二章3 隠れた秘密
もはや更新のタイミングなんて、あって無いようなもの……。
遠くで誰かの話し声がする。
車の音が水溜まりをはじいた。びゅうびゅうと風の音が大きくて息遣いはわからない。どこの音だろう。
「……このみー、寒そう」
夜まで外にいたんだろうか。
『あっ、氷空だ! どしたの氷空、何かあった?』
電話口から、嬉しそうな祥平の声が返ってくる。いつもの祥平の声だ。
氷空の口角が自然と上がる。はずむ声だけで世界を変えるなんて魔法みたいだ。
『寒くないよ、氷空が電話くれたらぇー全部吹っ飛んじゃう!』
ちょっと呂律が回っていない。
氷空も疲れ切っていた。この祥平に何を聞いて、どう話すのが正解だろう。戻ってきてと頼む気なんて、氷空にはない。
悠梨たちとは違うのだ。
祥平は、氷空が頼めば何でも快諾する。氷空もそうだが、祥平は……そのために何でも投げ捨ててしまいそうなのだ。
「……んーとね、このみー何してるかなって、声聴きたくて……このみーかっこいい! から」
あれから氷空が電話を掛けるのは二回目だ。母に祥平のことを聞けば、考えさせてと先延ばしされてしまった。
母は祥平に口止めされていたようだ。
――『ほんとはしょうくんね~、学校でうまく行ってないみたいなのよ~。でも、和楽器サークルにはちゃんと行ってるから、サークルのおかげで学校行けてるのかもね。みんないい子でしょう?』
母もサークルは知っていた。祥平にとって大事な場所だったらしい。ショックだった。
氷空の代わりにやめたなんて言えなかった。
電話口では、はぁっと嬉しそうに祥平が息を漏らした。何かを話す様子もなく、ただ氷空の言葉に恍惚としていた。
祥平の秘密主義は、本当にただのドッキリ好きだろうか。学校でうまく行っていないってどういうことだろうか。
祥平との会話の中に、祥平自身の姿はない。不自然なくらい、氷空は祥平のことを知らない。
「このみー何してたの?」
氷空は受話器を握りしめた。会って話す分、祥平は何を犠牲にしているだろう? 電話に出る時は?
たとえ危ない場所にいても、祥平はすぐに電話に出るんじゃなかろうか。
だって祥平の何かを壊してしまっても、きっと氷空は気づけない。
『あのね、氷空がかっこいいって……俺はかっこいい、嬉しい、ありがと氷空。ぁあ……こないだも電話くれた、ふふっ、それにね、氷空にもいっぱい会えた! あのね氷空』
「あの、このみー、何してたの? なんで、教えてくれないの?」
言葉が噛み合っていない。祥平は何を見て、何を聞いているんだろうか? 朦朧としていたと、水月は言っていなかったか。
こんなの機械との会話みたいだ。キラキラしてどうしようもなく兄神様で、いつ話しても格好良い。
でも実態のない眩い光は、いつ消えてしまうかわからないのだ。
『ん……どしたの氷空、元気ない? えっとね、氷空のこと考えてたよ! 不安なの? もしかして学校やめたい? 入学おめでたくない? 嫌なことあった? いじめられ』
「ち、違うっ、そうじゃない、あのね、びっくりして」
――あぁ、いつもの祥平だ。
残酷すぎるぐらいいつも通りだ。結局氷空を心配する。声のトーンが硬く張り詰めて、笑顔の中でみるみる変わっていく。
氷空のこと以外に、祥平の視線はどこか攻撃的だ。
『あ……そっか! うふふ、びっくり!』
何事もなかったかのように、祥平は明るく笑って言った。
『いじめるやついたら教えてね、俺がこわすからね、守ったげるから……ふふっ、氷空のことまもるの、俺が守る』
「――執着心」
氷空は呟いた。
あゆみは妄執と言っていたか。そんなのわかっている。
「このみーあのね、次の……そう、次の家族旅行、どこが良いかな」
『りょこう……あっ、りょこう! うんとね、氷空が行きたい場所がいい!』
ほら、また氷空の名前だ。
祥平の話を聞きたいのに。
「そうじゃなくて! あのねこのみー、春休みの温泉、あたし、忙しいから無理って言われて……でもほんとは、このみーが断ったって」
『は? 誰が?』
ぴしっと空気が凍り付いた。
氷空は戸惑って視線を台所に向ける。誰がと言えば、今の母だ。炒め物を作っているらしく、ぱちぱちと油の跳ねる音がする。
聞いちゃまずかっただろうか。
『んんー、断った? 何を? 氷空の旅行、邪魔しないよ? するわけない。えーと、氷空が温泉に行く話、愛衣さんに聞いた。で、楽しんできてくださいって、ちゃんと応援して』
「えっ、なんで? 家族旅行だよ、このみーも家族なんだよ! お母さんも誘ったけど断られたって」
電話先からは沈黙が返ってきた。何かの虫が鳴く声がする。パシャっと水が跳ねる音がした。
もしかして氷空は、とんでもなく祥平を困らせているんだろうか。
「だからっ、あたし、今度はこのみーの好きな場所に、しようって……」
『んー? よくわかんない、けど……俺が好きな場所? ん-とね、氷空がいる場所』
途方に暮れてしまった。
だが祥平も困惑しているらしい。いつもの元気も喜びもない。難しいことはないはずなのに。
祥平が行きたい場所はないのか? 一緒に旅行するのがそんなに難しいのか?
「……このみー、あたしがいる場所、好きなの? 行きたい?」
もしかして祥平は、本当に氷空以外どうでも良いんだろうか。それは困る。
『っ――うんっ、好き! 行きたい! あのね氷空がね、同じ学校でね、いっぱい会えて幸せでぇー、すっごく嬉しい。氷空がいるからずーっと頑張れちゃう! 氷空をまもる……!』
祥平はあっという間に、いつもの調子を取り戻した。氷空が知る祥平は、満開の花畑で陽を浴びて生きている。
サークルでの会話もそうだった。だがそれは、氷空が側にいるからなのだ。きっとこれは、嘘ではないが本物でもない。
例えば、祥平は……。
「ずーっと……苦しくても? 痛くても怖くても、休みなく頑張るの?」
氷空のために、簡単に死んでしまえるのだろうか。
『んー? 疲れない! あのね、息しても痛くないし、怖くない。それと一緒!』
氷空は後悔した。氷空の側が良いと、祥平は言ったじゃないか。
『……ふふっ、氷空の最強の兄神様、でしょ?』
思い直したように、祥平が囁いた。低く落ち着いて、随分と優しい声音だった。
強張った氷空の力が融けたように消える。祥平は氷空の不安を癒すのが上手だ。父が死んだ時も、別居が決まった時もそうだった。
――『これからはもっともっと! 氷空と会うのが特別で楽しみになるね』
「……うん、このみーはかっこよくて、最強の兄神様」
電話先の祥平の目がとろんとしたのがわかった。氷空が褒めると祥平の視線は、いつもとろとろに熱を持つ。
きっと何でもしてくれる。だから何でも返したい。
でも――死ぬのは違う。失った命は何の役にも立たない。生きたまま全力で恩返しする。命を捧げるってそういうことだと氷空は思う。
「でも……あのね。このみーすごくかっこいいけど、あたしわがままだから。もっと、知りたい」
祥平にはどうしたら伝わるだろうか。
全てを犠牲にする必要はない。まずは自分を大事にしてほしい。今氷空がバカップルの夢を語れば、祥平は喜んで相手を見繕うだろう。氷空が望んだ恋愛模様を演じるために、コントロールしやすい相手を選ぶのだ。
氷空はそんなことを望んでいるわけじゃない。
「秘密いっぱい、かっこいいけど……あたしも仲間になりたい。だからね一個だけ、こっそり教えて。あたしとこのみー、二人の秘密にするの」
きゅうっと心臓が縮まった。
驚くほどに血の気が下がっていく。こんなの詭弁だ。指先が震えて止まらない。汗が滲んで受話器を落としそうだ。
『……俺の、秘密……? 俺の?』
祥平は心底戸惑っているようだった。
風の音で声が掻き消えそうだ。無理やり暴かなくても良い。祥平が望んで捨てる想いなら、氷空が気にする必要はない。それでも。
「うん。あたしじゃなくて、このみーのこと」
『氷空はいっつも、俺のこと見てる。俺のほんとのこと、全部知ってる……』
そんなバカな。
いくら何でも――いや、祥平は嘘はつかない。きっと本当にそう思っている。
……なんで?
いつもドッキリって言っていたじゃないか。秘密主義で氷空が最優先で、話を誘導するのが上手い。何より自分を話さない。
全部を知っているはずないのだ。
「あ、あたしっ、何にも……このみーのクラスも、仲良しの人も、ちょっと前まで部活も学校も知らなかったっ!」
『えっ、クラス? 部活……ぁ、氷空……そんなの、聞いたよ、全部きいた。氷空は一年五組で、部活は――』
何を言っているんだ? 明らかに噛み合っていない。
通話先の祥平の様子がおかしい。聴こえる呼吸が浅い。
『氷空……氷空は、和楽器サークルに……入った』
「このみー? ちが、わないけど違う、そうじゃなくて、このみーのクラス、あたしじゃなくてこのみーの――あのっ!」
氷空は慌てて遮った。なんでそうしたかわからなかった。
「じゃなくて! それが聞きたいって意味じゃなくてっ、何でも良いんだよ、このみーの新しい……そう、新情報!」
『俺の知ってる、新情報……?』
違う、なんか違う気がする! けど、氷空は少しほっとしていた。
この際それで良い。祥平の知っていることならきっと、祥平の身の回りのことのはずだ。今はただ、その呼吸が少しでも落ち着けば良い。
いきなり核心が出てくるとは思えない。でも祥平は既に、大事な居場所を手放してしまった。そしてその決意すら、氷空が頼めば簡単に翻る。
氷空のために。
そうさせないためには、氷空が知っていないければと思うのだ。
『えと……あっ、その。氷空が、喜ぶなら……えと、えっとね、昔の……そうだ、氷空』
……恥ずかしがっている。
祥平が照れている。
「喜ぶ! あたしすごく喜ぶから、聞きたい!」
『ぁ、この木の実――えと、公園に生えてた丸いの、覚えてる?』
氷空は言葉に詰まってしまった。
……この木の実? 祥平は今どこにいるんだ? 木の実を手に持っているのか?
「それって、えと、このみーがあたしのこと、助けてくれた時の」
『ん、この木の実ね、むくろじって言うの。これ見てね……頑張れたんだよ? 勉強の休憩にずっと見て転がしててね、ころころ……ころころ……ふふっ、高校合格したの! 氷空のおかげ』
氷空は声を出さないまま「むくろじ」と音をなぞる。
聴いたことがある。無患子という縁起の良い当て字があったはずだ。
「……このみー、あの公園知ってるの? あたし場所、わかんなくて」
あの日は父の車で遠出したのだ。
祥平と二人で遊んでいて、氷空は多分気の迷いで木に登ったのだ。別に運動が得意なわけじゃない。登れそうだから登ってみた。そうしたら……。
『ん……場所は、わかんない……けど、この木の実、おんなじの見つけて、むくろじって書いてあった! あのね、羽根突きの羽根に使うんだって。これとね、氷空が貸してくれたショールも大事にしてるの』
貸したショール? そんなのあっただろうか。
氷空ですら覚えていないことも、祥平は――いや、あれ?
これじゃ意味がない。
結局完全に氷空の話だ。そんなに祥平の世界には、氷空しか存在しないのだろうか。
『氷空を守る……これ見てるとね、氷空のこと守ろうって思えるから、だからね、もっと……絶対いっぱい氷空を守るの! 何してでも……氷空? どしたの?』
祥平は明るく自慢げだ。見えない視線が全て氷空に向いているのだ。この愛情に応えなきゃいけない。氷空は丸ごと受け止めなきゃいけない。
――ちょっと重いと、初めて思った。
「……あたしは――あたしね、大丈夫だよ、このみーが応援してくれて、良くなったんだよ、元気になったよ。このみーがかっこいいから」
『うんっ! 氷空を守れるならね、いつでも――何回でも、守るの! だって氷空のこと守れるでしょ? すっごく楽しくて、何でもできる気がするんだ、なんでも……なんでも』
――まあ、良いか。
嬉しそうな祥平の声を聞いていると、氷空まで幸せな気分になる。祥平は後悔していないんだ。
サークルに戻るのも悠梨の勘違い。祥平はやめて幸せそうだ。
『だからね、氷空がいれば、無敵になれる! ふふっ、あのね氷空っ、一個だけの秘密、かっこいい?』
「ん、かっこいい! ありがとこのみー、また今度……あのね、一緒に遊びたい! 次の家族旅行ね、絶対行こうね!」
祥平の返事はない。だがそれで良いのだ。氷空は守ってもらうばかりじゃなくて、祥平自身を求めていると伝えなければいけない。
勘違いだとしても、捨て身だけは阻止しなければ。
「このみー、温泉苦手なんだよね? 遊園地も行かないよね?」
……だが氷空の貧困な発想力では、旅行先の候補なんてそろそろなくなりつつある。
『え、温泉? 苦手なの? あれ、氷空の話だよね……?』
「あたしじゃなく、て――」
氷空は言葉に詰まってしまった。
わかっていたはずだ。でもじゃあ、どこに誘えば良いんだろう。
「っ――ごめ、なさい、あたし」
『えと、氷空? どしたの、今は家だよね? 迎え――に行った、方が……ぁ? 脅されて、こわさなきゃ』
そうじゃない。
氷空には何もない、おかしいのは祥平だ。言葉にできないし追及もできないが、なんで……。
「違うのっ! ――あのね、また考えとくからね、次は一緒に」
怖い。
何も聞かない、話す気のないことは追及しない。これからもずっと何もかも。
だって祥平は。
このままじゃ壊れてしまいそうで。
『一緒に? ふふっ、一緒に考えようね! 氷空のメールも電話も、いっつも楽しみ。毎日旅行でもいーよ!』
毎日氷空だけが? そんなの嫌だ。でも祥平は心から報告を楽しみにしてくれている。
気にしちゃダメだ、壊しちゃダメだ。
「ん……えと、じゃあ一緒に、絶対また一緒に話そうね、それから……このみー、今日は」
今日も学校では、祥平は見つからなかった。
氷空は直接話そうと祥平を探したのだ。特別棟の上は無人だった。意を決して二年生の教室の側をうろうろしていたら、迷惑そうに追い払われてしまった。
何組で何の授業を受けているんだろう、祥平はなんで〝人気者〟なんだろう。何故、誰に聞いてもわからないんだろう。
「……えと、あのねこのみー、あのね……昨日も、かっこよかった、それでね、あたしのために、頑張ってくれてありがとう」
『ぅん……うん、ありがと氷空、うれしぃ……』
知らないままで良い。
「今もね、電話すぐ出てくれて……いっぱい、励ましてくれて……天使の佐野くんもね、いっぱい、色んなこと」
『んぁ? ……あぁ、うん……?』
――あれ?
電話先からほうっと吐息が聴こえる。気のせいだっただろうか。祥平は言葉を待っている。ノイズが走った気がしたのは、風の音だろうか。
祥平は氷空の言葉を喜んでくれる。対面だったら両目を細めてぎゅうってしてくれる。ありがとうって囁いてくれる。
「また会おうね、また……会いたい、またね」
『あぁ……ああ、終わっちゃうの? もっと電話……氷空の声、元気になれる……ふふっ、頑張るねっ、絶対ぜったい守ったげる! 氷空のこと、俺が、守る、氷空……んんー、今日のメールもね、待ってぅ……』
祥平を傷つけたくない。
氷空が何かを追及すると、不安そうに心配してくるから。
どんどん、何か……怖くなる。
「うん……じゃあねこのみー、いつもありがとう」
『――うん、おやすみ、氷空』
氷空は祥平の望みを叶える。
木から落ちた時、祥平は捨て身で守ってくれた。大変だった時も側で抱きしめてくれた。
祥平にはただ笑顔でいてほしい。
*
電話が切れるまで無言で待っていたら、そのまま五分経ってしまった。
呼びかけると嬉しそうに返事をする祥平に、何でもないと答えて氷空は通話を切った。祥平はいつも通りだ。
――いつも通りなんだから、何も問題はない。
氷空は受話器を充電器に置く。スマートフォンも携帯電話もないから、家の子機だ。
「……しょうくんどうだった? ちゃんと話できた~?」
「別に、いつも通りだよ……お母さん、あの……あのね」
幸せならそれで良いんだ。
祥平が喜ぶことをしたい、悲しませたくない。秘密にしたいなら追及しない。知ろうとした氷空が間違っていた。
――カシャンと、母が食器を置く音がした。
「いつも通り?」
ぴくりと、氷空は肩を跳ねさせた。悪いことをして叱られた気分だ。
なんで母は、そんな硬い声で相槌を打つんだろう。
「この期に及んで、変わらないの?」
「それは、あたし……ほんとは、気づいてたよ」
口にした瞬間、胸に痛みが走る。
氷空は首を振った。祥平の笑顔は嘘じゃない。それが、氷空に対してなら嘘じゃない。氷空に対してだけは、嘘じゃない……。
ある日突然笑顔が増えた。何も疑わないことができるだろうか。
「気づいてて、知りたくなかった。傷つけたくないから、知らなくて良い! だからこれからも」
「うん、ねえ氷空、ちょっとだけ話す時間あるかな? しょうくんのこと」
俯いた氷空は全身が強張っていくのを感じた。絨毯の端とソファの境目を見ながら、両手を僅かに空に持ち上げる。
母の愛衣は答えを待たず、ガスを切って火の周りを片付けた。
――『氷空だぁ、氷空……ぅん、どしたの? 氷空……ありがと、氷空……』
最後に通話を切る直前、氷空の呼びかけに祥平は夢見心地だった。どこかに軽く意識が跳んでいたようだ。安心したようなあの声を、裏切りたくない……。
台所ではカタカタと食器を仕舞う音がする。
「昨日氷空に聞かれてからね、わたしも考えたのよ~。しょうくんのこと、氷空に話すべきかって……でも、ずっと躊躇ってたの」
聞いちゃ駄目だ。
だか氷空は何故か、愛衣の言葉を遮れない。
「わたしはね、ゆっくりで良いのかなぁって言い訳してた。しょうくんが――いなくなっちゃう気がしたから」
愛衣はそのままリビングに出てくると、ソファに腰掛ける。真っ直ぐ氷空を見つめている気配がした。
氷空は俯いたまま、両手でぐっとスカートの裾を握る。
「今から、しょうくんを裏切るわ」
「っ――駄目っ! このみーを裏切っちゃ――」
言いかけた氷空の言葉は、しりすぼみに消えていった。
やはり愛衣は真っ直ぐと氷空を見つめていた。眉根を軽く寄せながら、氷空が納得するのを待っている。わかるはずだと、語り掛けるようだ。
氷空はそれ以上、言葉を失ってしまった。
「……変わらない? 氷空が入学して、和楽器サークルで一緒になって、それでも何も変わらない?」
滲んだ戸惑いが溢れ出すように、愛衣の声は大きくなっていく。
「そんなわけないじゃない。わたしは、もっと変わると思ってた。しょうくんの執念は病気だわ! 会えば氷空の話ばかりして、あんなに話を聞きたがって、なのにうちに来てって誘っても来ない。いつになっても頑なで、おまけに今度はサークルまでやめちゃうなんて!」
「――え、お母さん? なんで知って、あの、このみーは……あたしの代わりに、やめるって」
つい、言ってしまった。
祥平が話したのか? まさか、そんなことは……あるのか? 愛衣は祥平の家にも通っているから、会っているのは普通のことだ。連絡も取り合っているだろう。
秘密主義は氷空にドッキリするためだ。愛衣には普通に話しているのかもしれない。氷空は視野が狭すぎたのだ。
戸惑いながら氷空が見ていると、愛衣はため息をついた。
「喧嘩したなんて、これ見よがしに言ってたみたいね~。氷空のいるサークルを、避けちゃったのね? 学校で聞いたわ」
「……お母さん、学校に来てるの? そんなの今まで――」
氷空は口を閉じた。
言うわけがないのだ。祥平がひた隠しにする以上は。
「何度も行ってるわよ……ねえ氷空、これで良いと思ってる? わたしはもう、突然病院に呼ばれるのは嫌。それでもお姉ちゃんに任せるしかないなんて、冗談じゃないわよ」
愛衣の姉は、氷空の実母だ。
ゆっくりと愛衣はソファの背もたれに寄りかかる。座り込んだ氷空の前で、両目を閉じたまま眉を寄せた。
「学校からまた連絡があったの。健康診断の結果が……このままじゃ、いつまた倒れるか」
「――このみー、どっか悪い、の……?」
氷空は息を飲んだ。
愛衣の目はいつの間にか、若干の隈に縁取られていた。髪もどことなく雑に束ねられている。
「そうよ、おかしいの。ごめんね。ずっと飲まれてた……何年も」
震えた声で、愛衣は零した。自分が信じられないという言葉が聴こえそうだ。
何を言っているんだろうか。
「少しでも氷空に話そうとすると、しょうくんは絶対に気づくの。わたしが一緒に氷空に隠してくれるから頼れるんだって、計算して甘えてくるのよ。わたしだけは敵じゃないって、氷空以外で唯一敵じゃないって言うの。そんなはずないのに」
氷空は目を見開いた。
祥平なら氷空に不調を知られたいとは思わないはずだ。氷空が無事かどうか、守れたかどうか……それが全て。
そのためなら祥平はきっと――何でもやるはずだ。
「うちに来る度に、氷空に見られなくて良かったねって笑うのよ。倒れたのは二人の秘密ですよって。何回も、安心したみたいに呟くの。ちょっとは心を開いてくれてるのかと思ってたけど……意図して演じてたなら、とんでもないわ」
愛衣は週に二回程度は、祥平と顔を合わせていたはずだ。その分祥平にコントロールされていた……?
氷空は放心しかけていた。
確かに祥平には、他人のコントロール癖がある。思い通りに意識を誘導しようとする。そうして氷空の隠し事を守ったし、嘘もついた。
でも、それは。
全部氷空のためで。
……まさか氷空も、誘導されていた? いや、驚くことじゃない。きっとそうだ。
支配性向とでも言うんだろうか。それはまるで、自分がコントロールされる側になることを恐れるようでもあった。
「このみーが望むなら、あたしは……」
コントロールされても良い。
それで祥平が安心するなら、いくらでも。
「ねえ氷空。しょうくんが悪いのはね、身体じゃなくて心なの。氷空、しょうくんは……摂食障害なのよ。食べ物が怖いみたい。心当たり、あるでしょう?」
摂食障害。
……あぁ、だとしたらずっと前からだ。氷空にはわかってしまう。
お供え物を笑顔で口にする祥平は、ほとんど咀嚼することがなかった。氷空の祝宴料理はいつも、消化に良いものが最優先だった。
氷空も気づいていたはずだ。祥平が異常に小食であるのにも、どれ一つ味わってなどいないことにも。
「倒れたこともあるのよ。何度も……何回も……その度に……あぁ、氷空がいなくて良かったねって……すごく、嬉しそうに笑いかけてくるから……」
力なく焦点の合わない視線は、ただシンプルに飢えていたからだ。夢見心地なんて見え方はとんでもなく歪んでいた。
氷空はどこで、何を間違えたんだろうか。
書いていていつも思う。
コイツやばい(色んな意味で)……。