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第6話 続・キュプロス砦の番人②

 老婆は、慈しむようにゆっくりと背筋を伸ばした。

 使い古された杖に体重を預ける様子もない。

 その足取りは驚くほどに軽く、凛としている。

 かつての老いを感じさせない、すっと一本の糸で吊られたような立ち姿だった。


「ほれ」


 その場で躊躇なく一歩。さらにもう一歩。追加で跳躍。

 淀みのない足運びに、周囲を囲んでいた若者たちの間に微かな驚きが走った。

 マリーは満足げに少しだけ胸を張り、柔らかな陽光を浴びて微笑む。


「どうじゃ。腰の具合、すこぶる良い」

「……いや、元気すぎでしょ。何その変わりよう」


 翡翠の瞳の少女は、呆れたように目を細めた。

 えんじの長い髪を揺らし、ユズハは目の前の「元気すぎる老人」を値踏みするように見つめる。

 その傍らで、茶色の無造作な髪を掻き上げた青年が、毒気を抜かれたように立ち尽くしていた。

 ディルクにとって、この百歳を超えるという老婆との対面は今日が初めてだった。

 人伝に聞いていた噂では、死を待つばかりの、歩くことすらままならない「伝説のヨボヨボ婆さん」だったはずなのだ。


「おい、ちょっと待て……。聞いてた話と全然違うじゃねぇか。数ヶ月前に誰かが言ってた百歳の生ける伝説様ってのは、もっとこう、墓場に片足突っ込んでるような枯れ木みてぇな婆さんじゃなかったのかよ!シャンとしすぎてて、嘘だろって言いたくなるぜ」

「ノアのベッドで寝たから」

「ノアベッド無敵かよっ!」


 不作法な猜疑の言葉に対し、百歳を超える番人は不快感を示すどころか、その瞳を怪しく、深く光らせた。

 正面から、青年を舐め回すようにじっくりと観察し始める。

 使い込まれた衣服の綻び、無骨な指の節々、そして内側に秘められた荒々しくも純粋な魔力の律動。

 まるで解剖台の標本を透視するような、ねっとりと絡みつく視線に、茶髪の青年は思わず背筋を震わせた。


「くくっ、威勢のいい小僧じゃ。骨格も悪くない。……良い“器”を持っておるのう」

「……ッ、何見てやがんだ。キモチわりぃな」

「違うのう。杖を鳴らすまでもなく、“普通”がこうなのじゃ。今までが、歪んでおっただけじゃな」


 老婆は愉快そうに喉を鳴らし、手にしていた杖を軽く地面に突いた。

 鈍色の髪をした少年は、何も言わずに静かに頷いた。

 説明を求めず、ただ目の前の事実を鏡のように受け入れるノアの瞳には、一切の困惑も宿っていない。

 その傍らで、セレナは静かに目を伏せた。

 世界を修復する力が、この老いた身体に何をもたらしたのか。その意味を、彼女だけは重く理解していた。


 老婆は、遠くで慌ただしく動き回る騎士たちの列へと視線を流した。

 月の下に翻る王国の旗。磨き上げられた鎧の輝き。

 だが、その勇壮な外見とは裏腹に、そこにある気配はひどくバラバラで、芯が欠落している。


「さて……見ておるか。報告はどうした! 指揮は誰が取っている! 勝手に動くな!……。命令が、重ならない。繋がらない。現場ごとに、それぞれがそれぞれの正解で動いている。だから――噛み合わない。消耗だけが、積み重なっていく」


 現場を飛び交う怒号は、空しく夜の闇に霧散していく。

 騎士団の失態を突きつけられ、甲冑の女性は何も言い返せず、ただ唇を噛み締めて目を逸らした。

 

「それだけではない。順に、見てきた。――これじゃ」


 老婆は懐から一枚の古びた紙を取り出し、ぴらりと風に揺らした。

 そこには「古代遺跡を探検しよう!」という、およそ戦場には似つかわしくない軽妙な宣伝文句が躍っている。

 翡翠の瞳の少女が、不快そうに顔をしかめた。


「……何よ、それ。ただの子供騙しのビラじゃない」

「最初は、選別じゃ。誰が残るかを見るためのな。遊びで国は守れぬ。結果は出た。暁紅蓮、青葉の剣。立てる者は、残った。――おぬしたちもな」


 老婆は楽しげに紙を指で弾き、若者たちの顔を順番に見渡した。

 えんじの長い髪をなびかせ、ユズハは驚きに目を見開き、その髪を跳ねさせて声を上げた。


「……え? あたしたちが、選ばれたってこと?」

「見ておったぞ。最初からな。次じゃ。白鷺の紋章。仮面を被ったまま、上に居座る者。中身の伴わぬ看板。不要じゃ。だから、退けた」


 老婆は淡々と、しかし容赦のない選別を語った。

 茶髪の青年が、さらに訝しげに目を細める。


「……あの傲慢な連中を追い払ったのも、あんたの仕業かよ。とんだ食わせ物だな」

「儂の腰が、いや――ノアベッドが早うあれば、こうはならずに済んだものを。今、必要なのは――騎士ではなく、冒険者じゃ」


 老婆はふっと肩の力を抜き、小さく自嘲気味に笑った。

 その一言が、研ぎ澄まされた刃のように場を貫く。

 秩序を守るための騎士ではなく、混迷を切り拓くための冒険者。その指名が、静寂の中に重く落ちた。


「南方の砦が臭う。そこに行ってもらえぬか」


 一瞬の沈黙。

 夜の大地を冷たい風が吹き抜け、少年の背負った藁束が微かに擦れる音がした。

 その静止した時間を、茶色の髪の青年が力強い踏み込みで破った。


「――行ってやろうじゃねえか。ノアばっか褒められて、気に入らねぇしな。俺の実力も見せてやるよ。技術こそが次の時代だって証明してやる」

「は? あんたに言われなくても行くわよ。あたしたちを誰だと思ってるの」


 えんじの長い髪を揺らし、少女もまた負けじと前に出る。

 鈍色の髪を揺らし、少年は静かに、けれど確固たる意志を込めて頷いた。


「うん。行こう」


 三人の足音が、夜の大地に力強く重なった。

 言葉で誓い合うこともなく、彼らの視線は同じ南の空を、そしてその先にある嵐の予感を見据えていた。


 ある意味での未来のカタチ。

 老婆は満足げに微笑んだ。


「セレナや。やはり冒険者はよいのぅ……」

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