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一章4 ゼンマイ仕掛け

視点が変わります。

今更ですが、この作品は鬱注意。

 世界は灰色でつまらない。

 ガツッ、ガツッと不格好な靴音が脳裏で反響する。

 指定の上履きって……トイレのスリッパみたいで、全然格好良くない。だから祥平はあんなもの使わない。格好良いのが兄神様なのだ。

(……なんかあったっけ……)

 妙に視界が暗い。頭がぼうっとする。おかしいな……今日も氷空のメールを読んだはずだ。今日とか昨日とかよくわからないけど……多分……。

 ズキッと心臓の辺りが痛む。思考にノイズが掛かって点滅する。

 ……疲れたな。

 相変わらず今日も疲れた。周りの元気な空気に触れるとイライラしてくる……。

 歩きながら思わず両目を閉じる。ふらつきそうになって、慌てて目を開けて姿勢を正した。どんなにしんどくても姿勢を崩したら駄目だ。格好良くないのは駄目だ。

 氷空を守る。氷空だけ見ていれば良い。だって氷空は祥平を裏切らない。正解が見えているから、他の雑音なんて問題にならない。

 氷空のために……氷空だけは正しい。

 身体の底に火が灯る気がする。動ける気がする。ゼンマイを巻き直した人形のように――。

 パッと祥平は目を見開いた。なんだ?

「いやいやありえないからっ、廊下で傘とか頭おかしいから!」

 ふらっと階段の手すりを掴む。

 なんだろう……声に殴られたみたいだ。祭りの組太鼓じゃあるまいし、女子一人で揺れを感じるはずがないのに。疲れてんだようるさくすんなよ。

 祥平は耳元で、スピーカー型のイヤホンに触れた。延々と流れるのは氷空のメールにあった曲だ。最近は民謡を聴き込んでいたらしい。意味もわからず繰り返すまま、歌詞もメロディーも覚えてしまった。

 和やかで陽気な音の世界……。

 氷空のことなら何でも知っている。

(俺がかっこいいのはわかるけどさ、きゃいきゃい騒ぐなよ行き過ぎたファンどもが)

 機械仕掛けに熱が宿る。氷空との絆に溺れていれば、祥平はそれだけで幸せだ。氷空を守るだけの人形は、それ以外の全てなんて……。

 ――どうでもいい。

 何も要らない。人間である必要もない。

 祥平の嘘を、氷空は知らない。でも氷空を守るのに舞台裏はどうでもいい。こんな……こんな人気者だなんて……。

「ちぃのその大声も中々ありえないよぉ! うわああ完全に気づかれてる、こんなとこで会うなんてサイアク~、機嫌損ねたらどうすんのよー」

「ごめんそれブーメラン、結構煽ってる……」

 氷空……。

 ぁあちくしょう、今日はもう疲れたんだっつーの。

 ズキズキと頭が痛い。祥平は前後不覚になりそうで、石の手すりに背中から凭れかかった。隠れるように呼吸を整える。

 声が聴こえる度に、びくびくと心臓が痙攣するように跳ねる――。

(あり得ない……? おめでたい奴ら! クソガキの食料共が、バカ丸出しでぴぃぴぃ囀ってんじゃねえよ、騙されやがって可哀想に)

 内心全力でこき下ろしたが、祥平の胸中にはもやぁと嫌な気分が広がった。

 ……氷空は何も知らないんだ。

 吸血鬼様の魅了魔法も、ペテンだらけの現実も知らない。両腕が無性に痒くなって、祥平は勢い良く手すりの角に二の腕を打ち付けた。衝撃で僅かな冷静さが戻る。

「わ、今の見た? やばいよぉ、自分で腕ぶつけてる、頭おかしいんだって、早くどっか行こうよぉ」

「……まあ、否定はしないけど……あんたが忘れ物したなんて言うから……今からでも戻って奥の階段行く?」

 遠く……遠く、感覚が遠ざかっていく。ココロが凍りついていく。

 ほらほら、格好良い祥平に構いたくて忘れ物なんて言い訳している。

 可哀想な人間たち。

 ああくそ、自分が自分じゃないみたいだ。現実味のない現実感……。

 駄目だ、今は駄目だ。硬くなって固くなって、石ころのように……陶器の人形のように。

「それは……ど、どうせ噂なんて大したことないしぃ、ほら、動いてないうちに行っちゃおうよ」

 傘の柄を握り締めて、祥平は微かに俯く。

 氷空……氷空に会いたい。会ったら手紙を書かなきゃ、ねぇ氷空。

 コソコソと二人分の足音が近づく。耳元で三味線がカラカラと鳴る。なんだか鬱陶しくなってきた。

 そう……格好良い人間を演るのだ。みんなの中心で笑顔を振り撒いて、いつか――。

 氷空に褒めてもらうんだ。

 祥平の混乱は徐々に収まっていった。ほんの少し前向きになって、微かに顔を上げる。

「噂はバカにならない――わ、今ちょっと動いたよ。こわっ」

 ――パキッと何かが割れた気がした。

 感覚がメキメキと凍りついていく。身動ぐことすら面倒だ。このまま……このまま、黙ってやり過ごせば……。

 きっとナメられて終わりだ。

 ギリッと祥平は奥歯を噛み締めた。

 こいつらは祥平に期待している。格好良い吸血鬼様の反応を待ち望んでいる。

 嫉妬して他の人間を遠ざけたくて、わざわざ悪口合戦しているくらいだ。

 大好きすぎて。

 ちょっとでも注目されたくて。

 ツンデレのペットどもは、一周回って可愛らしいくらいだ。

 ほんと、可哀想……。

 すっと帽子の鍔を引き下げる。

(大丈夫……俺は氷空の兄神様、最強で格好良いって、氷空が教えてくれた)

 氷空だけが真実なんだ。

 闇の妖精が鱗粉を撒き散らし、灰色の雲が景色を覆う。暗くて昏くて温かい世界だ。耳元では山形の祭りが続いている。

 少しだけ……。

 頑張れる気がした。

「ぅふ……ぁははっ、おつかれさまー新入生さんたち!」

 お遊戯の時間だ、期待に応えてあげよう。

 ファンサって大事だよね。

 笑みを浮かべて両目を開ける。もちろん視界はベールに隠れているが、ざわっと気配に動揺が混じった。

「うっわぁ~うれしーなぁ、綺麗どころが二ひ――二つも偶然、ぅふっ、ぁ、バド部かな、今日練習ないもんね、ふふっ……ぅあ」

 さり気なく手袋の甲で口元を拭う。その手の動きで誤魔化すように、一瞬のにやけ顔を隠す。それら全てがどう見えるかはわかっている。

 祥平は狂ったモンスターアイドルなのだ。

 空気を読んで求めに応じて、適当に合わせて生きていく。氷空以外はどうでもいい。今日が何曜か知らないが、バドミントン部は水曜が休みだ。つまり今日は水曜日。

 きっとそうだ。

「俺さぁバド部嫌い。蹂躙したい……」

「ちょ……ねぇちぃ、勝手にバド部の部員にされて恨まれてる! やばい!」

 バド部には天敵がいる。

 天敵……。

 恐怖すら白くぼやけて遠ざかっていく。祥平はニヤニヤと嫌らしく笑みを深めた。あぁ……後でアレヤろう。

「んぁ……ねぇなんかいー匂い、んん~山田さん?」

「やまっ――さ、さあ~? うちらどっちも山田じゃないですけどぉ」

 奇妙なことに、天敵は祥平が無害のような考え方を広める。本当は畏れられるべきなのに。

 最強の兄神様は無敵なのに。

「んー……ぁ、美味しそ……ぅふっ、かーわいぃちぃちゃーん?」

 ダッと無言で『ちぃちゃん』が上に逃げる。もう一人も慌てて後を追ったみたいだ。じゃあね~ばいばーい。

 放課後の階段に静けさが戻る。

 作り笑顔を外して祥平は首を傾げる。足音からして、もう一つの階段の方まで回ったみたいだ。もうこちらには来ないだろう。

 これで満足かな。

 こういうのを求めていたんでしょ……。

 何となく、ブレザーの上から袖をひっかき回す。布が多すぎて撫でているみたいだ。頭にキて袖の下を直接引掻こうとしたが、面倒すぎて余計イライラしたのでやめた。

 毎日きゃーきゃー逃げられていれば、自分がいかに特別かなんてわかる。廊下を歩けば道ができる。祥平が近づけば水を打ったように静かになる。授業をサボっても何も言われない。

 特権階級みたいでしょ。

 もちろん、祥平は特別だ。神様だから……。

(氷空……氷空に会いたい……大丈夫、俺は最強の兄神様……氷空は嘘つかない、だから大丈夫……氷空が教えてくれた、氷空を守る)

 ――でも、ちょっと疲れた。喋りすぎた。

 呼吸を宥めて胸元の留め具を握り込む。ショールに縫い付けた木の実のボタンは、氷空の存在を思い出させてくれる。

 何もバレませんように。

 グッと握力を強めて不安を飲み込む。氷空が求める兄神様は、きっとこんな化け物じゃなくて……。

 にこにこと独りで笑みを浮かべる。

 祭りは続いている。同じ曲がまた始まる。この祭りは永遠に終わらない。永遠に、終わらない。

 目を閉じると意識して、作り笑顔の仮面を再装備した。祥平はくるっと傘の柄を回す。気を抜くと両手がぴくぴくと動きそうだ。

 最強で強い兄神様。

 だから……。

 笑顔の形の無表情で、祥平はカツっと踵を鳴らした。

「えー嘘、戻ってきたの気づかれてるっ……ちょっとちぃどうしよう!」

「あんたねっ……行くならさっさと行ってきなさいよ!」

 ――面倒くさいな。

 ズキッと後頭部が痛んだ。祥平は丁寧な笑顔を表情筋に貼り付ける。強固な仮面は自分でも容易には剥がせない。剥がし方がわからない。機械仕掛けの化け人形は、まるで神様みたいに作り物めいている。

 だってほら、王者の孤独ってやつだ。

 祥平はさり気なく顔に触れて、表情を忘れないよう脳に刻みつけた。ここと、ここと……綺麗に貼り付けるんだ。絶対何も壊れないように。

 自然と顔を上げていた。

 ガツンと左腰に衝撃を感じた。なんだ、どこにぶつかった……まあ良い。いつの間にか閉じていた両目を開けると、手すりを越えた下方に二人の女子がいた。

 咄嗟に身体を捻って引き戻す。視界がぐらついた。上から見下ろすのは嫌いだ、恐ろしい勢いで心拍が上がっていく。

(ぁ……あいつ、ら……俺の、下を……)

 祥平は震えを噛み殺し、俯いたまま右手で左腕を握りこんだ。僅かに気分が良くなり、チクチクした痛みは消えていく。

 あぁ……黙っちゃ駄目だ、ファンサしないと。

「わっ、新入生さんだ! 俺に会いにきてくれたの? わぁ~人気すぎて困っちゃう! やっぱ俺のさいみん……じゃなくて、ねーね、そのキーホルダーって昆布? おもしろーい」

「や、やばい……どうしよう、あの……」

 一年二人は下から回ってきたようだ。

 声のトーンに集中するために、祥平は傘で視線を遮った。足音が上がってきて、とうとう踊り場を折れたのがわかる。台詞なんて適当で良い。

「こ、これが昆布……先輩、目が悪いんですかぁ? 普通にりんごパイですけどぉ、可愛いですよ。てかその角度じゃ見えてないですよね」

 見るわけないじゃん。

 りんごパイ……りんごパイね。

 何の話だ? 思考が明滅して霞んでいる。許容範囲のつもりだったが、ちょっと無理しすぎたんだろうか? なんで? 今日ってそんなに酷いイベントがあったんだろうか。

 ……いや、祥平は格好良い。過去は振り返らない。コウモリの目が悪いのは当たり前だ。代わりに耳が優秀なのだ。

 祥平は身を起こすと、ふわりとショールを翻した。カツッ、カツ、とありったけ音を響かせて階段を降りる。当然通るのは中央だ。あぁ……良いねこの音、ヒール靴って覚醒剤になる。

 疲れ果てた身を震わす音だ。手放せない、これがなきゃもう動ける気がしない。

「ぁあ……お前何言ってんの? 可愛いとか嬉しくねえよ、あ、りんごぱい……食べ物だっけ? へぇ~俺も美味しいの食べたいなー」

 食べ物を手に入れたら氷空にあげよう。氷空ならこの格好も褒めてくれるはずだ。コソコソした上げ底シークレットなんて、弱者の逃げみち――。

 ショールの留め具を右手で握る。氷空はどう褒めてくれるだろう。褒めてくれるはずだ。でも……見られたくない。

「や、話通じてないし。そうじゃなくて、てか先輩に危ないとか言われたくないっていうか」

 氷空を守る……。

 祥平は軽く首を傾げた。

「えー俺の方が危ない? やっぱり? だよねぇ俺ってアイドルみたいでさぁ~ちょーカッコいいからぁっ! 襲われちゃう?」

 自意識過剰万歳だ。

 アイドルみたいって氷空は言ってくれた。

「んーっ、護衛作ろっかなぁっ、あーもしかしてそのために戻ってきてくれたの! わぁ~うれしーなぁ~俺の兵隊だぁ!」

 ニヤニヤとこれみよがしに攻撃的な笑みを作る。口から出任せも考えなしもご愛嬌だ。

「俺のモノだから、好きにしていーよね?」

 傘を上げると、右手で軽く口元に触れる。大きな動きは視線を誘うのだ。目立つ動きが視線を虜にする。

 朦朧としていることも。

 剥がれる気配のない作り笑顔も。

 どことなく舌足らずな口調も。

 些細な違和感を全部隠してくれる。

(かっこいい……でしょ? ニンゲンのアイドルみたいでしょ?)

 祥平はそのために、芝居がかった動きを極めている。誰に何を見せたところで、明るく自然に取り繕える。自信満々なニンゲンを偽って、感性豊かな道化になれる。

 ココロを知らない化け物でも、人間社会に溶け込める。

「ごめんぇ惚れちゃった? デートしたい? ぁは、うれぃー、けど」

「いや、噛んでる……思い切り噛みまくってるっ、言ってることめちゃくちゃだし、やば……や、でもそういうもんと思えば、意外と可愛い……?」

 ぁ? 可愛くねえよっ!

 祥平はふらっと頭を揺らした。バカバカしい……そういう態度を装うのだ。

「ごめん、全然同意できない……で、どうするの、わたしはそろそろ逃げたいんだけど……」

 ふらつく足を一歩ずつ先に進める。踏み外したら威厳を損ねてしまう。シャラシャラと身に纏う金属が、おかしなリズムを刻まないよう全力で耳を傾ける。

「……いいじゃん話くらい、距離取ってるし! 絶対ネタになることない? こんな覆面男子初めて見た!」

「んーなぃなに? 俺の話? そうそう、隠れイケメン説あるよね~あははっちょーわかる! カッコよくてマジ人間みたいじゃん? ぁ? ふくめん?」

 ベールの下を指差してにこっと笑う。吐きそう。

 いつの間にか止まっていた足を動かす。カツッという音は、二つの気配のほとんど横まで来た。

「や、人間みたいってゆーか」

「ぁ、やっべ……ふふ、あー、俺って実はニンゲンだし……てかこのエレガントなファッションが覆面! ぁはは、ちょーウケる発狂してんじゃないの、大丈夫? 診断したげ――」

 祥平は口を閉じた。

 片方がもう片方を咎めるような気配。声に出さず喧嘩でもしているようだ。微妙な衣擦れ音が鬱陶しい。

 祥平は口元を嫌らしい笑みにすると、首から掛けたネックレスに触れた。手遊びするように弄ぶ。

 あぁ、そーいうことね……。

 ――キレそう。

「んー、採血でいーい? 俺って血液マイスターだからさぁ~」

 ファンでもやって良いことと悪いことがあんだろ。プライベート暴くとか、ストーカーするとかそういうの。

 祥平は傘の柄を左手でぐっと握りしめる。

「せっかくごちそう……ぁ、んぅー……ね? 俺の兵隊、俺のモノ」

 ひくっと指先が痙攣したが、構わず祥平は傘の向こうに手を伸ばした。

「ぎゃあっ、なんで気づい、ひいっ?」

 女子は力任せに右腕を振り回す。祥平は掴んだその腕をぐっと握ると、自分の口元に近づけた。

 当たり前のように。

「いやあああああ!」

 舐めようとしたんだけど。

 ふわっと意識が跳んだ。

「き、気持ち悪い! ありえない! ふざけっ――」

 殴られ、た……?

 後頭部にがつんと打撲の痛みが来て気づく。腕や腰もあちこちが痛い。カシャンと傘が音を立てて遠ざかっていく。

 いつの間にか階段に寝ていた。

 ……うぁー、骨折れなくて良かった……奇跡だ。騒ぎになると面倒くさいし。クソ……。

 あぁ……ほんと、めんどくさいよな……。

 さわぎ……寒い……。

「うわ、ちょ……やばくない? ぁ……でもあたし止めたよ? こんなの相手にするからだよっ! しかも帽子取って写真撮るとかっ――やばい奴なのわかってたじゃん!」

「ひぅ、いっ、やだ、洗って帰ろうよ。サイテー……!」

 人間は逃げたようだ。すすり泣くような声が遠ざかる。

 もう少し……寝ていて、良いだろうか。気道が狭まったように息が苦しい。祥平はせり上がる吐き気と戦う。ふらついて顔を上げられない。祥平は最強の兄神様だ。

(き、気持ち、悪い……まずい……ザコじゃない、俺は、ザコじゃ、なっ……!)

 獲物に負けて堪るか。

 でも疲れた。このまま……寝てしまおう。

 祥平は震えてショールを引き寄せる。寒さを受け入れるように力を抜いた。帽子は取られずに済んだ、無謀な新入生は逃げた。

 抵抗するから苦しいんだ。ザコじゃない。よく思い知らせられたはずだ。

(氷空に、会いたい……)

 マッチ売りの少女の幻覚でも、温かな家庭は幸せだった。たとえ死を待つ瞬間の走馬灯でも。

 ――氷空に会いたい。

 祭りは変わらず続いている。

 でも黒沢祥平は吸血鬼って、みんなが――。

 もう一度右手でネックレスを掴む。ぼんやり景色を映す三日月は震えている。氷空には一度も見せたことのないもの――。

(嫌われる……嫌われる、氷空……っ)

 こんなんじゃ会えない。

 嘘なのに。望まれるままの演技なんて全部。

 氷空はわかってくれる。褒めてくれる。今更必死で隠さなくても、こんな気が狂うこと続けなくても。

 正直に話せば――。

 ちくりと再び腕が痛んだ。

 ぞわぞわと鳥肌が立ち、みるみる感覚が凍りついていく。自然と顔に笑みが浮かんでいく。

 知った氷空は軽蔑するだろうか。嘘つきって怒るだろうか。幻滅か失望か、それとも――。

 祥平を恐れるだろうか。

 こんなに簡単に嘘を紡げるペテン師、嫌悪して拒絶するかもしれない。大嘘つきの詐欺師様は、被った仮面を外せないんだ。

 でも大丈夫。

 氷空は気づかない。

 何も知られることはない。

 そう――バレてしまえば氷空は離れていくけど。

 祥平は三日月を握りつぶす。

 ずっと昔、氷空は変わってしまった。氷空の見ている完璧な兄神様が、祥平にはどこにも見えなかった。

 でも氷空は嘘つかない。

 祥平は兄神様になった。本物になった。

 笑顔しか見せられない祥平に、氷空は笑顔を返してくれた。

 高慢で良い。人を殺したって良い。

 兄神様がニセモノのわけがない、氷空は正しい。だったらニセモノなのは――。

 嫌われ者の化け物の方だ……。

 上に戻らないと、氷空の教室に行かないと。

 嘘は嘘のまま氷空に知られないように。

 祥平はかすかに首を振る。ちくちくしたせいで消耗してしまった。立ち上がれないじゃないか、バカバカしい。一体これはなんなんだ。

 アレがヤりたくて仕方ない……じゃないと死にそうだ。

 突然、左手首に振動を感じた。

 祥平は半ば無意識にセーターの袖をめくる。ベルトで固定してあった携帯電話を出すと、画面も見ずに応答ボタンを押した。

 全身の力が抜ける。

 ずっと続いていた山形の祭りは、唐突にふつりと終焉を迎えた。頼りない現実は眩しすぎて恐ろしい。

 氷空、早く……早く言葉を……。

 右腕を枕にして階段に突っぷする。耳にかけたままのイヤホンから物音が聴こえる。

『……祥平君? また何も言わないけーね。どこほっつき歩いとるん? 和室で荷物預かっとるけー』

 ……氷空じゃない。

 真っ黒い闇のように苛立ちが吹き出した。祭りを終わらせておいて、氷空じゃない!

 ああもう、真っ暗じゃないか。

『顔色真っ白だったけど、大丈夫? みんなもう帰ったけー』

「……んぁ、ん……うぅー、ぁ……あゆみ……」

 声を出した途端、どっと身体が重くなった。

 落胆なのかほっとしたのか。

 もう、何でも良いや。

『ほんとに大丈夫? 聞き取れとるか不安だけど』

「あ……うん、まあ……荷物……今日って、和室行ったっけ」

 祥平はゆっくりと階段から起きた。

 蚊の鳴くような声は、果たして自分のものなのかすら怪しい。……あれ?

 本当に和室に行った記憶がない。なんで荷物が和室にあるんだ? 嫌だ……過去なんて気にさせやがって。

 あ……いや、違う……行ったはずだ。

 偽物の記憶かもしれない。確か祥平は。

 氷空の名前を目にして。

「ぁ……氷空が、和室に……」

 くらっと一瞬ふらついた。慌てて祥平は階段に手をつき、ゴンッと頭から手すりの壁に凭れた。

 気持ち良い。

『ちょっと……凄まじく猫被っとったけーね。妹に何も話しとらんの?』

「黙れ! う、るさ……ぃっ、だまれよクソが」

 血の気が降りていく。なんかやばいけど……良いや。

 取り繕うのも、疲れるし……。

 相手、あゆみだし。

『氷空ちゃんは勝手に噂になるし、サークルに入ったなんてむしろ格好の話題だけー。本気で隠せると思っとるん?』

「……サークル……」

 なんだそれ。ああ、和楽器サークル……悠梨の尺八に惚れたって言っていたっけ。氷空なら当然だ。

 ……サークルに入った?

 え、それじゃ、そんな……祥平は……。

『これじゃ、君の勉強会も難しいし……今日みたいに、毎回茶室借りて着替えてくる気?』

 勉強? 最初から最強だから必要ない。

 反論するのもだるい。適当で良いや、構っている余裕はない。放っておいてくれ。

 氷空……。

 和楽器……祥平がサークルに入ったのは、そんな高尚な理由じゃないけど……。

『ほんとに覚えてないん? そのために君がサークルやめるって言ったんよ。……大丈夫?』

 心配するな! 氷空が最強って――。

 唖然として噎せた拍子に、呼吸が狂って上手く息ができなくなってしまった。

 意味がわからない。

 なんで祥平がやめなきゃいけない? あぁでも、氷空が来るなら……祥平は行けない……。

 会いには行けない。氷空の側にいてはいけない。

『大丈夫? 真に受けてクビになんてしないけん、そろそろ戻ってきなさい。気分転換に合奏でもしない?』

 ――いや……。

 祥平は追われるようにあちこち触りまくった。ブレザーも手袋も、階段や壁も全部だ。呼吸を死ぬ気で整える。

(氷空を守る。近くに俺がいたら邪魔だ。排除しないと……)

 思い出す必要なんてない。

 過去は振り返らない。氷空を守ればそれで良い。祥平は手袋ごと親指に噛み付いた。

 どうせ和室なんてもう行かない。祥平なんかより、サークルは氷空に相応しい。楽しく和楽器をする氷空の側に、祥平が――化け物がいるなんて。

 ありえない――。

(クソみたいな化け物の側で、氷空が……氷空が、キチガイの同類って……ありえない、引き離さないと、一秒でも近づけたくないっ――俺が氷空を守るっ!)

 会うなんて正気じゃない。

 ……嫌われてしまう。

 ぐぐっと顎に力を入れてから、違和感に僅かに口を開ける。暫くして漸く、自分が噛んでいたモノに気づいた。

 ……まあ、こんなもの千切れても惜しくはない……けど。

「んっ……このみーかっこいい、すごいね最強だね……頑張って……ふふっ……うんっ、ありがと氷空! 敵はこわすね」

 そう、きっと祥平はそう考えた。氷空を守るには敵は邪魔だ。勘違いさせてはいけない。氷空は化け物の同類じゃない……。

 ぽろっと何かがショールに落ちた。水滴……祥平が人間だったら、これは涙と言うんだろう。でも人間じゃない。だから別の何かだ。涙なんて……氷空に会って、人間っぽくなったのか? 神様なのに?

 まぁ実際、氷空に会うとなんか……調子が……。

「ふふっ……うふふっ、かっこいい? うん……頑張るね氷空」

『祥平君? 一人で何を……真面目な話、いい加減病院行った方が良いけー。氷空ちゃんも』

 通話を切った。

 メールの履歴を呼び出してフォルダを開く。

「……ふふっ……『戸惑ったけど、このみーが守ってくれるから』――んぁ守ったげる……『このみー大好き!』、ありぁと氷空、頑張るよ氷空、頑張って守る……守らなきゃ……まも……」

 びっくりするくらい元気が湧いてくる。

 祥平の声は嫌いだけど、口に出して唱えると本当って感じがする。ここには祥平の真実が詰まっている。何度でも読める。あぁ思い出した。

「ありがと氷空……絶対、まもるね」

 何もかもどうでも良くなる。無敵になれる。

 凍りついて石になった感性が、転がり落ちて被害を撒き散らす機会を窺っている。

 ボタンを操作して再び曲を流す。山形の祭りは再開された。変わらない祭り。祥平が何をしても、何があっても終わらない。

 身体に火が灯り、ゼンマイは巻き直された。一番格好良い作り笑顔を――。

 仮面が動かない。もう一度だ。

 一番格好良い作り笑顔を、表情筋に貼り付ける。ほらできた。

 行かなきゃ。

 カツッと、階段にヒールの音が一度だけ響いた。祥平はパタッと携帯電話を閉じて元に戻す。ここにあれば氷空の連絡にすぐ気づける。階段を登るのは大仕事だが、今の祥平ならきっとできる。

 氷空に褒められたい。

 もちろん通るのはど真ん中だ。手すりは……要らない。氷空を守るのは楽しい。これがきっと楽しさだ。それしか祥平にはないが、氷空を守る力だけは誰にも負けない。

(ふぅ……ふふっ、氷空……ありがとう、あぃ……)

 何でだろう、息切れが酷くて声に出す余裕はない。ぐるぐると平衡感覚がおかしくなって、今にも崩れ落ちそうだ。

 でも構わない。

 楽しくて仕方がない。心躍ってじっとしていられない。

 留め具の木の実をもてあそぶ。何気なく唇に押し付けると、ざらついた感触がひやっと熱を奪う。ささくれた焦燥が癒されていく。

 何をやっているんだろう。

 ……そうだった、氷空を……守っているんだ……。

 胸がドキドキと暴れている。極めてゆっくりと立ち上がり、片足を持ちあげる。足がしびれた時のようにのろのろと動かす。

 カツッ――。

 ほら動けた。

 機械仕掛けは簡単に終わらない。貼り付いた仮面はぴくりとも動かなかった。外から見れば堂々とした歩みだ。

 きっと最強の兄神様だから。

 時の狭間に囚われた祭りは、いつまでも変わらず続いていた。

 ……そろそろ、行動に出ないといけない。氷空に群がる羽虫どもを、祥平が直接見極めるのだ。

 氷空を守るんだ……。

 それ以外に、呪いの人形の居場所はない。

次回、幕間を挟んで次章です。

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