一章3 兄妹の絆
そろそろお気づきでしょうが、このお話の主人公はとても極端です。
……二人とも。
そして結局、氷空は和室に来ていた。
「こっちはお筝よね。それからこっちが尺八……あら? 演奏会のしおりが混じってるのね。わたしもちゃんと見たことなかったのよねぇ、ほとんど昔の筝曲部の譜面なのよ。やったことあるのは、この辺かな?」
譜面を仕分けてくれているのは橋本悠梨だ。
箏曲部の部室から持ってきたらしい。今は残っていないが、結構最近まであった部活みたいだ。埃を被った筝が立てかけてあると嘆いていた。
氷空は積み上がったコピー譜を手に取る。冊子を開くと手書きで縦に漢数字が並んでいた。
「あ……これ、同じ曲、ですね。これお筝で、こっちが尺八?」
「あら、譜面がわかるのね! そうなのよ。こっちの二冊が篠笛と三味線ね」
平成アイドルソングメドレーらしい。譜面は全部まるで違う表記だ。尺八は音名そのままにカタカナのロレツチが縦に並んでいる。三味線なんて五線譜みたいな横書きの数字だし、篠笛は縦並びの算用数字だった。
(……うーん、やっぱり……自己アレンジ、だよね?)
妙に厚いと思えば、篠笛や箏は後半に簡易バージョンの譜面がある。メインの譜面と筆跡も同じだ。コピーではない山を漁ってみると、同じタイトルの手書き原本がある。
「これは、箏曲部で……篠笛も、いた……?」
悠梨が手を止めて譜面を覗き込む。
「そうじゃないわ。せっかく作ったのに、わたしたちが演奏して終わりなのはもったいないじゃない? だからわざと部室に残してたのよ」
氷空はきょとんと悠梨を見た。つまり、和楽器サークルの作品なのか? でも直接サークルで伝えられるとは思っていない……?
悠梨は不思議そうに目を瞬いた。
「……え? 心配しなくても、まだなくならないわ。一年生はまだいないけど、なんとでもなるのよ。でもサークルの部室はまだないから、箏曲部の場所を借りて置いてるの、それだけよね」
呟くように悠梨が言う。聞かれても困る。
一応納得して氷空は視線を落とす。元の譜面は筝のパートが三つだ。普通の十三絃筝が二面と、十七絃のパートまである。和楽器サークルは筝が一人……アレンジ後に三味線があるってことは、卒業した先輩は三味線弾き?
人が増えても余計にバラバラだ。既存の曲を探すなら苦労するだろう。
「……これ、橋本先輩が、作った……ですか?」
「悠梨先輩と、卒業した政先輩の二人だけー」
氷空は斜め後ろを振り返った。何かの紙を指でなぞっていたカチューシャ女子が顔を上げる。
「天才二人がフィーバーしすぎたんよ! だけん、実際に演奏しながら簡略化したのがそっち。それで譜面が二種類くっついとるんよ」
わあ……大仕事だ。
一度アレンジを完成させたのに、難易度を調整して書き直すということだ。書くだけで大変だろうし心も折れそう……なんでいきなりメドレーなんて大作を……。
「でも、あの……日笠、先輩? の譜面……ない、ですよね?」
締太鼓の日笠あゆみは、莉桜が言った〝秀才ちゃん〟だ。ちなみに莉桜は茶道部があるから隣の茶室に行ってしまった。今サークルの部屋にいるのは、氷空の他には悠梨とあゆみだけだ。
各楽器のアレンジをしたらしいが、氷空の手元に締太鼓はない。
「ああ、あーみんは譜面使わないのよ」
「締太鼓の譜面って、特に決まってないんよ。私もぐちゃぐちゃのメモだけだけー」
あゆみが手元の紙をペラっと振った。さっきから見ていたのは譜面代わりのメモだったのか。
「……あ、それで、リズム取ってた……ですね?」
黒丸と白丸が並んでいるが、全然ぐちゃぐちゃには見えない。
「あーみんはほとんど太鼓叩かないの。リズムの勘を叩き込んで、イメージを固めてからが良いみたい。太鼓ってずっと叩くと疲れるものね」
そういう方法もあるのか。
叩いた方が練習になりそうだが、体力的に長続きしないのかな。それともただの好み……? 叩く感覚とか、それで良いのか?
要するにイメトレ主体ってことだ。
「太鼓のアレンジだけはあーみんが自分で作ってるのよ! わたしも政くんも、太鼓は詳しくないの」
「まさ……って、あ、はい」
卒業生の名前だったか。氷空は一応頷いたが、年上にしては呼び方が親しげだ。そういう風土なのか。悠梨だけやたらフレンドリーな気もするが……。
ふと入り口の外に目を向ける。
莉桜に案内してもらった時、和室にはもう一人箏の三年女子がいた。元美術部の〝郷土愛〟――鈴谷水月だ。
(鈴谷先輩……鞄置いたままだし……隣、茶道部だよね?)
鞄にはマンボウの帽子を被った青いキャラがたくさんついている。ラバーキーホルダーに三次元ストラップ……ご当地キャラだろうか。莉桜が言っていた浮きみたいなのもついている。
水月が飛び出したのはついさっきだ。
「さっきのが気になるん? すぐ来ると思うけー」
「あ、はい、あの……別に、良いです、けど」
気になるのは当たり前だ。尋常の空気ではなかった。
入れ替わりで来た悠梨が譜面を見せてくれたし、氷空はこの時間には満足だ。急いでもいない。ただ……。
(飛び込んで来た人、ヒールの足音……たぶん〝吸血鬼〟の先輩、だよね? 凄く苦しそうで、あれ……過呼吸?)
ドアの開く音とほとんど同時に、ドサッと荷物を投げ捨てるような音がした。ジャラジャラと金属の擦過音もして、何より呼吸が尋常じゃなかった。駆け込むように来てそのまま倒れ込んだようだ。
入り口が折れ曲がっていて、直接見ることはできなかった。
――『っ――わたし、見てくる!』
ほとんど同時に水月が飛び出したのだ。氷空も見に行こうとしたら、あゆみに止められてしまった。当人が大勢を嫌うと言われれば、納得して引き下がるしかないが……苦しそうに聴こえた呼吸は妙に気になる。
聞こえる声からして茶室に促したらしい。それなら吸血鬼は茶道部だろうか。
何故か移動のタイミングで、茶室の方から黄色い悲鳴が上がっていた。ファンクラブ……?
「……それより悠梨先輩、もしかしてあの後もう一通メールしました?」
「へっ? あ、そうなのよ! あーみんと水月は返信くれたからよかったけど、スルーされちゃ来るかもわからないじゃない? それでさっき、この子が来るのよって、そらぴーの名前をメールしたの」
……え?
あ、昼休みに名乗り合ったから……でもよく覚えたものだ。氷空は演奏が衝撃的すぎて忘れなかったけど。
神がかった演奏に触れれば、演奏者に意識が向くのも当然だ。
「やっぱりそうですか。氷空ちゃん、私の知り合いによく似とるけん」
「っ――それって二年生ですか、クラスメイトとかあの、名前は!」
あゆみは驚いたように仰け反った。
氷空は譜面を置いて向き直る。似ていると思ったことはない。でも見た人はよくそう言うのだ、氷空と祥平は似ている。
「クラスは違うけーね。でも、アレの顔を健康にして性別変えたら、氷空ちゃんみたいになるんかなと」
……健康に?
氷空が虚を突かれて瞬きすると、あゆみはスッと目を逸らした。
「えっ、ちょっと待って無理しないでよ!」
あゆみはそのまま気がかりそうに入り口に目をやる。
なんてタイミングだ! 水月の声だ。襖を開け切ったような音に、どんっと壁の裏で何かがぶつかるような音がする。
慌てて俯いた。
見てはいけない気がした。
「ああっ、せめてもっと慎重に動こうよー、また怪我すっ――大丈夫っ?」
ごんっと妙な音がしたと思うと、誰かが盛大に飛び込んできた。多分敷居に足を引っ掛け、氷空の視界に転びこんだ。
俯いていても見えてしまった。
(……ああー、うー、痛そう……痛そうだよ……)
転んだ人は、悲鳴も上げずにうつ伏せで震えている。黒い布に覆われた両手がぴくぴくと動いていた。受け身もまともに取れなかったらしい。
仕方なく氷空は顔を上げる。入り口でツインテールの女子が痛々しげな表情に立っていて、目が合うと苦笑いされた。茶室にいたはずの水月だ。
氷空は畳の上に視線を戻す。
見覚えのある背格好だ。うつ伏せじゃタイの色はわからないが、無言の転びっぷりも既視感がある。どんなに痛そうでも、絶対に悲鳴を上げないのだ。
(背格好……でも、制服着てるの、見たことないし……人違いの可能性、あるかな……?)
紺色のブレザーに灰色のスラックス――今ここで唯一の男子生徒だ。背は低めだが……少し髪が伸びた? いつもならそろそろ切り時の気がする。
無言で氷空は頷いた。
この背格好で黒手袋だ。袖口からは学校指定の灰色セーターが覗いている。ファッション嗜好はいつも通りだ。
(話しかけた方が良いかな……?)
放置してもしょうがない。
「――このみー、何して」
バッと男子が顔を上げた。
「あ、じゃなくて、何しに、でもなくて」
「氷空だっ! あ、えと、えーと……っ、あぅ、そ、新入生さんだ!」
何故か動揺したようだった表情が消え、ぱあっと笑顔が花開く。やっぱり祥平だった。額に赤く跡がついている。
痛そうな状況は歯牙にもかけず、いそいそと祥平は畳から身を起こした。バランスを崩してどてっと手を滑らせる。また少し震えたと思うと、すぐに這いつくばって近づいてきた。赤いクロスタイがつやつやだ。
「祥平くんだわ! やっと来たのね」
「悠梨ちゃん、これ見て何も……動じないんだねー」
ふうっと祥平の目が焦点をなくしたように、ぼんやりと空中の一点に留まる。その視線がすっと移動して、不思議そうに水月と悠梨を見た。
「……んんー? みずぽん先輩と……部長? あ、あゆみもいる!」
にこっと笑った祥平が、撫でるようにブレザーの袖に触れた。
氷空は困惑で二の句を失ってしまう。夢見がちな視線はいつものことだが、全員知り合い? やっと来たってまさか――。
祥平も演奏会を聴きに来たのか。さすがすぎる。
「そりゃ……ここは和室だけん、放課後なら誰かいるけーね」
あゆみは若干呆然としていた。
悠梨は祥平の顔を見て安心したのか、にこにこと妙に嬉しそうだ。祥平の方がふっと顔を逸らしてしまう。
「あれ……どした、ですか? このみー? なんで?」
「んー? えーと、えーとぉ……あ、氷空が待ってた人だから……でしょ!」
祥平が自慢げに笑った。氷空が、待っていた……。
そんな甘い話じゃない! 待てなくて探しに行った。でも見つからなかった! そう考えると、やっぱり会える時を待っていたかもしれない。きっと待ち望んでいた。
毎日メールで報告した。どこを見に行ったか必ず伝えたが、祥平は何も言わなかった。こんな風に突然の再会を、今か今かと窺っていたんだろうか。
久々の祥平はどこか現実感がない。初めての制服姿だからだろうか。祥平もふわっと右手を伸ばしてくる。
「ふふっ、遅くなってごめんね? 氷空はなんでここにいるの?」
「……あの、あたし……あのね、和楽器サークルが演奏会するって聞いて」
ふっと腕が強く引かれ、バランスを崩した氷空はひしっと抱きしめられた。
ぎゅうううっと圧力がかかり息が詰まる。いや本当に痛い、メリメリ骨が軋んでいる。腕が折れそうだ。苦しい……!
すぐにふっと力が緩まった。いつもの祥平だ……最初に息苦しいほどの抱擁で始まり、やがて緩く凭れかかってくるのだ。
本物だ。
嬉しくて首元に顔を埋めると、頭上でくすっと笑い声がする。祥平が喜んでいる。
「氷空だあ、久しぶりの氷空! 元気な氷空見るとねぇ、うれしい」
……その囁き声が、氷空も嬉しい。
「あら? そらぴーって祥平くんと知り合いだったのね、だったらちょうどよかったわ!」
ぎゅうううっと祥平の力が強まった。氷空は必死で耐え抜いて抱き締め返す。
あ、あれ……?
あゆみや水月が微妙に顔を引きつらせている。
「あの、祥くん? それくらいにしといた方が、氷空ちゃんが」
水月を睨む。ぴくっと水月は肩を跳ねさせたが、祥平は力を緩めてしまった。
好きで抱き締められているのに!
慌てて氷空から強引に抱き締め返す。ぎゅうぎゅうしてくれなきゃ祥平じゃない。どこかに行ってしまいそうだからやめてほしい。
「そらぴーも和楽器大好きでしょ? 今日は体験もしていいのよ! 部活登録は終わっちゃったけど、サークルに入ってくれたらもっと楽しいわ!」
祥平がまた、力任せに抱きしめ返してくれた。加減を知らない愛情表現は普段通りだ。だけどこれは……。
(ちょっと、疲れてる……のかな)
氷空は両目を閉じて、温かい鼓動に身を委ねた。
肩から背中を何度もゆっくり撫でる。一週間かけて募りかけていた焦燥が、淡い雪のように融け消えた気がした。何もわからず遠くから不安がるよりも、近くで抱きしめ合う方がずっと良い。祥平の体温はいつも通り温かい。軽快に刻むリズムを感じる。
……祥平はここにいる。
「あたしっ……昼休み、このみー探して……そしたら、特別棟にい、るって」
すぐに不安になるのだ、祥平が消えてしまいそうな気がする。氷空が過去を引きずっているせいかもしれない。
――ぇ、いや、でもちょっと、さすがにくるしっ……。
息ができなくなってきた。さっきはちゃんと緩んだのに。
「ぁ、あのねっ、一年の人、このみー探してたから……二年の人が、一年の人に教えて、上って……え、とっ、そしたら尺八が、聴こえ、て」
誰かが息を呑むような音がした。
「一年生が祥平君を? そんな無謀なバカがどこに」
「あゆみちゃん……言い過ぎ」
抱擁が弱まって身体を離された。氷空はこっそり息を整えて身を起こす。遠くを眺めていた祥平が、ぱちぱちと瞬きして楽しそうに笑った。
祥平は口元に人差し指の先を当てた。
「俺のこと探してた一年に、二年の誰かが場所教えてたの? 特別棟にいるよって? んー、どんな人が?」
「え? 二年の先輩は、このみーのクラスメイトって……えと、地学の教科書、持ってた、ポニーテールで」
すうっと祥平が目を細める。妙にうっとりと瞼を震わせた。興奮を抑えるように低く息を吐き出す。
「ぁあ……二年、地学、ポニーテール。クラスメイト。そう、なんだ……」
もしかして、誰のことかわかったんだろうか?
それにしても制服が似合っている。ただ、情熱色のクロスタイが若干曲がっていた。氷空は何気なく手を伸ばして直す。
「っ……あっ? ぁ、ありがと!」
祥平がにこっと笑顔を深めた。
「ああぁ……その人たち誰も悪くない」
「ん? あぁみずぽん先輩いたんですね」
えっ?
祥平はさっき水月を視認していたはずだ。それになんか……返事が雑じゃないか?
きょとんと氷空が見ていると、祥平は頭をぽんぽんと撫でてくれる。気持ち良くて氷空も目を細めた。
「ふふっ、ありがと氷空! あぁごめんね氷空っ、あのね、えとね、今日はいつもの場所いかなかった! 部長が来てたんだね」
祥平は妙にゆるゆるの笑顔だ。氷空にはわかる、明日は快晴だ。
「そう、そうなの! 祥平くんがいないからわたし、一人で尺八吹くことになったのよ! おかげでそらぴーに会えたの!」
「ぁあ? 事実関係わかん、ないけど……部長の演奏が聴こえたら上行かないですよ。演奏止まりますし」
戸惑ったように悠梨が視線を落とす。
それはそうだろう。祥平は氷空と違って先見の明があるのだ。
「あたしも、行かなきゃ良かった……転んで見つかってね、演奏、止まっちゃったから――あ、じゃなくて!」
祥平の目の色が変わった。
ぐっと強引に抱き寄せられたと思うと、氷空はまたぎゅうぎゅうと締め付けられる。
「——だいじょぶ? 痛くなかった? どっかぶつけた? 怪我してない?」
慌てて氷空も抱きしめ返す。
「ふぅん、部長が勝手に演奏止めたんだ……演奏会、遅いね……」
「あのね! けどあたし、色々教えてもらってた! 譜面も見せてもらっ――ぅ、て、面白くて、それに、今日ここ来て、このみーに会えた、からっ……痛くないよ!」
できるだけ苦しそうにならずに言えたはずだ。
祥平は満足したのか、漸くふっと力を抜いた。安心できたなら幸いだ。氷空は怪我なんてしていない。
思い切って周囲に視線を向けると、あゆみは真顔で唖然としていた。水月は何故か顔を背けて視線を落としている。
「そうなのよ! 祥平くんが来るまでね、そらぴーに譜面も見せてたのよ!」
悠梨だけはまた嬉しそうだ。
「……えっと、祥くんって悠梨ちゃんの演奏、そんなに好きだったの? 止まっちゃったら残念なの? 全然そんな感じじゃなかったよねー?」
「あら、毎日聞いてくれてたじゃない!」
祥平がきょとんと首を傾げた。氷空は再び解放される。
「演奏……あぁはい、どうだった氷空?」
「あのね、演奏すごく、凄かった! あたしそれで、近くで聴きたくて! このみーもいれば良かったのに、あたし……どこいるか、わかんなくて……」
祥平の笑みが深まっていく。あの時は、他にも傘を差した人が立ち止まっていた。
悠梨の演奏は本当に、心が震えるみたいに凄くて。
ふと祥平と目が合った。祥平はいそいそと嬉しそうに、氷空の前髪を整えてくれる。ちょっとくすぐったい。
「氷空が探してくれたのね、嬉しい。けどあのね、会うと変な勘違いされるかもだし、だかぁへっ?」
がしっと、氷空は祥平の左腕を握った。
震えた祥平が恍惚と息を漏らす。もっと、もっとと呟いていた。氷空は一瞬困惑したが、思い切って握る手に力を入れる。うるっと祥平の目が蕩けた気がした。
「ぁあ……生きてる気がする」
氷空はにこっと笑いかけてみた。
熱を持った祥平の目を見ると、氷空も嬉しくなってしまう。
「……勘違いが嫌なら、もっとやりようあると思うけー」
あゆみが冷めた声で呟いた。
「あ、うん、あのね、勘違い……あたしそれは、どうでもよくて」
祥平はきょとんとしたが、すぐに心配そうに眉を寄せた。
氷空はらぶらぶで蕩けている祥平を直視したい。毎日惚気られたい。そのためにも祥平の側にいたい。それより大事なことはない。
勘違いって、氷空と祥平が仲良しなことだろうか。
確かに氷空がいじめられた時は、祥平との仲も散々言われた。地元のこの学校に、昔を知る人は……少なくとも莉桜は知っていた。
でもどうでもいい。
「あたし、そんなことより、このみーが我慢する方がやだ」
祥平にらぶらぶしている相手がいるなら、ぜひ目の前でいちゃついてほしい。
わざわざ距離を取るなんて嫌だ。氷空はずっと祥平を眺めて崇めて、全部日記にしてメールで送るのだ。
「あたし、このみーは、会いたくないかもって……高校で、隠れてるかなって思ってたけど、でも、いつも通り……だよね? 会えて嬉しい。このみーもあたしと会って、嬉しかった……?」
微かに目を見開いた祥平が、瞼を震わせ宙を見て微笑む。決して氷空を嫌がっている表情じゃない。
「びっくりさせたくて……ふふ」
ちょっと強すぎるドッキリ趣味だと思う……けど、一貫していて格好良い。
「あら? じゃあそらぴー、和楽器やりましょ!」
「えっ――あ、えっ? あたしが、和楽器? それよりこのみーは」
咄嗟に氷空は、視線を彷徨わせた。そんなつもりで来たわけじゃない。氷空は祥平がいれば充分だし、わざわざ部活なんてする時間があるなら……。
氷空の頭の中に浮かんだのは、今製作中のクッションのデザインだ。祥平のことで忙しいのだ。
祥平が本心から大事にしてくれているのはわかっている。いつでも氷空を第一に守ってくれるし、献身と言って良い愛情をくれる。
ちょっと、だいぶドッキリ趣味だけど……。
だからこそ祥平の幸せの絶頂を、氷空は真横で観察して記録して捧げたい。氷空以外の相手にどろどろに蕩けてほしい。
「あぁー、氷空ありがと……でもねあのね、会えるの嬉しいけど、氷空を守れる方が、もっと嬉しい! だからねっ、氷空がサークル入りたいならね、えっと……えっとね、はぁ……」
祥平の視線が熱くなっていく。
「は、入りたいなんて言ってない! でも、でも和楽器やってみたいとは思うけど、でもそれは、思うだけで」
何故? 悠梨が勝手に言っただけで、氷空は一度断っているのだ。祥平以外に誰かと親しくする気は一切ない。祥平の手を煩わせる気はない。
ぶつぶつと祥平は何か呟いていた。氷空を守ると繰り返しているみたいだ。氷空は幸せ者すぎる。早く祥平のらぶらぶハッピーを凝視したい。結婚したら氷空がスクラップをプレゼントする。
そのために氷空は忙しいのだ。祥平を全力で祝う準備が失せることはない。
「このみー、部長さんの尺八、好き、だよね? ……あたしも、凄く、好きなんだよ? だから……演奏会来たら、このみーに会えるかなって」
「……そう、なんだ」
祥平が呟いた。
そうだ。
悠梨の演奏を祥平が聴き逃すわけがない。秘密でいっぱいの祥平に、氷空はかくれんぼで勝てたのだ。
「――じゃ、やっぱり氷空は、和楽器やりたい、よね? ん、わかった!」
にこっと祥平が笑った。
祥平が動く気配に、氷空は腕を離す。そのまま氷空に並ぶように横に来た祥平が、凭れるようにして指を絡めてくれる。
「じゃーえと……部長、俺やめるから、氷空のことよろしくお願いします」
「……え? 祥くんサークルやめるの?」
水月がぽかんと動きを止める。悠梨は困惑したように首を傾げているし、あゆみも真顔で眉をひそめている。
氷空はつい左横を見た。嬉しそうな笑顔と目が合い、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
「また、氷空を守れる。俺の生き甲斐……ふふっ」
――サークルをやめる?
「氷空のためにサークルにいた! 今日氷空を、みんなに紹介するために、篠笛吹いてた! 今日のために……ね、そうでしょっ、氷空!」
熱っぽい目で祥平の笑顔が輝く。
やめるって、今は入っているってことで……サークルの一員ってことで……メンバーは四人で、篠笛……?
「……え、このみーが? 篠笛?」
聴きに来たんじゃなかった!
ぱあっと笑顔で、祥平は答えを示してくれた。祥平の秘密を暴いてしまった。それなら氷空はサークルに入る方が、祥平と――え、やめるって?
「でもね俺と氷空はね、ほんとはどっちも大……ぅ、だぃ、大っ嫌い! ひっ、喧嘩するからね氷空のばか! うぅー……でもでも、あのね俺がサークルやめるの! そしたらね氷空も和楽器できるよ! ふんっ!」
ぎゅうううっと両目を閉じて祥平はそっぽを向いた。への字の口元に戸惑っていると、数秒で片目が開いて目が合ってしまう。
祥平の口元は僅かに笑みの形に釣り上がった。すぐにハッと目を逸らされたが、絡めた指がパタパタしている。祥平の頬が赤い。息を止めているみたいに、僅かに頬を膨らませている。
何かのお芝居みたいに極端な感情表現だが、これが祥平のいつも通りだ。氷空は今度こそ安心した。
もちろん手袋越しだが、ちゃんと温もりは感じていた。
「喧嘩したって言えばね、氷空もバカにされないから……和楽器し放題だよ。氷空の楽器は? お箏弾くの?」
「あ、えと、うん、やるならお箏だけど……このみー、嬉しそう?」
祥平はゆっくりと満面の笑みを浮かべた。
「ぁあ、お箏……氷空がお箏、おめでとう……おめでとう! だからね、仲よしは秘密だよ? ぅ、ふふっ」
直後に突然、別人のように笑顔が消える。祥平の視線が鋭く横に流れた。初めて見るような冷たい目に、氷空は動揺してしまう。
視線の先では、スマートフォンを手に水月が固まっていた。
「だ、誰も言わないよ! でも、祥くんがそんなで……」
ふっと祥平が両目を見開いた。
水月が目を逸らすとほぼ同時、祥平も逃げるように目を伏せる。何故かやたらと繋ぐ手の力が増す。水月は痛みを思い出したような表情だ。
何かあったのか、この二人。まさかバカップル……?
「……祥くんがサークル来て、氷空ちゃんと喧嘩別れしたって、言えば良いの? 無茶だよそれ」
「氷空ちゃんと仲が悪い振りを……する気、あるん? コレ」
あゆみが同情を浮かべるようにして、片手を畳から離した。メモは畳の上に放置されている。
何故あんな目で見られるのか、わからない。
「……わたしも……そらぴーはお箏って思ったのよ。来年になれば、でも……」
悠梨が呟いた。
喧嘩ごっこすれば、仲良しでいじめられることもない。
楽器を選ぶなら、汎用性が高くて学校にもある筝がベストだ。今後の楽器のバランスも良い。
祥平はいつでも正しい。迷いがない。俯いていた祥平は、そうっと力を抜いて視線を上げる。
ぱあっと笑顔が咲いた。
「氷空っ……ね、氷空、和楽器やりたいでしょ? だったらそれがいい! ねぇ氷空、遠慮しないで、我慢しないの、氷空のためがね一番嬉しいっ、好き!」
祥平は高校に入ってから、以前より明るく楽しそうになった。前も目が合えば嬉しそうに笑ってくれたけど、今ほどはしゃぐことはなかった。その祥平が、こんなにおすすめしてくれるのだ。
「……そらぴー! なんで黙ってるの? そらぴーも嫌よね、だってどう見ても」
ぴくっと、祥平の手が震えた。これはおかしい。さっきから祥平は嬉しそうなのに、サークルの誰かが話しかけるとおかしくなる。
本当はやめたいんだろうか。
氷空なんてただの理由付けだろうか。今もこんなに……氷空と目が合うと力が抜けて、熱に酔ったような目を向けてくれる。
「本物の氷空……ぁあ嬉しい、うれしい」
ちょっと極端だけど、喜んでくれる。
祥平は奥ゆかしいから、自分の望みなんて氷空を守るくらいしか言わない。メールの返信だってそればっかりだ。
ふと祥平は三人を横目に見て、不思議そうに首を傾げた。若干悪戯っぽい笑みを含ませると、ゆっくり手を解いて立ち上がる。
「当番戻らなきゃ、じゃあね氷空」
「――ん、いってらっしゃい!」
格好良い! パッと手を軽く振った祥平は、部屋を出る前に振り返る。にこっと微笑むと、開いた襖の横を通り抜け――ようとして躓いた。
がたんっとこけて襖にぶつかった音がする。
「ちょっ――祥くん大丈夫? そこ躓いたの二回目だよ!」
「んんー、いえ……みずぽん先輩、は、悪くない、です。じゃ……行きますね」
水月の顔色が若干変わる。ふらっと祥平が今度こそ去った。
氷空は止められなかった。辞めるならせめて、最後に演奏を――それが駄目なら、一緒に演奏会を聴きたいって……。
ギシギシと足音が聴こえたと思うとすぐ聴こえなくなる。木製の上がり口は数歩しかない。
ドアが滑る音が聴こえた。とんっと重力で跳ね返る音が鳴る。
「……祥平君、あのまま外に出たんですか?」
「っ――あっ、ちょっと待って、えーと……荷物!」
水月が再び飛び出していく。氷空はさっぱり動けなかった。
見えないところで、ぱたぱたと襖が開く音がする。多分、茶道部の方だ。
あれ? 氷空はどうすべきだっただろう。でも祥平を心配するなんておこがましい。祥平だって望まないはずだ。祥平が転ぶなんて、よくあることだし……でも心配すべきだろうか?
「……えと、演奏会は、しない……ですね?」
悠梨は困ったように尺八を見ていた。
「……ごめんねそらぴー、わたし今は……吹けないわ」
なんだ、やっぱり聴けないのか。
氷空はもう一度廊下の方を見る。きっと悠梨は祥平のファンだったんだ。水月と祥平はいなくなったし、あゆみに一人で叩く気はなさそうだ。
ファンだったなら、まあ推しのアイドルに逃げ去られたようなものだ。それはショックだろう。
氷空もまた、祥平と一緒に過ごすチャンスを逃してしまったけど……。
でもこんなに愛されていた祥平は、自分もこの場所を愛していただろうか? 水月と目を合わせた祥平は、まるで怯えたように見えた。悠梨の視線に動揺を見せた。それなら……。
「あのっ、だったら……お箏弾かせてください、サークル入ります!」
氷空は言い訳にだってなる。
一番大事なのは、祥平の笑顔と幸せなのだ。