180ドライブ
……。
洗濯物を干している間に、トランシーバーにコールが入っていたようだ。首から下げているとブラブラ揺れて鬱陶しいから外していたのだが、気がついた時にはもう遅い。奏の部屋に辿り着いた頃にはそれはもうご立腹で、何一つ喋らない時間がかれこれ十分は続いている。目は口ほどに物を言うとは言うが、目が隠れてしまっている奏の口は言葉を発せずともそれ以上に物を語っている様に見えた。
……実は、気づいたことがある。美智子さんは奏の読んでいた雑誌やお菓子の袋を片付けていたが、ひょっとしてこいつはあまりベッドの上を弄ってほしくないんじゃないだろうか。
枕が体の横に転がっているのは抱きしめていたからだろうし、ティッシュ箱が床の上に落ちているのは鼻をかみたかったからなんだろう。だったら美智子さんにもそう言えばいいと思うのだが、それ以上に喋りたくないのだと思うと少しだけ憐れに思えてしまった。きっと、奏は俺が考えているよりもずっと人間が嫌いになってしまっているのだ。
「わかった。じゃあ出かけよう」
「……は?」
あまりにも驚いたようで、奏はぽっかりと口を開けている。なんの整合性もないアイディアだったが、だからこそ奏の口を開かせる事が出来たのだと思う。
「何ぼーっとしてんだ、クローゼット開けるぞ。……ほら、このストール膝に掛けとけ。あとパーカーでも着とけ」
ベッドに横たわる彼女を起こして、白いジップアップのパーカーを着せる。体を持ち上げて車椅子に乗せると、俺は奏を押して下のガレージへ向かった。
「ちょっと、何考えてるんですか?免許持ってるんですか?」
「喜一様と美智子さんは仕事で出かけた。湊は学校。ここにいるのは無口なコックと俺とお前だけだ」
「答えになってないです。16歳で捕まったなら確実に無免許ですよね」
「事故った事なんてねえから安心しろ」
カバーを外すと、そこには黒く光るセダン車が現れた。センターで美しく輝くエンブレムは、この世界で最も有名なメーカーの物だった。
「すっげえ、ベンツのSクラスだ」
エンジンをかけてから右の助手席を開けて、奏を乗せる。リクライニングシートを倒してシートベルトで体を固定させると、運転席に乗り込んでサイドブレーキを踏んだ。呆れているのか分からないが、奏は何も言わない。
「じゃあ行こうぜ。あ、因みに俺は地元が神奈川だから。この辺の事は何も知らねえ」
札幌である事は分かるのだが、詳しい住所の事は何も分からない。ただ、カーナビにはここの住所が登録してあるようだから、帰って来れなくなることはないだろう。ガレージを出て、表の門に辿り着く。中に電話してコックに門を開ける様に頼むと、彼は何も言わずに開けてくれた。話が分かる奴だ。
「とりあえず海を見に行こう」
提案して奏を見ると、彼女は頬杖をついて窓の外を見てしまった。
「久しぶりの外出だろ?テンション上がるよな」
俺は鼻歌を歌いながら街を走る。北の方に行けば海が見えてくるはずだ。それまでは風任せに車を走らせてみよう。そんな事を考えていると、中央路側帯を挟んだ向こう側にCDショップを見つけた。
交差点をUターンして店の前へ。路上に車を停めてから店の中に入ると、俺が世界で一番好きなDJのCDを買ってから車へ戻った。
「待たせたな。俺が知ってるアーティストの中で、最も偉大な男の曲を買ってきた」
言いながら、CDドライブの中にディスクを入れる。どことなくカントリーな雰囲気なギターのイントロの後に歌詞が聞こえてから、俺は車を発進させた。
「……これは?」
「アヴィーチーのウェイクミーアップ」
「バカにしてるんですか?」
直訳すれば、『私を起こして』だ。それくらいの英語なら、俺にも分かる。
「してねえよ。それに、お前も絶対に好きになる」
縦に首を振って聞いていると、一度目のドロップ(一番盛り上がる部分。サビみたいなモン)で奏が液晶の曲名を見た。そして、二度目には奏も聞きながら首を少しだけ振ってリズムを取っていた。その姿を見て、俺は奏が音楽が大好きな事を確信した。
「なあ、よかっただろ?」
「静かにして下さい。もう一度聞きますから」
ピシャリと言うその口は、怒りからはかけ離れた優しい形をしていた。確か、俺も初めて聞いた時はかじりついてこればかりをリピートしていたっけ。頭のてっぺんに雷でも落ちたんじゃないかって、そんな衝撃を受けたのを今でも覚えてる。あの頃の俺をそんな感情にしてくれたのは、アヴィーチーともう一人だけだ。
……10度目を聞き終える頃には、市街地を抜けてだだっ広い国道に入っていた。前にも後ろにも、一台として車が走っていない。本当にここは日本なのかと疑いたくなってきた時に、奏が突然口を開いた。
「もっとスピード出ないんですか?」
いつまでチンタラ走ってるんだという、それでいてどこかワクワク感を含んだ声だった。
「よっし、じゃあ飛ばすか!ついでに窓開けとけ!」
静かにウィンドウが開き、温かい春の残り香が車の中へ流れ込んできた。アクセルを踏み込むと、とんでもない馬力で急加速し、しかし高級車だからかほとんど反動はなかった。グングンとスピードを上げて、速度は遂に180キロに到達。風景は大して変わらないが、圧倒的な解放感が俺たちを包んだ。
「元気でたか!?」
「なんですか!?」
訊いても、風の音で聞こえていないようだ。
「ちょっとは元気になったのかって!」
「聞こえません!」
大きくて、元気な声だった。楽しそうで、だからこんなスピードの中で俺は思わず奏の方を見てしまった。風で舞い上がった前髪の下の表情は、確かに笑っている。芋臭くて幼くて、地味な顔立ち。奏の顔はちっとも俺の好みじゃないが、不覚にもその表情には少し心が動かされてしまった。言うなれば、感動ってヤツだ。
「気持ちいいですっ!」
奏は、窓の外にではなく確かに俺の方を向いてそう言った。
潮の香りだ。海はもう近い。
……。
岬に車を停めて、奏を車椅子に乗せる。海に近づけるギリギリの場所まで行くと、車椅子を海へ向けて止め、俺はその隣に立った。
「おい、この向こうに中国があるんだろ?」
「当たり前じゃないですか。あなたって本当にバカなんですね」
興奮冷めやらぬ、と言った所だろうか。海を眺める奏のテンションには、まだ熱がある。
スラックスのポケットに手を突っ込んで目を凝らす。形は分からないが、この先には日本よりも遥かに広い国が確かにあって、おまけにその国よりも何倍もデカい大陸があるのだ。その事実に、俺は今更愕然としている。こんな狭い国の中の更に狭い場所でイキり散らして、また更に狭い場所に閉じ込められるような事をして。表に目を向ければこんなに世界は広いのにあんなに小さな殻に閉じこもって、俺はなんてバカだったんだろうか。
「……行ってみたいな」
「なんですか?」
「中国だよ。行ってみたいなって。……いや、中国だけじゃなくて、世界中の色んな所に行ってみたい。そんでよ、その国の旨いモンたらふく食っていい女と過ごして、飽きたらまた別の国に行ってよ。きっと、楽しいだろうな」
タバコに火を点ける。吐き出した紫煙は潮風に導かれて遥彼方へ旅をする。咥えた火種が、チリリと燃えると、焦げるような匂いが鼻の中を突き抜けた。
奏は、何も言わなかった。あまりに俗世的な俺の願いを鼻で笑ったのだろうか。それとも、何かを言いたくても言葉にならなかったのか。それは分からない。
「なあ、奏」
「なんですか?」
「お前、彼氏いんのか?」
再び沈黙。しかし、今度はしっかりと言葉を返してくれた。
「いません。居た事もないですが、一度くらいは誰かと付き合ってみたかったです。デートだってしたかったし、エッチだってしたかったです」
いつの間にか、膝に押さえつけていたストールを胸に抱いている。だが、お前が諦めるのはまだ早い。
「じゃあ、作るか」
「……は?出来るわけないじゃないですか」
「出来る」
「出来ません。だって、歩けないのに」
「俺に任せろ。出来る」
そう言って頭を撫でてやる。目だけを俺に向けているが、睨んでいる訳ではなさそうだ。不安と、それにほんの少しだけ期待が混じった眼差し。
「お前の楽しい生活を探すんだって言ったろ。俺に任せろ」
「……出来なかったら、死ぬまで召使ですよ」
「ああ、約束だ。その代わり、お前もマジになれよ」
奏に向き合い、手を差し出す。彼女はそれに呼応するかのように俺の手を掴んだ。
「まずは前髪を切らねえとな」
かくして、奏の恋人を作る作戦が幕を開けたのだった。