第4話 キュプロス砦の番人④
夜の森は、重かった。
湿った空気が肌に絡みつく。
視界は狭く、音は遠い。
昼とは、まるで別の場所だ。
「……ここからは静かに行くぞ」
低い声が落ちる。
バルガスだった。
オールバックの男。
いつもの葉巻は咥えていない。
代わりに、その目だけが鋭く光っている。
「相手はキラーコンバットとリッチデッドウルフだ」
短く告げる。
「空と地上、両方来る」
周囲の連中が、無言で頷く。
言葉は要らない。
この隊は、それで通じる。
「陣形を組む」
指示が飛ぶ。
「前衛、三。間隔を開けろ」
「中衛、左右に散れ。魔法は温存」
「後衛は中央。崩れるな」
淀みがない。
無駄もない。
慣れきった動きだった。
各々が、指定された位置へ滑り込む。
確認はない。
それでも崩れない。
この隊は、完成されている。
「お前は最後尾だ」
バルガスがノアを見る。
「後ろの警戒。簡単な仕事だ」
「……分かりました」
ノアは頷いた。
疑問は持たない。
言われた通りに動く。
それでいい。
それで――この隊は回る。
行軍が始まる。
足音を殺す。
枝を踏まない。
呼吸を抑える。
森の奥へ。
ゆっくりと、沈むように進む。
やがて。
音が来る。
上空。
羽音。
「来るぞ」
小さな声。
次の瞬間。
影が滑空する。
キラーコンバット。
巨大なコウモリ。
音もなく接近し、爪を振るう。
「迎え撃て」
バルガスの声。
同時に動く。
前衛が受ける。
中衛が斬る。
後衛が支える。
淀みがない。
迷いもない。
流れるような連携。
次の瞬間。
地面が裂ける。
腐臭。
リッチデッドウルフ。
崩れた肉を引きずりながら、低く唸る。
「崩すな」
短い指示。
隊列は乱れない。
受ける。
削る。
仕留める。
静かに。
確実に。
戦闘は長く続かなかった。
問題はない。
むしろ――余裕がある。
夜の森であっても。
この隊は崩れない。
だからこそ。
成立する。
バルガスは、わずかに手を上げた。
ほんの小さな動き。
だが。
一人が気づく。
次に繋がる。
さらに後ろへ。
光が走る。
指先で弾いたような、小さな光。
短く。
長く。
短く。
規則的な点滅。
声はない。
だが、意味は共有されている。
――撤退。
全員が理解している。
全員が従う。
静かに。
自然に。
後退を始める。
音を立てない。
気配を消す。
森の中へ溶けるように。
誰一人、振り返らない。
誰一人、確認しない。
必要がないからだ。
最後尾は――切り捨てる。
それだけのこと。
◇
静かだった。
「……あれ?」
ノアは前を見た。
誰もいない。
さっきまで、確かにあった気配が消えている。
「……はぐれた?」
そう思った。
置いていかれた、とは考えない。
自分が遅れたのだと。
それだけの認識。
一歩、進む。
足音が、やけに大きく感じる。
いや。
周囲が静かすぎる。
「……あれ?」
もう一度。
同じ言葉。
返事はない。
その時だった。
上から影が落ちる。
バサッ、と。
キラーコンバット。
鋭い爪が振り下ろされる。
「うわっ」
反射的に身を引く。
ギリギリで避ける。
距離を取る。
さらに。
地面が軋む。
腐臭。
リッチデッドウルフ。
低く唸りながら、間合いを詰めてくる。
「……うわ、最悪」
思わず漏れる。
囲まれている。
助けは来ない。
その状況を、ようやく理解する。
「……まずいかも」
小さく呟く。
だが。
その直後だった。
ノアの視線が、ふと逸れる。
木。
幹。
枝の張り。
葉の付き方。
一歩、下がる。
さらに視線を巡らせる。
地面。
草。
湿り気。
空気の流れ。
音の抜け方。
「……あ」
何かに気づく。
そのまま、しゃがむ。
手を伸ばす。
草を摘む。
指先で擦る。
「これ……」
感触を確かめる。
湿り。
繊維。
ほぐれ方。
その間にも。
上では羽音が回る。
地上では唸り声が近づく。
だが。
ノアの意識は、そこに向いていなかった。
「……やっぱり」
小さく呟く。
ポケットに手を入れる。
取り出したのは、白い綿。
高級宿で使われていたもの。
柔らかく、軽い。
「持ってきててよかった」
ぽつりと漏らす。
夜の森の中で。
魔物に囲まれながら。
その言葉だけが、静かに落ちた。




