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短編

ひと宵の晩酌

作者: zig

 「ただいま、(ゆい)


 仕事から帰り、暗い部屋に明かりをつけた兼広(かねひろ)は、今日一日着続けた紺色のスーツジャケットをクローゼットへ戻しながら話しかけた。


 「今日は一日暑かったぞ。昨日は雨のせいで寒かったが……。こう寒暖差の激しい日が続くと、身体にこたえるな」


 そのままネクタイ、ベルト、ワイシャツと手をかけて行き、しばらくして部屋着に着替える。

 鞄も収納して一息ついた兼広は、帰宅途中に寄ったスーパーで買い込んだ荷物を黒いマイバックからガサゴソと取り出す。丼もの、お惣菜、缶ビール。少々のつまみも取り出した彼は、改めて胡坐を組み直すと手を合わせて食べ始めた。


 「いただきます」


 黙々と食べる父の様子を、額縁の中から笑顔で娘が見守り続ける。

 唯は数年前、不幸にも事故でこの世を去っていた。


 カシュッ、と小気味良い音が鳴り響き、ゴクッ、ゴクッ、と喉を鳴らした兼広は、深い感嘆を吐きながら赤ら顔で部屋の右奥を見た。

 男一人暮らしの狭いリビング。八畳ほどの空間の角には、仏壇が置かれている。

 観音開きの中央には、高校の制服姿で笑顔を見せる娘の写真と、数本の立てられた線香、お供え物、チンとならすりんなどが並んでおり、仕事を終えて身体を休める兼広が見つめるのは、いつも決まって唯の笑顔だった。

 母親は存命だが、唯が幼い頃離婚している。用事があれば連絡こそ取れるが、仲が悪くなった間柄もあって殆ど声を聴くことはない。そのこと自体には何の未練もない兼広だったが、唯のことを思うと少し未練があった。


 「唯……」


 呼んでも返らないことがわかっていながら、兼広はつい娘の名前を口にする。

 不慮の事故であり、注意が散漫だったわけではない。しかし、だからこそ悔やみ切れずにいた。

 娘が何をしたというのか、と、誰もいない暗闇に泣きながら問いかけた日々のことを兼広はつい思い出してしまう。それが何も生まないとわかっていながら。不毛であることは百も承知の上で、だが問わないわけにもいかなかった。


 「唯なぁ。父さんはな、……」


 自分が娘に何を言いたいのか。それすらもわからずに、しかし声をかけたくて仕方ない時もある。

 それはアルコールが回り、心の枷が外れかけた時に顕著だった。


 (何が言いたいんだろうな。ちくしょうめ)


 そして視線を落としながら酒をちびちびと飲んでいく途中で、意識を失い寝てしまうことが大半だった。

 朝日が兼広の目を覚ましに来るまで、何も考えずに深く眠る。その時だけが苦しいしがらみから抜け出せるただ唯一の救いだった。そして目を覚ませば、また兼広は兼広として当てもない一日を過ごしていく。

 当然、その日もそうなるはずだった。

 はずだったのだが……。




 「―――さん。お父さん」

 「ん……」

 「起きてってば。風邪ひくよ、お父さん」

 「ん……?」


 その日は違っていた。

 いつものように気持ちよく眠りについていた兼広を静かに揺り動かしたのは、布団にも入らず眠りこけるだらしない父親を心配する娘の声だった。


 「お父さんってば」

 「あ……っ!」


 そんな、いつぶりかの心地に意識を浮上させた兼広は、ぼんやりと靄のかかる瞳をどうにか開けた先にいる一人の存在に目を奪われた。


 「あ、あ、あ……?」

 「お父さん?」


 明るく蛍光灯の照らす白い部屋の下。

 倒れ込むように寝ていた兼広の右隣りに座っていたのは、久しく顔を見ることのできなかった一人娘だった。


 「ゆ、い……?」

 「どうしたのお父さん。そんな顔して」


 驚いた兼広の顔が可笑しかったのか、唯は口元に手を添えるとくつくつと静かに笑い始めた。

 上体を起こした兼広は、その細まった瞳を見て更に目を丸くする。灰色に近いブレザーのジャケットを着つけ、黒髪を揺らす少女の微笑みは、まぎれもなく一人娘の唯だった。


 「ゆい……? 唯なのか……?」

 「そうだよ? やだなぁお父さん。わたしだよ。他にいるわけないでしょ?」

 「唯……」


 信じられない。

 全くその一言以外思い浮かばない兼広は、しかしそれでも目の前に現れた人物の確かな存在感に、胸の内を圧迫された。


 「これは、夢か……?」

 「お父さん?」


 夢か。夢に違いない。

 あれだけ絶望して、切望して、どれほど待ち望んでも会うことの敵わなかった存在が、今こうして隣に座って自分の顔を見つめている。

 ありえない。あり得るはずがない。その受け止めきるには重すぎる事実を受け止める為に、いったいどれほどの涙と後悔を口にしたのか。それでも足りなかった。それなのに、なぜ……。

 そんな思いが、兼広の胸中を閃光の如く走り抜けた。


 「お父さんってば、本当に変なの」


 唯はそういうと、いつまで経っても狐につまされたような顔をしている父親に呆れて、円卓の方へと身体を向けた。きちんと正座をして座る彼女に兼広が見とれていると、唯は透明なグラスを持って兼広の胸先へぐいと差し出した。


 「お父さん。一杯、どう?」

 「あ? あ、ああ……」


 貰おうか、という言葉が中々出てこない。

 しかし何とかグラスを受け取ると、兼広は唯の持ったビール瓶からとくとくと黄金色の炭酸水を受け取った。

 しゅわ、ときめ細やかな泡の立つ音を聞きながら、ちょうどいいところまで注いでもらう。そのビールは見事に理想的な塩梅をしていて、見るからに喉が潤いそうな色だった。


 「どうぞ」

 「……。いただきます」


 まるでどこかに迷い込んだみたいだ。兼広がそう思いながら、勧められるままにグラスの縁へ口を付ける。

 そして流れ込んでくるお酒を数度飲み欲してみると、くはぁ、と思わず声が出るほどキメの細かい味わいだった。


 「ああ、美味えなぁ……」

 「でしょ? まだあるよ。ほら、注いであげる」


 勢いづいて半分以上空けたグラスに、新たなビールがなみなみと補充されていく。

 その好意に甘えて兼広がもう一度口を付けると、今度ははっきりとした味の輪郭が舌の表面を駆け抜けた。


 「お父さん、いい飲みっぷりだね」


 一息ついてみると、お酌をする唯が満足そうに笑っていた。

 兼広はその笑顔を見るなり、胸に渦巻く複雑な想いを感じていた。

 明らかに夢だ。これは確かに夢であり、現実ではない。それが心のどこかで確信する痛みと共に告げられる。

 一方で、望んでいた叶わぬ夢を喜び、嬉しく思う気持ちが抑えきれずにいる。その苦さと甘みの両方を一度に感じながら、兼広は注いでくれた愛娘に向かって出来る限りの微笑みを静かに向けた。


 (夢だったな……。娘にこうして、酒を注いでもらうのが)


 唯が小さい時には、できるだけ目に触れないようお酒を遠ざけることにしていた。

 ある程度大きくなってからも、お酒を飲むところは見られても、なかなかお酌をしてくれるほど近くへ来てくれることはなかった。

 もちろん酒臭かったこともあるだろうし、赤くなって調子に乗りやすい兼広を煙たがったせいもあるだろう。

 それを自覚していたからこそ兼広はお酌を無理に頼むことはしなかったし、大人の楽しみとして嗜んでいたところもあった。

 しかし、それが今、夢の中であっても願いが叶っている。

 この一杯は、生きてきた中でも特上の一杯になるだろうと、兼広は静かに噛み締めていた。


 「お父さん」


 そうしているとしばらくして、唯が兼広に声を掛けた。


 「なんだ?」

 「……。お父さんは、本当にお酒を飲むのが大好きなんだね」


 ああ、と言いながら、兼広は唯から視線をそらして前を向いた。

 唯の口ごもった一瞬から、お互いに何て言葉をかければいいのかわからないのだということを、兼広はそれとなく察したのだった。

 生前の娘とも、それほど距離が近かったわけではない。そんな些細な事さえ忘れていた事実に驚きながら、反して妙に嬉しい気持ちを、兼広は感じていた。


 「……お前がもう少し大きくなったら、酒の良さだってわかるかもな」

 「え~? 大人になってもそんなの全然、飲みたくないよぉ~」


 くつくつと笑いながら応える娘の反応に、兼広も思わず肩を揺らす。

 そして一息、細くため息をつくと、兼広は静かに瞼を閉じた。


 (どうか……。どうか唯が、幸せでありますように……)


 そう心から平穏な祈りを静かに、自然に呟けること。

 兼広はどこか新鮮に思いながら、真っ白に染まる景色の中へ、身体が溶けていく思いを感じていた。






 「ただいま。唯」


 いつも通り会社の業務を終え、帰宅して部屋の明かりをつける。

 そんな兼広が声をかける先には、やはりいつもと同じく微笑みを称える唯の笑顔があった。


 「今日はまた一段と暑かったぞ。ただ明日はどうも冷えるらしい」


 そう言いながら、ジャケットをクローゼットへしまい、ネクタイ、ベルト、ワイシャツと次々に着替えていく。

 そして一通りの道具を戻し終えた後、円卓に夕餉を並べ終えた兼広は、食事の為に手を合わせる前になって唯へ身体を向けるように座り直した。


 「唯」


 こほん、と咳払いして、正座に乗せた背筋をぴんと張り直す。

 息を吸い、意を決した様子の兼広は、真剣な面持ちで笑顔を咲かせる娘に向かい、告白した。


 「父さんな……。再婚、してみようかと思うんだ」


 慣れない報告に顔を赤らめながら一生懸命に伝えようとする彼を見て、いつも穏やかに微笑む彼女はその時だけ、いつも以上に柔らかい眼差しを向けながら、父の話を聞いていた。 

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