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09.姉の気遣い

 輿入れはひと月後と決まった。提案したのはアイリーンだ。

 ジェラルドの側近もエルヴィラも「早すぎるのでは」と言ったが、命の期限のことを考えれば行動は早い方がいい。もったいぶる必要なんかない。自分たちにできることは、大国に蹂躙されないよう上手に立ち回ることだけ。

 暁の帝国と風の王国と、つくとしたらどちらがマシなのか?

 わかるはずもない。そんなこと。


 ――小国の悲哀だな。大きな国に振り回されるのはしかたがない。


 その後の細かい打ち合わせは実務担当者に任せ、アイリーンはさっさと話し合いの場から姿を消して湖のほとりを歩いていた。

 山脈から吹き降ろす風は今日も冷たい。

 湖は静かで、足元に小さな波が打ち寄せるばかりだ。


 ――本当に竜神はここにいるの?


 ふと、誰かが近づいてくる足音が聞こえた。アイリーンが顔を向けると、背の高い黒づくめの男がこちらに向かってくるのが見えた。

 ジェラルド。将軍。

 名前と役職はさすがに覚えた。でも、なんて呼んだらいいんだろう?

 この人を目の前にすると、心がざわざわする。それが気に入らない。この人の何がこんなに気になるんだろう。


 ――この国では見かけないタイプだからかな……。


 他国から侵略されたことがない竜の国には、神殿を守る警備隊はいるが武人はいない。だからだと思う。あとは、アイリーンが外の世界に興味があるから。たぶんそんなところ。そういうことにしておく。

 ゆっくりとジェラルドが近づいてきて、アイリーンからは少し離れたところで立ち止まる。


「……この湖には竜が眠るそうだな。そなたは、竜を見たことがあるか?」

 距離があるためか、ジェラルドは少し大きな声でゆっくりと発音しながら、そうたずねてきた。

「ない」


 ――平常心、平常心。


 アイリーンは心の中で唱えた。

 心がざわざわしていては、らしくない行動や、失言をしてしまう可能性がある。気をつけなければ。


「竜族の娘なのに、竜を見たことはないのか」

「水の底にずっといるのに、どうやって見るのさ」

「そもそも、竜というのは、実在するものなのか? 我々の国にも竜神の伝説はあるが……正直、空想の話だと思っている」

「姉さんは……エルヴィラ猊下は竜の声を聞くことができる。竜族は、竜神の声に従って生きてきた。だから大きな災いに見舞われることもなく、こうしてここに生きている。竜の住処の湖にいきなり飛び降りたあなたたちは、必ず神罰を受けると思うね」

「それは嫌だな。わざとではなかった。そなたから竜神にとりなしてくれないか?」

「自業自得だ。僕は知らない」

「ところで、アイリーンと言ったか」


 いきなり名前を呼ばれ、アイリーンはドキリとなった。

 どうしてこの人の一挙一動にこんなに心がざわざわしてしまうんだろう。平常心、平常心。


「私に出ている指示は『竜の国の姫を帝国に連れてくる』だ。そなたはエルヴィラ猊下の妹姫、十分人質としての価値はあると思うが、もともとはエルヴィラ猊下を連れていくと報告してある」


 そんなアイリーンの心の内など知らないジェラルドは、淡々と話しかけてくる。


「皇帝が、話が違うと言い出す可能性は否定できない」

「もしそうなったら、この国はどうなるの? 攻撃される?」


 うん、いつもの自分らしい受け答えができている。この調子だ。


「可能性はあるな」

「女王が竜を呼び出すよ。僕にはできないけど。あなたたちの国は水浸しだ」


 ハッタリをかませば、ジェラルドが小さく笑った。


「この国は、美しいな」


 そして湖に目を向けながら、おもむろに言う。


「ろくに知らないくせに」

「ああ、全然知らない。だが、飛行艇から見ていた。畑がたくさんあって、人々が農作業をしていた。湖は澄んで、底が見えないほど深い。ここは穏やかで美しい」

「……」

「皇帝の考えはどうか知らないが、私は争いをしたいわけではない。これは覚えておいてくれ」


 高地ならではの少し冷たい風に、ジェラルドの黒い髪の毛が揺れる。


「そう」


 アイリーンの髪の毛も揺れる。頬にかかる髪の毛を指先で払い、アイリーンもまた湖に目を向けた。


「でもあなたは皇帝に従うんだろ? あなたは帝国の人間だ」


 アイリーンがきっぱり言い切れば、ジェラルドがこちらに顔を向けた。


「……そうだな。その通り、私は帝国の人間だ」


 ややあって、彼が答える。

 低くて体に沁み込んでいくような心地いい声。将軍として軍隊を指揮するくらいだから、この人の能力は高いのだろう。でも帝国の人間なのだ。今はアイリーンに同情的だが、決して味方ではない。

 その事実がなぜだか胸に突き刺さり、アイリーンの心に暗い影を落とした。


   ***


 ひと月は瞬く間に過ぎた。

 輿入れといえば嫁入り道具だが、本来、国を背負う姫のものにしてはあまりにも質素なものになってしまった。予定を早めてしまったので、十分な準備ができなかったのだ。アイリーンのせいなのでしかたがない。自業自得である。

 そして迎えが来る少し前に、アイリーンはエルヴィラの私室に呼ばれた。


「定期的に、この国からあなたにものを届けさせるわ。いるものがあったら使者に伝えなさい。それから、これを渡しておきます」


 エルヴィラが陶器でできた器のふたを開けてみせてくれる。黒光りする小指の先ほどの塊が詰められていた。


「それは?」

「お香よ。私の血が少しだけ混ぜてあるの」

「……は?」


 血が混ぜられているお香?


「私たちの血が外の人たちにとって有害なことは知っているでしょう?」


 エルヴィラは陶器のふたを閉じて、そっとアイリーンの手に押し付けた。


「あまりにも劇薬だから、竜族の血には不思議な力が宿るなどと言われて、中には竜族を捕まえて血を抜く愚か者もいるそうよ。当然、命を落とす。竜族は逆恨みされる。……私たちが外に行けない理由はたくさんあるわね」


 エルヴィラが肩をすくめる。


「自分から明かさなければ私たちの外見は外の人間と変わらないから、バレることはないと思うけれど、あなたの場合は身分を明かして帝国に赴く。血を狙われる可能性があるのよ。それから、もうひとつ」


 そこでエルヴィラはひとつ溜息をつき、意を決したようにアイリーンを見つめ直した。


「アイリーン、あなたは皇帝の妃として帝国に赴く。いかにあなたが男の子っぽく向みえるとはいっても、女の子には変わりないのだから、閨の相手をさせられる可能性があるわ」

「まあね」

「閨で、男女がどんなことをするのかは知っている?」

「うーん……家畜の交尾なら見たことあるけど……」


 子どもができない体なので、自分には縁がないものと思い華麗にスルーしてきたあたりだ。皇帝との閨も深刻に考えていなかった。何しろ、家畜の交尾はオスがメスにのしかかってあっという間に終わるから。

 という話をしたら、


「家畜の交尾とはちょっと違うけれどまあ……、あなたは月のものもないのよね」


 エルヴィラはふぅ、と溜息をつき、女性が男性を受け入れる器官の説明から、閨での行為まで一通り教えてくれた。とはいえ、やはり内容的に言いにくいのか、ところどころ表現をぼやかすので、わかったようなわからないような。「裸になって求めあう」ってなんなんだ。具体的に何をするの。だが、「そこのところ、もう少し詳しく」とは言えない雰囲気だったので、アイリーンはすべてにおいて頷いておいた。

 結局、わかったのはお互い裸になることと、初めてはとにかく痛い、ということだけ。


 ――知らないオッサンに裸を見られるなんていやだなあ。


 しかもアイリーンの裸は、一般的な成人女性とはだいぶ違う。それもあって、「うへえ」と思ってしまった。とはいえ、側妃という立場上、きっと避けられないのだろう。これはかなりいやかもしれない。姉を側妃にしてはいけないという一心で提案したのだが、我ながらとんでもないことに足を突っ込んでしまった。


 ――いや、ここで後悔なんかしちゃいけないぞ。姉さんが罪悪感に苛まれてしまうもの。


 アイリーンは心の中で決意を固める。

 最後に、エルヴィラはアイリーンに押し付けた陶器を指さした。


「女は初めての時に血が出やすいものなの。私たちの血は竜族以外には毒。閨で皇帝を死なせでもしたら、とんでもないことになるわ。そこで、それよ」


 アイリーンは手の中の陶器に目を落とした。


「私の血が練り込んであるお香。眠くなるだけよ。もちろんあなたには効かない。皇帝が渡って来る時に焚いておきなさい。そのお香ひとつで、一晩持つわ」

「……なるほど」


 つまりお香を焚くことで皇帝を眠らせ、体に触れさせないというわけか。

 よかったよかった。これで知らないオッサンに裸を見られなくて済む。……かもしれない。


「もちろん、必要であればいつでも焚いていいわ。毎日使ってもひと月は持つくらいの量を入れてあるから、うまく活用して、しっかり身を守ってね。ただし、お香に練り込んだ私の血の効き目は作って二か月程度しかもたないの。ここから帝都までは一か月程度かかるから、あなたの手元に渡ってひと月が過ぎたら全部破棄すること。毎月必ず、新しいものを届けさせるから」


 エルヴィラに言われ、アイリーンは頷いた。

 しかし、男女の営みで血が出るとは知らなかった。

 この体はどうせ妊娠しないとどこか楽観的に考えていたが、そういう問題ではない。これは気を引き締めなければならない。血に触れさせてはいけないということは、閨だけではなく、けがの類もできないということだ。命の危機に瀕しても、助けを求められない。


 もっとも自分の残り時間は、あと一年もないので、そこまで神経質になる必要もないかな、とも思ったアイリーンである。


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