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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

おじいちゃんの幽霊が見える

作者: 南中亭多楽



 私のおじいちゃんは、私が高校生の時に亡くなった。


 幼い頃から祖父は孫の私を可愛がってくれて、本の読み聞かせも公園での砂遊びも、いつでも付き合ってくれていた。

 

 大正生まれで、体が弱くて戦争に行けないまま終戦を迎えた祖父は、戦後に医療機器の開発に携わり、地元の大学の新学部設立に関わり、名誉教授になった。

 頭が良くて新しい事が好きで、パソコンも家電もどんどん使いこなし、ロボットの犬まで飼おうとした先進的な人だった。

 

 そして、おばあちゃんの事が大好きだった。


 祖父は、買い物も外食も旅行も、絶対に祖母と一緒だったし、ご飯は祖母に用意して貰いたがったし、寝る時も夫婦の寝室で大きなベッドを二人で使っていた。

 ご近所でもおしどり夫婦と有名だった。


 私の母と祖母は、周囲の人が羨望するほど仲が良かった。聞けば、結婚前から同じ趣味のお仲間同士だったらしく、母は父より先に義母と知り合っていたのだとか。

 母と祖母はいつも楽しそうにお喋りしながら家事を分担してやっていて、息もぴったり合っていた。

 

 だから、祖父の体が衰えてきた時も、母と祖母と、たまに私たち孫が分担して面倒を見ていた。

 しかし、祖父は何でも「おばあちゃんがいい。おばあちゃんを呼んで」と言った。痩せて体力が落ち、気持ちも弱くなってきた祖父は、暇さえあれば私たちに「おばあちゃんを呼んで」と言い、朝から晩まで何かしら世話を焼かせていた。


 祖母は祖父より13歳も年下だった。歳の差もあって、祖父の体が衰えてきても、祖母はまだ若々しく、健康で元気だった。

 祖父は生前よく、私と二人きりの時に、そっと内緒話のようにして、「おばあちゃんとお見合いで出会った時の話」を聞かせてくれた。


「可憐な花のようだった」

「お姫様のようだった」

「俺はこの女性を守る騎士になりたいと思った」


 祖父はロマンチストで、祖母のことが大好きだった。



 祖父は92歳で老衰で亡くなった。

 そしてその翌日から、足がない半透明の姿でずっと家にいて、私たちの暮らしを見ている。


 おじいちゃんの幽霊が見えるのは私だけだ。

 祖母も、兄と妹も、父と母も、見えない。


 私は祖父の幽霊が見えることを誰にも言わなかった。言ったところで信じて貰えなかっただろう。両親もきょうだいも葬式に集まった親戚も、気配すら感じていないようだったので、冗談でも言えなかった。


 祖父はずっと私たちの近くにいるが、私たちの部屋や、トイレやお風呂には入ってこなかった。

 生きていた時と同じように、リビングのソファに座っているか、自分の書斎にいるか、窓の側に立ってぼんやりしていることが多かった。

 私が家にいる時はだいたい祖父も家にいるが、たまにいない時もあった。どこに行っているかは知らない。

 私が出かける時は、ついてきたり、こなかったり、いつの間にか近くにいたり、日によってバラバラだった。

 

 そして気まぐれに話しかけてくるが、内容は生前に聞いた事があるような、ないような、祖母に関する惚気話が多かった。

 ただ、幽霊であるせいか、その声は酷く聞き取り難いものだった。電波の悪い環境にいる時の電話みたいに、はっきりとわからない事の方が多かった。


 私は祖父の幽霊にあまり反応しないように努めていた。誰にも見えない幽霊にリアクションしていたら、私がおかしな人になってしまうから。


 ところで。


 祖父が死んだ後、祖母はすごく活動的になった。

 祖父の遺品を片っ端から整理して捨てて、半年ほど経つと家をリフォームして祖父の書斎を自分の好みに改装し、バリアフリーにした。

 お仏壇も日当たりの悪い小さな部屋に移され、実家から祖父の名残りがほとんど消えた。

 

 その後、祖母は毎月のように友人達と旅行に出かけるようになった。

 国内は北海道や沖縄、福島や東京や京都へ。国外は中国や韓国に。私の実家は地方の田舎町なのだが、県内の温泉宿も母と一緒に楽しそうに巡っていた。

 もうすぐ80歳になるとは思えないほど元気溌剌で、若々しい綺麗な装いをして、社交ダンスの教室にも通うようになった。

 私たち孫を連れて外食に行ったり、母とコンサートに行ったり、美術館に出かけたり、とにかく楽しそうだった。

 近所のラーメン屋のチャーシュー麺とソフトクリームが好きだったり、携帯電話を使いこなして京都に住む元同級生とメールを交わしてみたり、パソコンで町内会の名簿を作ってみたり、老いを感じさせない活躍っぷりだった。


「おばあちゃん、なんだか元気になったね」


 私が祖母にそう声を掛けると、隣で半透明の祖父が嬉しそうに頷いた。

 

 祖父の死の半年程前から祖母は少し顔色が悪く、いつもイライラしていて、溜め息が多かったので、母や私たちはとても心配していた。

 それが今では花が咲いたような笑顔を浮かべ、時には鼻歌を歌いながら家事をしている。

 元気で楽しそうな祖母の姿を見られて、祖父の幽霊も嬉しいのかも知れない。


 そう思っていたのだが。

 

「ああ、おじいちゃんが死んで、やっとラクになったからね!」


 祖母は明るい笑顔でそう言い放った。


「寝たきりにならずさっさと死んでくれて良かったねえ。あのまま介護が続いたら私はノイローゼになっていただろうよ」


 えっ、と絶句した私に気付かず、祖母は優雅に紅茶を淹れながら話を続けた。私の隣にいた祖父の幽霊は何も言わなかったが、目を見開いて呆然としているようだった。


「あの人はね、私のことを家政婦か何かとでも思っていたんだろうね。まあ、大正生まれの男だから、考え方も古いし仕方がないけれども」


 私にとって祖父はすごく先進的な人だったけれど、祖母にとっては違ったらしい。

 

「何をするにも何処に行くにも、やたらとくっついて来て、私に世話させたがって、まったく面倒くさいったら。こっちは忙しいってのに、勝手なもんだよ」


 祖父は祖母が大好きで、だからいつも祖母に頼り、祖母に甘えていた。

 祖母は、祖父の言う事には何でもハイハイと困ったように笑って応じていたから、てっきり愛する夫に頼られて嬉しいのかと思っていた。

 でも、よくよく思い返してみれば、祖父から呼ばれる度に、祖母はこっそりと眉を顰め、重い溜め息を吐いていなかったか。

 祖父の足が弱ってきてからは、特に。


「あの人は自分の親が倒れた時だって、介護を雇うよりも嫁の私にやらせた方が安く済むからって、私の仕事を辞めさせたんだ。そのせいで私はせっかく勤めた職場を9年で辞めることになって、退職金も貰えなかった。あと1年いたら貰えたのに。もっと働きたかったのに」


 祖母は昔から私や妹に、これからの女は自分で仕事をして、自分で稼いで、夫に頼らず生きられるようにすべきだと言っていた。

 この年齢の主婦にしては珍しい考え方だなと思っていたが、彼女自身が外で働く喜びを取り上げられたからだったのか。


「私はね、この家に来てから大奥様に良くして貰った覚えは一つもない。それなのに、あの人は私の仕事を取り上げて、大奥様の介護をやれと言った。安上がりだからって。私はそれまで、家事も育児も仕事も一人でやっていたのに。あの人は口を出すばかりで、家の事は何もせず職場に行ったきりだったよ」


 大奥様とは、おじいちゃんのお母さんの事だ。私の曽祖母にあたる。

 父が子供の頃に亡くなったが、厳格で気難しい人で、父に対しても厳しかったと聞いた。例えば、食事の時には年齢の順に食べ始め、終わるまで正座を崩してはいけないといつも叱られた、だから食事の時間は苦痛だった、といつか父が話していた。

 幼い孫に対してすらそうなら、息子の嫁である祖母に対しては余計に厳しく当たっただろうことは想像に難くない。


「せっかく仕事を辞めてまで介護したのに、大奥様は半月足らずで死んだよ。長くなるよりは良かったかね。でも、それで私のキャリアが戻ってくる訳じゃない。辞めた事を今でも後悔してる」


 祖母の友達は、趣味の仲間や元同級生以外にも、当時の仕事の元同僚もいる。人間関係にも恵まれた職場だったということだ。

 以前聞いたが、仕事を辞めて介護が終わった後に、アルバイトとして短期間だけ職場に復帰もしていたらしい。それだけ、その仕事が好きだったのだろう。祖母の言葉には悔しさが滲んでいた。

 

「ああ、でも、仕事の代わりに趣味を始めて、それであんたたちのママにも会えたから、ラッキーだった。そう、ママがうちの嫁に来てくれた時にね、絶対に私のような思いはさせないぞと決意したもんだよ。でも、ママは性格もさっぱりしてるし、努力家で働き者だから、あんまり私が頑張ることもなかったねえ」


 祖母は私の母をママと呼ぶ。

 祖母は母をよく人前で褒めるし、母の子育てには意見しないし、孫を連れ出す時は母の許可をとるし、頼まれたら何でも手伝う。お陰でよく聞く嫁姑争いとは無縁だが、そこには祖母なりの信条があったのだと知った。


「ママのおかげでずいぶんと助かったし、楽になったんだけどね、おじいちゃんのこと以外は……。介護が要るようになってからは一段と酷かったよ、とにかく、私はあの人の召使いになった気分だった」


 確かに、亡くなる少し前、祖父は朝から晩まで何度でも祖母を呼んで世話を焼かせていた。体調が悪いと機嫌も悪くなるのか、よく文句を言ったり怒鳴ったりもしていた。母や私たちには相変わらず優しかったが、祖母にだけは甘えているように見えた。

 介護施設やデイサービスの利用は拒否し、何でも「おばあちゃんがいい」と言うので父や母も困っていたが、祖母も疲れ果てていたのだろう。


「あんたは絶対に自分の仕事を持って、自分の金で生きていけるようにしなさいね。ま、今の若い人は皆んな共働きみたいだけどね。女を召使いだと思っているような男に捕まっちゃ駄目だよ」


 祖母の話はいつもの結論で終わった。

 そして、変な愚痴の相手をしてくれたお礼だよと言って、お小遣いをくれた。遠慮しようとしたが、受け取るのも孝行だよ、なんて言って笑っていた。

 私は、隣にいた祖父の幽霊を直視することができなかった。



 その日から、祖父の幽霊はあまり動かなくなった。

 リビングのソファでジッと座っていることが増え、喋ることもあまりなくなった。私についてくることも減り、リフォームされて祖母の部屋となった元書斎には、近寄らなくなった。


 時が経ち、私は大学を卒業し、東京の会社に就職して実家を出て一人暮らしを始めた。時折実家に帰ると、相変わらず祖父の幽霊はそこにいたが、愛用していたソファが撤去されたせいか、リビングではなく仏間に佇んでいた。


 祖母は90歳で体調を崩してからは旅行に出かけなくなり、その後は食が細くなり始めた。

 ある時、大動脈解離を起こして入院した。手術は成功して退院もリハビリもしたが、体力は戻らなかった。翌年には自室で転倒し、骨折して再度入院し、そのまま亡くなった。

 死ぬ直前まで認知機能は衰えず、できる範囲で趣味にも打ち込んでいた。そして献身的な介護をしていた母を心配し、いつも感謝を伝えていた。


 私は東京の会社に5年勤めて辞め、地元に帰って実家から通える距離の会社に転職して、地元の人と結婚した。祖母にひ孫は見せられなかったが、結婚式は見せられたし、母やきょうだいと共に介護にも参加できたし、最期も看取ることができた。


 両親と夫と共に祖母の通夜を済ませ、葬式を行い、焼き場で骨を拾った。兄と妹は各々の都合で葬式には不参加だったが、私の夫が祖母には世話になったからと言って全てに出てくれた。

 

 そして、葬式が終わった翌日、祖母の入院時の荷物を整理していた私の目に、半透明になった足のない祖母の幽霊が見えた。

 多少は予想していたので、祖父の時ほど驚かなかった。

 祖母は生前のように、自分の寝室でベッドに腰掛けていた。


「あんた、この引き出しに私の指輪があるから、それ貰ってよ。ネックレスはママにあげて。介護と葬式のお礼だと思って。私はこの世に未練なんか何にもないからね、もうすぐ行くけど、夫と仲良くね」


 祖母は私にそう言って、フワリと軽やかに立ち上がった。

 引き出しを開けると、聞いた通りに指輪とネックレスがケースに入って保管されていた。グリーンガーネットの付いた古いデザインの指輪は、不思議なことに私の指にぴったりのサイズだった。


「ああ、快適だ。痛いところは何にもないし、足も動くし、呼吸も苦しくない……」


 祖母の死因は心不全だった。心臓も呼吸器も弱っていたらしい。最期は息が苦しそうだったので、入院前のような笑顔を見ると安心する。


「おばあちゃん。おじいちゃんには会った?」

 

 話しかけない方がいいかと思っていたのに、思わずそう聞いてしまった。祖父の幽霊は、今朝も仏間にぼんやりと佇んでいたからだ。

 

「いいや。あの人には私は見えないよ」

「えっ」

「着信拒否してるから。なんてね」


 冗談なのだろうか。笑いを含んだ声だった。


 祖母の幽霊は、80歳頃の若々しい姿だった。当時よく着ていたモダンで華やかなデザインの服を纏い、旅行にでも行くような雰囲気で、愛用していたスマホを持ったままヒラヒラと手を振って笑顔で消えた。


「じゃあね」

「うん。ありがとう、おばあちゃん」


 それっきりだった。


 そして四十九日が経った。

 お寺の住職さんが来て、近しい親戚が集まり、お経を上げて、お墓に行き、納骨した。


 おじいちゃんの幽霊は、祖母の納骨を終えて戻ると実家の仏間から消えていた。

 その後は何処を探しても現れなかった。



 数年前、祖母が体調を崩した頃から、私は何度か祖父の幽霊がいる仏間で仏壇に手を合わせながら、そっと話しかけてみていた。

 しかし終ぞ返事はなかった。以前は聞こえていたノイズ混じりの声さえ聞こえなかった。


 祖母が倒れた時も、入院した時も。

 病院から苦しげな声で、それでも気丈に電話してきていた時も。

 亡くなった時も。

 祖父の幽霊は仏間に佇んでいるだけで、何もしなかったし、何も言わなかった。

 

 思い返してみれば、私が幼い頃、祖母が風邪を引いたり怪我をしたりした時も、祖父は母や私に任せきりで何もせず、祖母を心配するような言葉すらなかった。

 あんなに祖母が大好きだった筈の祖父だが、若い頃の容姿以外を褒めているのを聞いた事がなかった。

 祖母の家事を手伝うこともなかったし、感謝を口にする事もなかった。


 そのことに気が付いた時、私はゾッとした。


 祖母は心配性で、入院した後でさえ、自分のことより私の結婚生活を心配していた。私の夫は祖母が紹介してくれた人だったから、余計に気にしてくれていたのかも知れない。


 だからこそ伝えられなかったが、私と義母との関係は最低最悪である。


 同じ家に暮らしているが、顔を合わせれば朝でも夜でも子供子供、子供はまだかと聞かれるし、料理しろと命令され、作れば不味い食えないと言われて捨てられる。私の仕事にも文句をつけ、もっと短時間の勤務で夫より稼げる会社に転職しろとめちゃくちゃな事を言う。何度断っても強引に同居すると言って聞かなかった癖に、最近では私の存在がストレスでツライなどと言い出した。

 ついでに、夫との関係も義母のせいで壊れつつある。夫は義母の性格をよく知っているが、今さら治らないと諦めていて、私にも無視しておけと言うだけだ。しかし私はそろそろ我慢の限界で、離婚も視野に入れている。


 夫と仲良くしろという、祖母の最期の言葉は守れそうにない。

 死んでも着信拒否するほど嫌いな相手と我慢し続けて連れ添った祖母を尊敬はするが、見習うことはできない。

 夫に何も知らせないまま、生涯幸せで居させてあげることは私にはできそうにないのだ。


 おじいちゃんの幽霊が消えた仏間で、私は二人の写真が並んだ仏壇に手を合わせた。

先日、祖母の四十九日で納骨を済ませました。尊敬できる祖母でした。記憶が鮮明なうちに書きました。

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