プロローグ 事の始まり
改稿に改稿を重ね、最初に取り掛かり始めてから約10年。
きっと、たぶん、これで最後になるでしょう。
よろしくお願いいたします。
曇り空の公園で、乾いた冷気が木の葉を巻き上げました。冬休みの公園はそこそこの人影があり、遠くで幼児の泣き声がします。しかしここはその外れ。ただ木々が茂るだけの通り道は、誰の注目も集めず――。
ふざけるなっ! と兄は激怒しました。
降りろよおたんこなす、死にたいのか! 考えろよばーか! 黄色い葉もほとんど散り果てた大きな木の上に、兄の両手はさっぱり届きません。遥か頭上の妹は、構わず鈴なりの木の実に手を伸ばしています。
もちろん、周りには誰もいません。父親がトイレに行った隙に、こんなところまで来てしまったのです。
兄は悔しくて、その辺の石を蹴り飛ばしました。
痛みが脳天を貫きました。ビリビリと電撃が神経を走り、兄は力なくへたりこみます。涙目です。拳大の小石かと思えば、土に埋まった大きな石でした。
ざわざわと寒気がすり抜けていきます。呻きながら座り込んだ兄は、射殺すように妹を見ます。あいつのせいだ。
悲鳴が響きました。
時間が止まったように、その瞬間妹が空中を舞っていました。
呆然とした兄は、跳び上がるようにして無我夢中で駆け出しました。痛みも吹っ飛びます。何秒後のことだったか――。
落ち葉を背にして兄は気絶しました。
兄が小学三年生、妹は二年生の冬の日でした。波乱の始まりです。
兄はいつも意地悪です。妹に玩具を片付けさせるし、何もしていないのに鼻で笑ってきます。ご飯の時なんて、嫌いなニンジンをこっそり妹のお皿に移します。見つかれば怒られますが、すぐにまた両親の目を盗むのです。
妹はニンジンが好きだから一応食べますが、当然お残しは大罪です。
だから妹は兄をバカにしていました。美味しいニンジンをわざわざ残すなんて! ニンジンに対する冒涜です。食べ終わってからあかんべーします。
でもその日、一つだけわかりました。
木の下でパッと兄の目が開きました。
その直後、兄の額にゴンッと何かがぶつかります。赤い額から転がり落ちたのは、鈴かすてらのような木の実です。
手に取ると乾燥して、中でコロコロと音がします。ゲットして兄に自慢して、プレゼントしようと頑張っていたあれです。
何をしていたのかと妹は聞きました。
――勝手に死なれたら怒られる。
仰向けのまま瞼を震わせて、痛そうに兄は吐き捨てました。
目に入った砂が痛いし、額も木の実が痛かった――というか、妹は起きない兄に落ち葉を掛けていました。そりゃ目も痛いです。子どもは残酷です。
妹は首を傾げました。
ふと見上げると、塔のように高い木から枝が伸びていました。
黄色い葉だけが疎らに茂り、冬が来るのを告げています。さっき登った木が上に……? あれ?
――ぞっとして急に風が冷たくなりました。
そういえば……なんか、バランスを崩したような……。
落ち葉を握り締める兄の周りで、妙に土がえぐれて飛び散っています。さっきまでこんなことにはなっていなかったはず。
妹は呆然と兄の顔に触れます。わぷっと兄が変な声を上げました。この口はいつも皮肉たっぷりですが、妹に降りろと言っていた気がします。
ぼやぼやと、真下に駆け寄る兄を思い出しました。
妹は驚愕に目を見開きました。
――だから危ないって言ったのに。
漸く赤い目を開けた兄は、視線でやたらと妹を蔑みバカにしました。歪んだ笑みも格好良く輝いて見えます。
兄の言葉を聞かず、勝手に妹は死にかけたのに。
嫌味ったらしく兄が繰り返す命令が、全て妹のためだったなんて。
ツンデレの鑑です。
キラキラと妹が視線を返せば、兄は怖気づいたように仰け反りました。
なんて魅力的な上体逸らしでしょう! 寝ころんだまま仰け反ったせいで、威嚇するエビのように斜めに顔を背けています。もう全部格好良いです、なんたって命を救ったヒーローですから!
兄は居心地悪そうに唸りました。ツンデレの神様です。兄神様と崇め奉りましょう。
多分妹は死ぬところでした。どうせ潰えたはずのこの命、どう捧げれば喜んでくれるでしょうか。とりあえず抱きついてみたら、怯えるかのように兄が悲鳴を上げました。
妹は決意しました。これから兄の言うことは全部ちゃんと聞こう。
神様とか極端な割に、結論はまともです。
ありがとう兄。妹は珍しくお礼を言いました。素直じゃない兄ははぁっ? と声を上ずらせましたが、妹はそれをよそに首を傾げます。
何かピンと来ないのです。何がおかしいのでしょう?
あ、そうだ。
ごめんね兄――やっぱりピンとこないです。兄は全力で目を逸らしています。微妙に口が動いていると思ったら、怖い怖いとひたすら呟いていました。
何が怖いんでしょうか。ふとその視線が揺れました。
妹の手元――木の実です。
今一瞬これを見ました。絶対見た。妹は間違っていない。だって木の実を高くかざした時、明らかに兄がびくっとしたから。
妹は木の実と兄を見比べて、再び宙を見て思いを馳せます。
――ありがとう〝このみー〟。
ツンデレ記念日を象徴する木の実です。これにちなんで兄を呼べば、今後も恩を忘れることはないはず。
刻むのです、今日という日を。
兄の反応は一瞬遅れました。え、なんて? このみ? 木の実のこと? 木の実にお礼を言ったの? あれ?
兄の顔から表情が消えます。不思議に思った妹は、もう一度言い直しました。
――助けてくれて、ありがと、このみー!
生のゴーヤでも丸のみしたような顔で、兄は顔を逸らしました。ついでにさっさと退けと命令します。
当然妹は退きます、えっ当然?
……そんなわけがないでしょう。
威勢良く反発する妹は死にました。
兄は呆然と恐れ慄きます。疲れたから運んでと言えば、引きずってでも運ぼうと本気にします。慌ててもがく兄に不思議そうなのも意味不明です。
様子に気付いた父親が駆け寄ってきました。どうやら漸く二人を見つけたようです。ほんの一瞬目を逸らした隙でした。
木から落ちたという妹の言葉に、父親は兄を叱ります。
妹が泣き喚きました。叱られたのは兄なのに、今になって落ちた時が怖くなったのです。泣きながら必死で父親に訴えます。〝このみー〟が下敷きで助けてくれたんです。悪いのは妹なのです。
父親が奇妙な顔をしました。
怪我はないかと尋ねられ、妹は泣いたまま首を振ります。父親はぽんぽんとその頭を軽く叩きました。すぐに兄にも視線を向けてきます。
……悩みました。
兄は強がりだったので、誤魔化そうと口を開きました――が、すぐに思い直して視線を逸らしました。
動けないのです。
妹が乗っていたとか関係なく、気持ち悪くて頭を動かせないのです。兄はぱくぱく口を開閉しましたが、観念して立てないと呟きました。
脳震盪かもしれません。
衝撃を受けたように、妹が更に大声で泣き出しました。
子どもの脳震盪は危険です。父親が真剣な顔でいくつか質問することに答えます。そうこうするうちに起き上がって座ることができました。とりあえず救急車は大丈夫そうです。
病院に連れて行くべきかもしれません。そろそろ帰る時間ですが仕方ないです。
幸い少し休んだら自力で立てました。
でも兄の顔は全く晴れません。明確に恐怖に強張っていました。
脳震盪は大したことありませんでしたが、兄は思いました。
妹を今動かしているのは――死体に乗り移った幽霊だろうか。
オカルトがないなんて誰が証明出来るでしょうか? サンタさんだって卒業した兄ですが、科学が万能じゃないことは知っています。
……今の妹はおかしいです。
幽霊じゃなければ魔女かもしれません。
兄はもう小三です、変なことは信じません。でも何日経っても妹は元に戻りません、喧嘩になりません。何を言っても……。
霊体ヒョウイです、生霊です。
いや、そんなわけが……。
兄はパニックになってきました。
妹はわかったとかありがとうとか、はーいとか笑顔で言う訳がないです。兄の名前は〝このみー〟なんてへんてこりんなものじゃないです。兄神様とか言っていました、妙に目線がキラキラしています。
逃れたくて家から出てもついてくる。友達と遊ぶ時まで兄を呼び寄せる。
妹の友達相手に必死で愛想笑いをしながら、誰にも言えない恐怖を兄は押し殺します。
様子のおかしい兄を、妹は心配していました。笑顔がないです。何をしても何日経っても、兄の顔は晴れないです。
そんな中でやっと、兄がぽつりと言いました。
これ捨ててきて。
たった今開封したばかりの、玩具のカードの袋です。妹は嬉々として握って駆け出しました。捨てて戻ると兄は気圧されたような表情でしたが、嬉しそうに小さく笑います。
控えめで格好良い笑みでした。
これも。
差し出された袋の切れ端を、妹はまた喜んで捨てに行きます。戻ると兄は完全に笑顔でした。やっと元に戻ったのです。
ちょっと寒いなと兄が呟くのを聞いて、妹は黒いショールを持ってきました。兄の肩に掛けると、兄は満足気にくるまります。
良かった、漸く恩を返せそうです。
――ねえ、じゃあそこでぐるぐる回ってみて。
妹はきょとんと首を傾げました。ただ回れとは奇妙な話です。
兄の〝回れ〟は何を想定しているんでしょう? 前転では場所が狭いし、寝転んだらぐるぐるというよりゴロゴロですね。
ふむ。スイカ割りパターンで行きましょう、立って左右に回転するのです。
回りすぎた妹は、すぐに目を回してへたり込みました。
あははっ、ほんとに何でも聞くんだ。
兄の楽しそうな声は、目を回した妹も笑顔にしてしまいました。
どんな大胆な命令も、妹は全部受け入れました。
兄は何も考えず優越感に浸りました。何を願ったって叶えてくれる妹がいます。自由自在です。本当に神様になったみたい、さっさと開き直れば良かったです。
ところで喉が渇きました、水じゃなくてジュースが飲みたいです。だから何も考えず、妹につい言ってしまいました。
ジュース買ってきて、って。
真に受けた妹は兄の命令の為に、親の財布を盗んで夜道に出ようとしました。
頭の芯が凍えました。
冷水をかけられて寒風にさらされるようです。兄は慌てて止めました。
その時リビングのテレビからニュースが流れてきました。
間が悪かったんです。
小二の女の子が車に轢かれた話でした。兄はびくっと耳を澄ませてしまいます。
轢かれた女の子は夜のコンビニに行こうとしていました。
無灯火の自転車とぶつかりかけて、咄嗟に車道に飛び出したそうです。走ってきた車に轢かれて頭部を強打しました。右足も骨折して意識不明……。
目の前が真っ暗になりました。
妹は急に黙り込んだ兄を、不安そうに見ています。そんな妹に気付いた兄は、余計に力抜けてへたり込みました。
左手で妹の手首を掴みます。釣られるように妹も床に座りました。
兄はほっと小さく息をつきました。それでも心臓がドキドキします。兄が妹を殺しかけたんです。
あの時と一緒だ。
神様なんてとんでもない、一歩間違えば――。
その後のことは兄はあまり覚えていません。何とかもう寝ようと絞り出した気はします。多分それで寝たのだと思います。
兄がほとんど口を利かなくなってしまいました。
困惑した妹は、何とか兄の望みを聞き出そうとします。目を伏せて妹を避ける兄は強敵です。震えたと思ってショールを持ってきたら、怯えたように弾かれてしまいました。
悲しみを払拭できないまま数日経ち、妹は道端で輝く硬貨を拾いました。
まさかの五百円玉です。
呆然とその場で見つめていましたが、ふと気づいて妹は周囲を眺めました。
よっしゃ、自動販売機発見です。
妹は背伸びして、兄が好きなジュースを買いました。
なんだ、そういうことか。
不安そうにジュースを差し出す妹を見て、兄は笑い出しそうになりました。
妹が変なことをするのは、いつも兄のためでした。命令を聞いて望みを叶え、元気になってもらうためです。
それで妹は死にかけたんです。心配して励まそうとして。兄に笑ってほしくて、無茶なことを重ねるのです。
兄は笑いました。
嬉しそうに妹も笑いました。兄が元気になったと喜びました。
これで解決です、笑ってさえいれば妹は無茶なことはしません。兄を励ます必要もない。うっかり死にかけることもない。
兄は笑顔の仮面を付けることを覚えました。
決して励まされないように。
妹が心配する度に、兄の笑顔は明るくなりました。眉間の力を抜くのは誰より得意です。身振り手振りもつけちゃいます。
神様になってやる。人間のように励まされない、完全無欠の笑顔の神様に。
二度と妹を殺してたまるものか。
ツンデレの兄は、妹が大好きだったのです。いくら親に怒られても、妹が好きなニンジンをあげちゃうくらいには。
兄も妹も仲良く成長しました。兄妹喧嘩ばかりの過去なんて、誰が聴いても悪い冗談のようです。
特に兄の笑顔は絶えず天下一品です。年を経るごとに、人生が楽しくて仕方ないという風にキラキラしていきます。父親は病死してしまったし、妹は一時期危なかったですが……本当に苦しそうでしたが、兄のおかげで元気になりました。
兄はそれすら楽しんでいたようです。
色々なことがありましたが、二人はいつも楽しそうに遊びました。妹の危機だって人生のスパイスです。最初は遠慮もした妹ですが、頼れば兄は喜ぶとわかりました。安心して苦しみを訴えれば、兄は笑顔で手を差し伸べます。
その時間は二人の宝物になりました。
喧嘩なんてもうしません。全幅の信頼とは美しいものです。雨降って地固まり、二人の絆は強靭さを増していきます。
ガチガチになりすぎだって? まさか。
何があっても、兄の笑顔は輝きを増すだけでした。
そして今――。
兄の進学した高校に、後を追うように妹が入学したのです。
――もう一つのプロローグ――
――痛い。
「あーあ、こわれたかなぁ、なんで食べないんだろ? ねえ人形、なんで?」
ベタベタと無遠慮に顔を触られる。
気力が尽きて反応もできない。苦しい。泣きたくて意識が朦朧とする。首の後ろにチクッと痛みが走った。
「っ――お腹すいてないから……だいじょ」
「嘘つき! 今日も給食食べてないの知ってるんだよ、ちゃんと食べなきゃだめだよ! ほら、ご飯あげる、あーんして」
――たすけて。
与えてもらう〝食事〟は、何度見ても吐き気を催す。なぜ、何も食べられないんだろう。
本当に壊れちゃったのかな。悔しい。悲しい。
「人形なんだから、人間っぽく行動しなきゃだめでしょ? 修理はお金かかるんだから。ほら、あたしのって名前書いてあるんだから――」
Tシャツをめくられそうになって、咄嗟に両目をぎゅっと瞑った。触られたお腹が痛い。
「あっ、人形が大好きで仕方ない人間が来たよ! 早く食べなきゃ見られちゃう。ねっ、人形」
……見られる。
あの笑顔を壊してしまう、心配をかけてしまう。それは嫌だ……いやだっ!
無理やり口を開けた瞬間、微かな隙間に固形物をねじ込まれた。突然意識が覚醒する。いつもの癖で慌てて飲み込めば、一目散に駆け寄る人影が見えた。
助けを求めても、許されるのかな――。
泣きたいほど苦しいのに、気づけばいつもと同じ笑顔を浮かべていた。
笑わないとだから。
「……このみー、だいじょうぶ?」
駆け寄ってきた笑顔が驚きに変わる。痛みを封じ込めた心は、自然に柔らかさを取り戻した。
人形の心は、壊れたりしない。
※
壊れてしまえば良い。
「い、いやだっ、嫌だ! なんで……うそうそうそっ、信じない! そんなの信じない!」
――壊してやる。
戯れに窓から覗いた教室で、ヒステリックに泣きわめく女子がいた。
理由はわからないのに、胸がすうっと――いや違う、これは胸というよりむしろ頭が。
くらっと視界が歪んでうねる。咄嗟に膝をついて地面に触れた。
その両手は、見惚れるほど鮮烈な赤に染まっていた。
「あたしのセンパイはそんなことしないっ……絶対っ、するわけないもん! 信じないっ!」
あの女子は何を嘆いているんだろう。
……自分はなんで、こんな場所にいるんだろう。
わからないけど――。
「……まもった、よね?」
間違っていないなら、それで良いや。
いつになく心が軽い。きっとやるべきことは成せたはず。
ぺろっと唇を舐めると、酸っぱいようで優しい味がした。思考がふわふわと心地良い。
きっと守り徹したなら、今日も褒めてくれるだろうか。
※
「――ぁ……ゆ、め……? な、見て……」
全身が凍り付いたように、硬く冷え切っていた。
次から本編です。