く。
短く。
合図だ。
静かに、しかし確実に。
人の流れが、引いていく。
残されたものに、気づかれないように。
音を消し。
気配を断ち。
慣れきった動きで。
◇
翌朝。
「おはようございます」
同じ声が、同じように響いた。
ノアが戻ってきていた。
昨日とほとんど変わらない姿で。
軽く肩を回しながら。
「今日の方が寝やすかったですね」
「慣れてんじゃねぇか、お前……」
ライガが苦笑する。
「すごいね、ノアくん……」
フィナも、少し呆れながら笑った。
それだけだ。
会話は、そこで終わる。
だが。
周囲は静かだった。
ミッドナイト隊の人間たちは、誰も近づこうとしない。
視線だけが、ちらりと向けられては、すぐに逸らされる。
昨日より、ほんのわずかに距離がある。
まるで。
触れてはいけないものを見るように。
バルカスが、再び歩み寄る。
「……お前」
短く呼ぶ。
「本当に、一人だったか」
「はい」
即答だった。
迷いも、含みもない。
「普通に寝て、普通に起きただけです」
そう言って、肩の土を払う。
その動きも、いつも通りだった。
バルカスは、何も返さない。
ただ、視線を落とし、葉巻の先を軽く弾いた。
灰が落ちる。
それ以上は、踏み込まなかった。
少し離れた位置で。
「……あれ?」
シャルルが、小さく呟いた。
声にもならないほどの、かすかな違和感。
すぐに笑みに紛れて、消える。
だが。
その視線だけは、もう一度だけノアをなぞった。
◇
そして、三度目の朝。
空気は、同じだった。
何も変わらないはずの、いつもの朝。
焚き火。
匂い。
光。
すべて同じ。
ただ一つ。
“戻ってくる回数”だけが、増えていた。
「おはようございます」
ノアが、そこにいる。
変わらない調子で。
変わらない声で。
「この辺、風通し良いですね」
軽く言って、周囲を見回す。
それだけで終わるはずだった。
だが。
バルカスは、動かない。
視線を固定したまま、葉巻を咥えている。
煙だけが、静かに昇っていく。
何も言わない。
ただ、見ている。
そして──
「……ねぇ、バルカス」
柔らかな声が、横から差し込んだ。
シャルルだ。
いつものように笑っている。
いつものように、細い目をしたまま。
「ちゃんとやってる?」
軽い調子。
冗談のような声音。
だが。
そこには、わずかな“間”があった。
バルカスは、短く答える。
「……あぁ」
「そっかぁ」
シャルルは頷く。
それで終わるはずの会話。
だが──
その指先が、わずかに止まった。
ほんの一瞬。
呼吸が、半拍だけ遅れる。
そして。
細く閉じられていた目が、わずかに開く。
その奥で。
何かが、揺れた。
笑みとは別の、温度のない光が、かすかに滲む。
「じゃあさ」
声は、変わらない。
柔らかいまま。
けれど。
ほんのわずかに、重さが混じる。
「なんで、あれが戻ってくるの?」
その一言で。
空気が、止まった。
誰も動かない。
誰も言葉を発さない。
ただ、視線だけが──
一斉に、ノアへと向く。
当の本人は。
「え?」
きょとんとした顔で、首を傾げるだけだった。




