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二章2 連れ戻したい?

原稿はあるのに、タイミングを合わせようとすると更新が遅れる。

どうするのが最善なんや……。

 氷空は黙ってそうの上から、赤い布で飾られた油単ゆたんを取り払った。これは筝のカバーのようなものだ。一年前に水月のお金でメンテナンスした箏だが、使って良い許可は既に得ている。

 桐で出来た筐体と、十三本の絃が眼前に露わになった。

「見て、あのね――あっ、佐野くん、もしかして知ってる? 絃の名前と、数え方」

 途方に暮れていた京助が、ハッとしたように視線を箏に戻した。

「え? あー……習ったけど忘れたな、名前は漢数字だろ? 一から十までと、なんか……変なやつ」

「……きん

 氷空は絃を指差して言った。手前に向かって最後の三つが斗、為、巾だ。目の前の譜面には漢字表記も載っている。氷空は順番に指さした。

 困惑しながらも、一応京助は納得したような顔になった。

「そんな感じだったな。――で、今更だけど、なんでオレ呼ばれた? 祥先輩――じゃねーよな」

「へ? あ……このみーは関係ない。佐野くん、部活休みって言ってたから……で、爪はこの三つ。生田いくた流だから角爪。四角いのが指の腹に来るように……で、大きさが合うのを……こんな感じ。それから……」

 氷空は右手の親指から順にはめて、カチカチと爪を打ち合わせた。京助が微妙な顔でちらっとあゆみを見た。

「生田流は、座る時は斜め、だよ」

「あ、おう……斜めだな」

 生返事した京助は動かなかった。やっぱり怖いのか。慣れないことは勇気が要るものだ。ぜひとも、清水の舞台から飛び降りる気分で弾いてみてほしいと思う。

「……や、そうじゃなくてさ。まさかこのために連れてこられたのか? オレ一応サッカー部だぞ。楽器とかやんねーし……部外者は邪魔じゃね?」

「いいのよ! 水月も……弾いてていいみたいだし、そらぴーが連れてきた祥平くんの天使だもの、誰でも来ればいいわ!」

 悠梨は戸惑いがちに視線を泳がせながら、しきりに和室の外を気にしている。どことなく言葉も雑だ。

 それにしても、どうも悠梨だけが〝天使〟の概念をスムーズに受け入れている。素敵な尺八奏者だけあって奇特な知り合いだ。

 ……サークルは何となく好きになれないが、悠梨だけは嫌いにもなれない。あの演奏を聴いてしまったせいだ。

「その……邪魔じゃないのよ。ただごめんなさい、わたし今日は……やる気が起きなくて」

「一番前向きなのって氷空ちゃんじゃない? あゆみちゃんもさっきからメモ見てるか怪しいし」

 水月も投げやり――というより、疲れているようにも見えた。氷空にさっさと筝を明け渡したのも、今日は弾く気がないからだろうか。あゆみは顔を上げると首を振る。

「アレは元々ひと月ぶりでしたから、そのうちふらっと……いえ、無理ですね」

「えっ……このみー、帰ってくると思ってた、ですか?」

 氷空は目を見開いた。

 祥平に人気があるのは素直に嬉しい。だがいなくなったのを悲しむならまだしも、戻ってこないか悩んでいるとは思わなかった。

 神様の決定に疑問を挟むなんて――。

 氷空の疑問に動揺したのか、水月があからさまに顔を逸らした。悠梨は悲しげに眉を寄せている。事情を話していなかった京助だけは、軽く眉を上げて全員の反応を見ていた。

 あゆみは大きなため息をつく。

「ある意味信用しとるんよ。祥平君は異常なほど無自覚に、せっせと墓穴掘りがちなんよね。あんなに笑顔で本心を話してくれるわけもない。氷空ちゃんにああまで言って、簡単に戻ってくるとも思えないけど……」

「見た感じ祥くんって、氷空ちゃんだけは裏切れない、って感じだよねー。だいぶ誘導はしてそうだけど、嘘はつかないんだろうなって。……でも祥くん、やめたいって言わなかったんだよ」

 誘導……?

 きょとんと首を傾げて、氷空は隣の京助を見た。京助はどう思うのだろう?

 目が合った京助は、困ったように目を逸らした。

「あー……そうだな」

 ……何が?

 続きを待ってみたが、それ以上は何も言わない。祥平の情報を独占したいのだろうか。まあ安全な道へ誘導するのは、兄神様ならおかしなことではない。

「祥平くんは、すぐ帰ってくると……思うわ」

 水月とあゆみが弾かれたように顔を上げた。傷ついたように目を伏せた悠梨に、氷空は思わず眉をひそめる。

 まさか悠梨がそんな願望を言うなんて思わなかった。

「……どういうことですか?」

 あゆみが囁くように尋ねたが、期待よりも困惑が乗った声だ。水月もじっと息を詰めている。

「知らないわ! 見ればわかるじゃない。帰ってくると思ったのよ」

「……このみー、サークル、譲ってくれた……。天使もくれた」

 みんなして何を話しているんだろう。

 氷空は俯いて、見るともなしに箏を眺める。

 そんなにサークルをやめたかったんだろうか。それともいつものように、氷空を最優先にしてくれただけなのか。

 知らない。こんな人たちなんて……それより祥平が任命した天使、信頼される京助の方が良い。

「そうだねー、天使……はよくわからないけど、氷空ちゃんのためにって言ってたね。びっくりするくらい良い笑顔で、翳りがなさすぎて不安になったよー」

「ああ、そう言えば、あの後電話で話したら様子が変でした。悠梨先輩が言っているのはつまり」

 あゆみが何か言いかけて、ちらっと氷空を見た。

 氷空は身を固くして警戒する。

「――跡継ぎっつってたよな。祥先輩サークルやめたのか?」

「帰ってくるわ! やめたいなら、それは……でも、祥平くんは違うもの!」

 氷空はムッとして首を振った。これ以上話していても駄目だ。

 譜面に手を伸ばす。とにかく決めたのは祥平だ。兄神様の決定が全てで当然だ。

 ……譜面の見方は昨日教わった。

「この箱に入ってる縦書きの漢字が、音の名前だよ」

 譜面には縦長の長方形が横並びに詰まっている。それぞれが横に区切られて、中に漢字や記号を並べていた。

「箱を区切ってるこの横棒が、五線譜とおんなじで小節の区切れ目。一小節が四つに区切られてるから、四分の四拍子。三角とか丸とかは休符で、長さによって形が違う」

 数字や図形は、リズムに合った位置にある。感覚的にわかりやすいはずだ。

 だが氷空が指してみせても、京助は動こうとしなかった。むしろ困ったように明後日の方を見ている。ダメそうだ。

「市谷が楽器好きなのはわかったけどさ」

「ここは和楽器サークルだよ」

 氷空は小さく息をついた。

 元々氷空は、他人と趣味を共有できるとは思っていない。ただ京助は、祥平が下賜してくれた守護天使だった……それだけだ。

「弾かないなら、あたしがやる」

 氷空は体験用の爪を装着し直した。

 調絃は既に済ませてある。基本の美しい平調子だ。京助を押しやって斜めに座る。

「……わたしは今日は弾けなくても良いから、氷空ちゃんずっと使ってても良いよー。やる気もあるみたいだし、またメンテと爪作り頼まなきゃね」

「氷空ちゃんのポテンシャルは凄いですね、アレの謎が一つ解けました。びっくりするくらい和楽器に詳しかったですから」

 祥平のことだろうか? それなら多分、氷空がメールで語りまくっているせいだ。

 ちょっと嬉しくなった。やっぱり祥平はちゃんと読んでくれているんだ。

「悠梨ちゃんも祥くんの勧誘は一番ノリノリだったよねー」

「そう、だったかなぁ? ノリノリっていうより……この部活、祥平くんがいなかったら出来てなかったのよ? 政くんと二人で合奏して満足してたわ」

 えっ……和楽器サークルは祥平の家だって?

 氷空は戸惑いに震えていた。なんでそんな場所で、氷空のために笛を吹いていたなんて祥平は言ったんだ? 明らかに祥平のための場所じゃないか。

「勧誘の際に見つけたのでは?」

「そうねぇ、でも祥平くんを見つけるまでは、何となくの勢いだけの勧誘だったのよ。わたしね、祥平くんに音の出し方教えたのよ! 尺八と篠笛って、仕組みは似てるもの。祥平くんは一年生だから、教えればサークルも続くかなぁと思ったの」

 楽しそうに話しているが、暗い。まるで故人を偲ぶ会だ。思い出を振り返って追悼するノリだ。お別れの儀式だ。

 祥平の求心力は疑わないが、生きている。

 もやもやしたまま薬指を箏に添えて、親指の爪で思い切り絃をはじく。ランっと力強い音が鳴った。

「――このみーは、やめるって言いました。戻ってこないです」

「確かに、さっき会った時もいつも通りで――って、どうしたん? みんなして」

 会ったの……?

 あゆみが困惑気味に身を引く。氷空は演奏どころじゃなくなってしまった。祥平に会った? 兄神様に?

 ぴらぴらとあゆみはメモの端をを触る。ピシッと指先で弾くと、明後日の方を見てメモ紙を仕舞ってしまった。

「あゆみちゃん、今日和室の鍵持ってきてくれたよね? もしかしてその時? 事務室前?」

「ええ、ええ、管理棟のトイレ前にいましたよ。全くもっていつも通りで」

 あゆみが頷いた。和室の鍵って事務室なんだ――って、え? 校長室やら用務員室やらばかりの場所じゃないか。あとは……保健室もあった。

 健康診断で行って、随分薄暗い廊下だと思った記憶がある。

「ずるいわ、あーみんだけ会ってたのね。元気だったの?」

「ですからいつも通りです」

 あゆみは小さく咳をすると、目を閉じたまま人差し指をピッと立てた。

「『わああっ、久米っちマジおひさじゃん何年ぶり~? ちょー運命じゃん! え、もしかしてずっと前からの必然? ずーと見られちゃってたりするぅ? 追いかけられちゃってる? きゃぁこわーい』と、生徒指導の先生に抱き着いて」

 だいぶ元気そうだ。

 感動したいのに、しきれない違和感が凄かった。あれ……? 

「……やっぱ祥先輩ってそんな感じすか。生指せいしの久米先生って、入学式で見ましたけど……気さくな感じで、おじさん先生っすよね?」

 あの人か! 氷空も覚えている。仲が良いんだろうか。

 これ、聞いて良いのかな。

 氷空は目を泳がせた挙げ句、そうっと箏の絃を爪でなぞった。祥平は秘密主義のドッキリ趣味で……。

「『え、俺とデートしたいの? うわぁそんなっ……いくら一万年ぶりの運命でもぉ、そのぉやっていーことと悪いことがぁ……ぅふふっ、きゃぁっ、久米っちに攫われる! 病弱美少年捕まえてっ、せ、説教……なんて、教師辞める気だぁ!』」

「すごいわあーみん! それ全部覚えてるのねっ、完璧じゃない!」

 水月が脱力した。氷空もコメントに困ってふらふらと宙を見る。

 完全にふざけている。これが普段の祥平なら、イメージが嚙み合わないのは当然だ。

 ……え、ふざけているよね? 本気じゃないよね。

「祥先輩、怒りません?」

「あら、そもそも氷空ちゃんをサークルに歓迎したのは祥平君だけー。その上自分はやめたと言うんよ。この期に及んで、私が妙な配慮をするとでも?」

 なぜ祥平が怒るんだろう。ちょっとイメージが違うからだろうか。でもまあ……いやうん、やっぱり別人みたいだ。

(ぁ……このみー、神様……だし)

 聞かなかった振りをしようかな。変幻自在は神様のスキルかもしれない。

「まあともかく、あの調子では来ませんよ。少なくとも、悠梨先輩が来ると言わない限りは、絶対に来ないと思っていました」

「悠梨ちゃんはねー、当ててきそうだよね……」

 つまり来るってこと……? 悠梨は占い師だろうか?

 京助は目を逸らすと、苦笑いして何か呟いていた。

 ん? あれ、でもなんで祥平が生徒指導? また何か頑張っているんだろうか。

「……やっぱりダメ。これじゃ戻ってきたくても、祥平くんまで気が引けちゃうじゃない」

 思い直したように悠梨が口にした。

 そりゃあこの雰囲気の和室に、わざわざ入りたいとは思わないだろう。自分の葬式に参列するのは勇気が要る。氷空だって、別に戻ってこいと言う気はないが……戻ってこないだろうな、と思う。

 それの何か問題だろうか。

 氷空が不満に思って見ていると、悠梨はおもむろにスマートフォンを取り出した。水色のケースに、尺八のシールが貼ってある。

「政くんに聞いてみましょ」

 悠梨は何か操作すると畳に置いた。呼び出し音が鳴っている。

「あー、オレは帰ります。やること出来たんで」

 じっとしていた京助が、若干唐突に立ち上がった。氷空は眉をひそめて視線で追う。

「興味ないの? このみーの天使なのに――」

 すぐに口を閉じた。京助は片眉を上げて氷空を見返してくる。何が悪いだろうか、責められる謂れはない。

「……ま、言い訳つーか、マジで色々やること出てきたんだよ。祥先輩戻るといっすね。お邪魔しました」

「うん、わたしたちも見学はいつでも募集してるから……気が向いたらまた……なんかごめんねー」

 水月が疲れたように呟いた。京助は苦笑い気味に頭を下げて出ていってしまった。

 空気が重い。悠梨だけが悲壮な決意を漂わせている。いや、むしろこれは余裕があるのかもしれない。余裕がなければ決意が漂うこともないだろう。

 電話の音は中々止まらない。

 ちらちらと動くあゆみの視線を追うと、座卓にデジタル時計が置いてあった。耐えかねたようなあゆみが、ポケットから自分の端末を取り出して瞥見する。

「あの……悠梨先輩、時間わかっています?」

 どうやら時計のズレを確認したらしい。

「寝てるかもしれないわねぇ。でも政くんなら大丈夫よ、寝てたら気づかないもの」

(えっ――夜勤、とか……?)

 氷空は思わず、午後の日の射す障子を見た。

 昼夜逆転? 悠梨の〝政くん〟と言えば……多分、サークルの卒業生だろうか。画面にはストレートに〝政くん〟と表示されていた。フルネームは不明だ。

「政くんはファミリーだもの、みんなで考えなきゃ!」

「みんなでと言われても」

 あゆみは悩ましげに言葉を止める。

 画面が通話中に切り替わった。

「そっか、祥くんもいたら良かったんだけどねー……なんか、疲れたな」

『……ショウは来てないのか? 昨日の今日でどうし――ふぁ』

 ちょっと眠そうな男性声だった。

 氷空は悠梨に胡乱げな目を向けてしまう。ばっちり寝起きムーブだ。

「悠梨ちゃん、昨日も連絡してたんだねー」

「チャットしたの! だから丁度良いでしょ? ねぇ政くん、祥平くんに戻ってきてもらいたいの! どっちみち戻るけど、やっぱり楽な方がいいじゃない? 間に合うわよね?」

 呆然と氷空は凍りついた。

 悠梨には何か算段があるのか? 本当に祥平が戻る? 悠梨の日本語は色々足りなすぎる。言っていることが半分もわからない。

(でも……え? このみー、戻ってくる?)

 しんと身体が冷えていく。氷空のミッションは祥平を尊重すること……何があっても裏切らず、笑顔を第一に受け入れることだ。

 連れ戻すのは裏切りじゃないか。

「あっ、その前に政先輩、新入部員が入りましたよ。おめでとうございます」

 氷空だって祥平と合奏したい、篠笛も聴きたい。

 だがこの人たちは、本人の決定を尊重できないのか?

『ああ、言ってたな。今もいるのか?』

 そんなの紛い物のファンだ。

「あのっ! 市谷氷空です、名字違うけど、このみーの、えと、つまり黒沢祥平の、妹です! お箏やります! それで」

「そらぴーって祥平くんの妹だったのね!」

 考えた台詞がどこかに飛んだ。

 え? そういえば初めて言ったっけ。

 悠梨が身を乗り出すと、あゆみと水月が呆然とする。

「あれ? そういえば悠梨ちゃん、知らなかったの?」

「言った記憶はありませんが……そうでしたね、悠梨先輩はそういう人でした。人の空気には敏感なのに、具体的な情報は知らないというか」

 他の二人は気づいていたのか。まあ誰も気づいていなければ、流石に氷空も雰囲気で開示したはずだ。多分。

「あ……そう、です、あたし、市谷の養子になって……旧姓で、黒沢氷空です」

 気まずくて少し目を逸らした。反論するつもりが、完全に出鼻をくじかれた気分だ。

『そうか、ショウに妹か。俺は三味線やってた杉原すぎはら政だ。今はちょっと引っ越して顔出せないが、電話なら――まあネット通話なら良いぞ』

「『ちょっと引っ越して』……? というか、政先輩も知らなかったんですか」

 あゆみが微妙な声色で呟いた。

 津北が祥平の聖域なら、和室は……きっと祭壇の上だった。祥平のために作られた、祥平の家なのだ。でもそんな大事な場所を、祥平は氷空に譲ってくれた。

 氷空は受け取ったのだ。

「……そうだよねー。祥くんの妹って割と有名だったけど、政先輩は……」

「あのっ! とにかく、あたしは嫌です、無理やり連れ戻すなんて」

 今は氷空のプロフィールなんて問題じゃない! 祥平はやめると言ったんだ、あんなに嬉しそうに。

 ……全員が何とも言えない顔になってしまった。

『ん? ショウは自分からやめたのか』

「違うわ! そうだけど、でも違うのよ、だってすごく、すごく……こう、変だったでしょ、青くて黒かったのよ! 天邪鬼じゃない」

 確かにブレザーは紺色だし髪も黒い。意味不明だ。

「電話で話したら戸惑っていました。望んでいるとは思えません。というか……」

「――正直、すっごく朦朧としてなかった?」

 水月の問いに、あゆみは迷いがちに頷いた。

「祥くんだいぶ無理してたから、自分でも何してたかよくわかってないんじゃないかなー……多分」

 みんな自分の願望ばかりだ。思うとか多分とか言い出したら何もわからない。勝手に推し量られるのは良い迷惑だ。

 やめると言った言葉に、誤解の余地なんてない。

(このみーの言葉。絶対、尊重するって決めた)

 氷空だけは裏切れない。

 祥平の味方でいたい。

「想像で、このみーの言葉、変えないでください」

 傷つけたくない。

「それはそうだけど、氷空ちゃんは祥くんの言葉、額面通り信用できると思ってる? わたしはむしろ、サークルで一番ダメな気がする」

 氷空はキッと水月を睨んだ。

 祥平は嘘つかない! 最強の兄神様で、世界一信用――すべきなのだ。信用できるかと言われると、それは……ともかく氷空は信頼するし、疑うべきじゃない。

「わたし的には、あれは悩む余地もないかなー? あゆみちゃんも悠梨ちゃんも、違和感はあるみたいだし」

「明らかに弱っとるけー。むしろ氷空ちゃんは何も感じないん?」

 氷空は視線を逸らしてしまった。

 弱っている。嘘つきでも騙すでもなく、弱っていると言われれば反論しづらい。でも祥平が弱るはずがない。最強の神様なんだから。

 サークルの人たちは、どこまで何を知っているだろう? まさか過去まで知るはずがない。祥平が話すとも思えない。

 だが氷空は、祥平の笑顔を疑えない。

『わかった、サークルに戻るとかは後でも良いし、いずれにしても繋がりは切るなよ。気に掛けてやれ。あと、聞いてて不安だからもうちょい連絡くれ』

 苦笑気味の声に、悠梨ががばっと身を起こした。

「通じないじゃない! それに、まだ新学期始まって一週間なのよ?」

『一週間は十分長いだろ。俺はそうだし、ショウにとっても長いと思うぞ』

 ……実のところ、祥平は隠し事に慣れすぎている。そして何より優しすぎる。

 氷空が祥平と学校を休んだ日、親に隠してくれたのは祥平だ。クラスでの話を滑らかに騙ってみせた。氷空は思わず記憶を疑った。誰くんがゲームをクリアしたとか、誰ちゃんがどこに行ったとか――本当にあったことのように、祥平は嬉しそうに親に報告する。

 話せてしまう。

 学校が好きで楽しくて、話したくて堪らないという風にしか見えなかった。

 それはいつも通りの笑顔で。

 間違いなく嘘だった。ずっと側にいた祥平が、一瞬でも登校していたはずがないのだ。

 だから本当は知っている。祥平の言葉は〝信用〟できない。祥平は嘘もつくし、簡単に人を騙す。違和感ゼロで作り話を紡げてしまう。

 多分それに慣れている。

 ――だからって、何の問題がある?

(全部が、あたしのためなら……あたしだけのためなら、裏切れない)

 嘘でも本当でも、そんなの氷空には関係ない。

 疑って祥平を傷つけたくない。

「……わかったわ! ねぇそらぴー、祥平くんは、そらぴーのためにやめるって言ってたの。祥平くんのためじゃなくて、そらぴーのためなのよ」

 氷空は顔を上げた。いつの間にか俯いていたみたいだ。

 悠梨はどことなくほっとして、少しご機嫌だった。

「ね、そうよね? そらぴーのために、そらぴーと仲よしなのを隠すって言ってたわ! でも祥平くんは有名だから、やめても仲よしは隠せない……のよね?」

 伺うように、悠梨が水月を見た。

「え、わたしに聞くの? うーん……というか氷空ちゃん、今朝も祥くんと一年生の階で会ってたよねー? 話す時の声も大きかったみたいだし、普通に噂になってるよ。サークルやめても……あれじゃ隠せないかなー」

 祥平は格好良いから知名度もある。莉桜のように過去を知る人もいる。

 ――だから何だ。

 氷空のためが生き甲斐と笑った。あの笑顔は嘘じゃない。祥平の目には常に、青白い情熱が宿っている。祥平が喜ぶなら、氷空は守られるだけの人形で良い。

「そうよね! え、そうなのね? それは知らなかったけど……だったらそらぴーも、祥平くんのために呼び戻せばいいのよ! 祥平くんって、そらぴーのためなら命でも捨てるもの」

 ぎょっとして全員が悠梨を見た。

「死にませんっ! 適当なこと言わなぃで……」

 命でも捨てる?

 氷空はそんなこと望んでいない。だが殴られようが貶されようが、祥平は矢面に立って幸せそうだった。捨て身でいることに躊躇う祥平は、ピンと来ない。

 血まみれで倒れ伏しても、氷空を守って笑顔を浮かべる……絵面に違和感はない。

「え? 死んでそらぴーを守れるなら、喜んで死ぬでしょ? そらぴーの前では、祥平くんって自己保身とかできないのよ?」

 どことなく悲しそうに、それでも悠梨は当然のように断定した。

「最初からわかってたのよ、凄く変だなぁって。そらぴーに会うまで、理由はわからなかったけど」

 もし祥平が、氷空を守り切れないと感じたら。

 祥平はどうするだろう?

 そんなことは考えたくなかった。

「……まあ、アレは妄執の塊だけん。自暴自棄になってもおかしくないけー」

「氷空ちゃんが何より最優先、って感じだったよねー。あんなに慌てて和室に戻ってきたくらいだし」

 いずれ誰かが過去を話した時、祥平は許容するだろうか? 氷空の過去が話題になることを、黙って受け入れるだろうか。

(あたしは……それでも、このみーがそれを望むなら)

 サークルには戻ってこなくて良い……。

『ま、すぐにどうこうは無理な話だろ。悪いがそこまで待つ気はない。卒業式の日の感じだと、ショウにも余裕はなさそうだからな』

「え、会ったんですか? 式には来ていませんでしたが」

 祥平には何かがある。そんなことは氷空だって察している。

 氷空が引っ越したのは、小六の秋だ。

 二人で学校を休んでいたせいだから、一緒に市谷の家に来たはずだった。養子なんて当時は話もなくて、ただ気分転換に引っ越そうと言われただけだ。祥平はすぐに戻ってしまったが。

 なんで祥平がいなくなってしまったのか、氷空は知らない。

 あの時氷空は祥平と離れてしまった。それが正しかったのか、今も少し不安でいる……。

『そりゃ、ショウとも暫く会えなくなるからな。あそこまで関わっておいて、先に卒業ってのも無責任だろ。挨拶くらいと思って、保健室まで会いに行ったんだ――と、あれ? 財布が撥にすり替わってるな』

「……どんな事件ですかそれ。ごそごそ音がしますが、こんな時間にどこか行くんですか?」

 あゆみは呆れ気味に呟いた。

 財布が、撥……?

 ふと氷空は意識を引き戻された。そういえば政は三味線弾きだったか。三味線の撥と財布は、サイズ感も形も全く違うと思うが。

『ああ、ちょっと平城京に』

「……えっ、平城京ですかー? そこから何時間かかるんですか!」

 尋ねた水月があゆみを見たが、あゆみもわからないのか首を振った。

 時間の問題じゃないと思う。急に平城京とか意味不明だ。

『ああ、もちろん冗談だが、近所に出かける予定があるんだ。この電話も目覚ましの直前だったくらいでな。悪いが準備はさせてくれ――よし、やっぱここにあったな。Hey』

 政はどこか別の方向に呼びかけたようだった。

 祥平を気遣うんだから、悪い人じゃないのかも――。

『Why are you? You're playing such a prank again. Are you too bored?』

 え、えいご……? なんて言った? 近くに別の人がいる風だったが。

「ルームメイトのいたずらですか? 見つかって良かったです」

 あゆみが呆れ気味だ。そういう話だったのか。外国人と一緒に住んでいるんだろうか。大学の国際寮、みたいなところ……?

「それにしてもねー。悠梨ちゃんもこんなだし」

「わたしはいつも通りじゃない? だから衣装を頼んだの!」

 うん、わからない。

 だがサークルのメンバーは慣れているのか、誰も論理を追及してくれない。悠梨の言葉はこういうものらしい。

「祥平くんって、今は青くて黒くて息苦しいけど、そらぴーのこと大好きよね。すっごく祥平くんらしかったわ!」

「……悠梨ちゃん、あんな感じの祥くん見たことあったの? わたしは去年のことがあるから違和感なかったけど。で、衣装? ユニフォーム作るってこと?」

 そこがわからない。祥平なら何でも受け入れてくれるだろうが。

「私には違和感の塊に見えたんですが、私がおかしいんですか?」

 大抵の衣装は似合うだろう。世界が祥平の物なのだから、全てが祥平にお似合いで当然だ。きっと格好良いに違いない。

 サークルに帰ってくるかは別として、友人関係として捧げ物をするのは構わない。

「あゆみちゃんはおかしくないよー、わたしは知ってただけ。祥くんって八方美人……じゃないけど、相手によって全然対応違うんだよ。悠梨ちゃんは、悠梨ちゃんだから」

「……このみー、何でも着ると思います、けど……」

 お似合いだろうし、氷空のためには何一つ断らない。でも何をするにしたって、祥平を連れ戻すのは目的になりえない。

 氷空が言えば、祥平は断らない……。

 無限の愛情を知っている。会う度に眼差しは熱を持ち始めた。目が合うと陶酔した笑みを浮かべるのだ。周りに誰がいても関係ない。過剰なくらい氷空だけを気に掛けてくれる。

 別居になるのは不安だったが、会うことを余計に特別にしてくれた。

「っあたし――わかりません! このみー戻ってきたら、嬉しいし、もっと会いたい……けどっ!」

『それで良いだろ。俺たちも、アイツが自滅するのを見たいわけじゃない。悠梨が言うなら何でもやってみれば良い』

 そういう問題じゃない。祥平の望みを蔑ろにしたくない。

 悠梨の顔が輝いた。賛成票一人目、ということか。

 この二人は祥平の敵だ。

『で、服のことは話したのか? 六人分の手作りで郵送含め二ヶ月だそうだが』

「――初めて聞いたけど、わたしは別に良いですよー。悠梨ちゃんと政先輩の服なら、よっぽどおかしいことにはならないと思うし……正直今の祥くん、泥船漕いでるようにしか見えないからねー……」

 水月が少し興味を示した。何故?

 ……よくよく考えたら、祥平のことがなくても意味不明だ。いきなり衣装とか言われても、普通に氷空は意味がわからない。

「そうよね! あれなら和楽器サークルっぽいわよね? 祥平くんも篠笛やってくれると思うの」

「え? 待ってください、私はまだ賛成していません」

 あゆみが困惑気味に声を上げた。

「あーみんは太鼓だから、動きやすいように袖なしなのよ! 水月も自然の爽やかさを押すって聞いたわ。祥平くんも普段と方向性を変えるために、意識して軽やかで明るい雰囲気なの。わたしはなんと、大和撫子なのよ!」

 ああ、これは暴走している……。

 悠梨はこういうタイプだったのか。

「気分を入れ替えて、みんなが元気になって、和楽器使えばいいと思うの! ほら、ちゃんと活動してるってわかれば、何もやってないなんて言われることもないわよね」

 そして祥平も戻りやすい、と?

 そこだけなら理解できるけど、何もやっていないなんて言われていたのか……?

「評判なんて悠梨ちゃんが気にしてたの? 氷空ちゃんが頼めば祥くんも着るかもねー」

「――このみーは、やめるって言いました」

 氷空には何もわからなくなりつつあった。

 ずっと祥平を見てきたつもりだが、篠笛をやっているのも知らなかったのだ。これが氷空の母なら、間違いなく知っていただろう。

 悠梨がきょとんと瞬きした。

「そらぴーに会う理由が出来て、嬉しくないわけないじゃない?」

 あっ……それは、そうだ。絶対に喜んでくれる……。

 でもそれは違う、祥平自身の望みじゃない。祥平は氷空を守るのが何より大好きなのだ。たとえ氷空と毎日会えたって、氷空を守ることを犠牲にするわけがない。

 そんなこと氷空だって知っている。

『じゃあ決定で良いな、どっちみちアイツは喜んで製作始めてるだろうが』

「……あの、私まだ、賛成していない……」

 あゆみの声はしりすぼみに消えた。もしかしてあゆみが唯一の味方だろうか。

『心配しなくてもお金はいらないらしいぞ。趣味だからな』

「政先輩の知り合いの趣味って、ちょっと楽しみです」

 水月が笑った。

 ふと浮かぶのは母の浮かない顔だ。氷空が津北を目指すと言った時、複雑そうだった理由は本当に一つだろうか。

 通っているのを隠すだけで、あんなに憂うだろうか。

「あたし、このみーのこと、何も知らないから……」

「じゃあ氷空ちゃん、祥くんの叔母さんに話聴いてみたら?」

 ――えっ?

 祥平の叔母は、今の氷空の母だ。水月は会ったことあるんだろうか。

 あゆみまで納得したように頷く。

「ああ……和室にもよく来るし、三者面談とか親が忙しいけん、代わりに来とるって言っとったけー。アレのことは一番知っとるんじゃないん?」

「そういえば、叔母さんならそらぴーも知り合いよね! 祥平くんのことわかるかもしれないわ!」

 ……和室に来ていたのか。なんで?

 もちろん祥平の保護者をしているのは知っていた。引っ越す前は、氷空も同じように世話になっていた。実の母は少し忙しすぎる。

 でもまさか、学校の人たちが氷空の母――愛衣あいを知っているなんて。

 それに、ますます愛衣の態度が引っ掛かる。絶対に愛衣は、氷空が知らない何かを知っている。何を憂えていたんだろうか。

「気になる、ですけど、お母さんは……」

「ああ、氷空ちゃんのお母さんだったんだねー。そっか、養子って親戚だったんだ」

 愛衣は祥平のことは何も話さない。

 氷空が聞きたがらないからかもしれない。祥平が止めているのかもしれない。両方というのが一番ありそうだ。

 何かを察したのか、あゆみは一人で呆れた風に首を振った。通話先からは英語の会話が聴こえていた。

 ――少しだけ、秘密を探っても許されるだろうか。

 自分から氷空が聞けば、愛衣も話してくれるかもしれない。

 氷空が見ている祥平の裏側を……だって祥平は、隠し事があまりに上手すぎる。それも思ったほど、合理的じゃなさそうだ。

 今になって氷空は、祥平の行動に不安を覚え始めていた。

和楽器をやりたかった。

しかし、長々と説明をするには、誰も彼もが気もそぞろでした。

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