飯の力
……。
眠たい。あの後、爺さんを見送ってから今までずっとピアノを弾いていたからだ。奏からの連絡で、俺はようやくピアノから離れると、大きくの伸びをして歩きながらストレッチをした。恐らく、俺は一種のトランス状態に陥っていたのだろう。昔からそうだ。喧嘩の時も、強盗をやらかす時も、やらなければならない事に直面した時、俺はこんな具合に集中しきってしまうのだ。何かしらの病気なんじゃないかと思っているのだが、実際の所はどうなのだろう。刑務所に入る時は、特に異常を言われるような事は無かったのだが。
「遅いんですよ。ほら、起こしてください」
言われて、俺は奏を車椅子に移し洗面所へ向かう。そして部屋に戻り食堂へ向かって、朝飯を食べてから再び奏の部屋に戻った。しかし、今俺が向かっているのは呼び出されたからではない。コックが作ってくれた飯を奏にも食わせてやろうと考えたからだ。
トレーに乗せたのは、チーズのリゾットにオニオンとコンソメのスープ。そして、トマトとサニーレタスのサラダだ。リゾットの上のとろけたマリボーチーズは、あっさりもっちりで食べ応えと食べやすさを両立させたコック自慢の一品。焦げ目の茶色と散らしたパセリの緑色が食欲をそそる色合いだ。時間をかけて具材を煮込んだシンプルなオニオンスープにはクルトンが浮かべてあり、こちらも香ばしさと食感がたまらない。サラダのドレッシングは健康に気を使ったノンオイルの冷製ポタージュの様なモノで、甘味と酸味が口の中に広がる上品の仕上がりになっている。
……のだと、奏に持って行ってやりたいと提案した俺に普段無口なあのコックが饒舌に説明をしてくれた(実際、めちゃくちゃ美味かった)。しかし、二階に上がって部屋を開けて奏の顔を見る頃にはその説明の内容をすっかりと忘れてしまっていて、「とにかくめちゃくちゃ美味いから食ってみ」としか紹介出来なかった。これに関してはマジで悪いと思ってる。ごめん。
「お菓子の方がおいしいので」
「バカ。今日は歩いて出かけるんだから、飯食って体力付けないとお前みたいなもやし姫は一発でぶっ倒れるぞ」
「私が歩くわけではありませんので。筋肉バカの召使が居れば食べなくても平気です」
こいつ、とにかく否定しなければ気が済まないのだろうか。
「じゃあ俺が食っちまうからな。めちゃくちゃ美味いのにバカな奴だ。これなんて……ほら!見て見ろよこのチーズ!伸びすぎだろ!うまそ~、やべ~」
スプーンでリゾットを掬ってから上に伸ばすと、細く長くチーズが伸びた。上手い事スプーンに巻きつけてから息を吹きかけて冷ます。その動作を、奏が口を開けて見ていたのを俺は見逃さなかった。
「うりゃ!」
充分に冷ましたそれを、奏の口の中に突っ込む。上唇に撫でつける様にしてスプーンを引き抜くと、リゾットはきれいさっぱり奏の中へと送り届けられたようだ。その後、もぐもぐと口を動かしたかと思うと奏は俺からスプーンをひったくって、わき目も触れずにリゾットを食べつくした。ついでに、スープもサラダもきれいさっぱり平らげると、深く息を吐いてそのまま後ろに倒れた。満足そうな表情を見て、更に言葉を畳みかける。
「昨日の夜飯はミートソースのパスタだった。セロリとかニンジンとか色々入っててめちゃくちゃ美味かった。二杯お替りしたもん」
「……自慢ですか?それに、北方の腕は知っています。残念でしたね」
お前、今食べたいと思ったな。目が泳いでるぞ。そう思ったが口には出さず、代わりにこう言ってやった。
「きっと、今日の夜飯もめちゃくちゃ美味いぞ。一緒に食おうぜ」
「……考えておきます。今日はお父さんもいませんし」
どうやらそう言う事らしい。まんまと口車に乗せられやがって。所詮、お前は16歳の小娘よ。そんな事を考えて、俺はまず一歩この親子の和解に近づいたのだと実感した。サンキューコック(名前は今初めて知った)。
「それじゃあ着替えよう。美智子さんを呼んでくるから、ちょっと待っててくれ」
着替えと入浴は彼女の担当だ。まあ当たり前と言えば当たり前だし、そこまでを俺に任せられても困ってしまうからな。
向こうが着替えている間に、俺はシャワーを浴びて眉毛を整えた。皺のない真っ白なシャツとスラックスに着替えて、墨を塗ってよく磨いてから靴を履く。シンプルだが、鏡に映った自分はそれなりに見られる容姿になっているんじゃないかと思う。あのヨレヨレのロンティーよりは、こっちの方が余程好みだ。
再びトランシーバーに連絡が入った。既に玄関にいるから早く来いとの事。財布とケータイをポケットに突っ込んで下へ向かうと、途中で美智子さんと出会った。
「奏様の事、よろしくね」
「任せてください。ところで、今日の俺はどうですか?結構大人っぽいでしょ」
上から下までじっくりと見て、俺の襟を真っすぐに直すと彼女は「そうだね」と言った。
「それじゃあ今度デートしてくださいよ。いいでしょ?」
傍から聞けば何の脈略も無く意味不明に聞こえるだろうが、デートの誘いなんて何かにこじつけなければ口に出来ないモノだ。男ならきっとわかる。そうだろ?
「……そうね。まあ、考えておいてあげる」
「マジ?じゃあちゃんと考えておいてよ」
「け・い・ご。忘れてるよ?そこらへんちゃんとしないと、相手してあげないからね」
「分かってる!分かってますって!そんじゃ、ちゃんと考えておいてくださいよね」
言うと、彼女は腰に手を当てて困ったように笑った。鼻で笑われているような気もしたが、嘲笑だったりバカにしたりするような態度ではないのが救いだ。……ところで、美智子さんに彼氏は居るのだろうか。まあ、いてもそれはそれで問題ないのだが。
「はいはい。分かったから行っておいで。奏様を待たせちゃダメよ?」
美智子さんは俺の肩を持つと体を半回転するように促してから背中を押した。その仕草がどうにも魅力的に感じてしまって、ついつい嬉しくなってしまう。
「分かりました。それでは、行ってきます」
後ろを向いて手を振ると、美智子さんも笑ってから小さく手を上げてヒラヒラと振った。俺と同じ白シャツとスラックスだが、彼女が着ていると妙に色っぽく見えてしまう。後ろで丸く纏めた髪型(シニヨンと言うんだったか)のせいで白いうなじが見えるのがグッとくる。全く、刑務所上がりの俺には彼女は少し眩しすぎるな。そのせいで、思わず誘ってしまった。
そんな感じで少し浮かれた気分なのが顔に出ていたのか、俺を見た奏に「気持ち悪いです。何なんですか?」と毒を吐かれてしまったが。
「そんな事言うなよ。お、結構かわいいじゃねえか。清楚な感じがしていいと思うぜ」
真ん中にフリルのついた上品な白いブラウスと膝まで長いベージュのプリーツスカート、足は冷えない様に黒いタイツを履いてひざ掛けをしている。まさにお嬢様と言った服装だ。髪は念入りに櫛を入れたのか、伸びっぱなしとは言えサラサラで多少マシに見える。
「誰にでもそう言ってるんでしょうね。嬉しくないです」
俯きながら、横を向いてしまった。
「冷てえな。ほら、ヘアピン付けてやっからこっち向け。すだれのまま人前に出たら、逆に注目集めちまうぞ」
俺は奏の前にかがんで髪を右に分けると、耳の上にパチリと固定した(少しだが、化粧を施しているようだ)。ジトっとした目で見ているが、やはり目を合わせるのが苦手なようですぐに逸らしてしまう。しかし、断ったり自分で外したりしない辺り、こいつもこいつなりにマジでやっているのだと分かる。だから頭を撫でて、それから車椅子を押した。
「それじゃあレッツゴーだ。札幌駅の前にある一番評判のいい美容室で予約を取ったんだ。爪も塗ってもらえるらしいから、ついでに頼んでおいたぜ。全身綺麗にしてもらってこい」
「爪塗って何だって言うんですか?意味ないし、むしろ邪魔です」
「そんな事言って、綺麗になったらどうせ嬉しいんだしいいじゃねえか。気に食わなかったら目の前で落としてやれ」
そんな調子で、奏が何かを否定して俺がフォローを入れる会話を目的地に着くまでずっと続けていたのだった。この否定癖、どうにかならねえもんかね。