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【完結】君の脚になるから  作者: 夏目くちびる
第四章 君の脚になるから
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今はいつか思い出に

 それから、どれくらい俯いていたのでしょうか。



 泣き止んだと言うよりも、枯れてしまったと言った方が正しいと思います。突っ伏せたまま、髪も顔もグシャグシャになってしまって、どうすれば人の前に顔を出せるのかが分かりません。



 そんな時、部屋の扉が開かれました。



 「奏、いるかね?」



 入ってきたのは、お父さんでした。倒れてノートを抱いている私を見ると、何も言わずに膝をついてゆっくりと私の体を起こします。楓さん程は力がなくて、車椅子に座るまでにいつもよりも時間が掛かってしまいました。



 どうやら、いつの間にか昼食の時間になっていたようです。中々連絡のない事に心配して、迎えに来てくれたみたいでした。



 お父さんは、何も言いませんでした。座っても尚手放す事の出来ないノートの正体が何なのか、この人には分かっているんだと思います。だからでしょう、私を通り過ぎてピアノの前に座ると、ゆっくりとピアノを弾き始めました。



 「……全然、弾けていないです」



 合っていたのは、最初の音だけ。その後はピン、ポロンとあべこべなメロディを叩いていて、しかしそれでもお父さんは弾き続けました。



 止まっては叩き、止まっては叩き、そんな姿を見ていると、何故だか少しだけ寂しさが紛れます。そして、いつの間にか最後まで頑張れと心の中で応援している自分に気が付き、遂にやり遂げたお父さんを誇らしく思ったのです。



 ……あの人も、私を見てこんな気持ちになっていたのでしょうか。



 「やはり難しいモノだ。奏も楓も、よく上手に演奏出来るね」



 苦笑いを浮かべるお父さん。めちゃくちゃな旋律でしたが、何の曲を弾いたのかは分かりました。G線上のアリア。二人で何度も聞いた、お母さんとの思い出の曲。



 立ち上がると、お父さんはポケットからハンカチを取り出してそれを渡してくれました。しかし、今更どこを拭けと言うのでしょうか。乾いた頃に渡されても、どうしようもありません。



 でも、ありがとうございます。



 「酷い奴だ。私の娘をこんな目に合わせるなんて」



 そう言うお父さんは、怒りからは最も遠い、愛のある表情をしています。



 「けどね、彼も大切な私の息子なんだ。だから、どうか赦してあげてくれないだろうか」



 「……別に、私は怒ってなんていません。もしそう見えるのであれば、それは自分自身にです」



 喋っていると、段々と心が落ち着いてきます。しかし、それと同時に別の事を考えてしまうモノです。枯れたと思った涙が一粒だけ流れたので、借りたハンカチで拭いました。



 「いいかい、奏」



 ピアノの椅子を引っ張って、私の前に座るお父さん。



 「もしも涙で前が見えなくなったら、今手にあるモノを確かめなさい。夢でもいいし、思い出でもいい。それがきっと、道標になってくれる」



 「思い出……」



 その時、私は何故お父さんがこんなにも強く居られるのかが分かったような気がしました。あのたくさんの美術品や骨董品は、全てが誰かの思い出なんです。あれだけ大切な物を抱えていれば、振り向きたくても振り向けないのかもしれません。



 「ただ、それでも辛くて道が見えない時もある」



 呟くと、お父さんはピアノの上のメトロノームを持ち、それを眺めて。



 「その時は、時間が解決してくれるよ。だから、進めるようになるまで立ち止まっていなさい」



 ねじを、巻きました。すると、動かない筈の針が、スローで小気味よいテンポを部屋の中に響かせました。



 「驚いたね。壊れてしまっていたと思ったが」



 しかし、動き出す事を分かっていたような口振りです。今までに何度も見てきた物ですから、違和感があったのかもしれません。そう思ったのは、私も同じでした。



 音に耳を傾けるお父さんは、お母さんとの出来事を思い出しているようでした。ひょっとすると、今まさにお父さんの手に新しい強さが加わったのかもしれません。二つの道標を、手に入れたのかもしれません。



 カッチカッチと、メトロノームはまるで私とお父さんの時を刻み始めたようです。お母さんが亡くなって、止まってしまっていた時を、楓さんが動かしてくれたように思えます。時間が解決してくれるというのは、忘れる事ではなく受け入れる事なのでしょう。



 「そういう事、だったんですね」



 すると、突然霞んでいた視界が晴れました。涙に反射する光は音の様に輝いていて、雨上がりのように澄んでいます。この気持ちを確かめて、再びノートを抱きしめます。すると、あの日言えなかった言葉が。



 「……今だけは、一緒に泣いてくれますか?」



 ようやく、言えました。



 ……。



 翌日、私は吹奏楽部の練習に行く事にしました。秋津は送って行ってくれると言いましたが。



 「大丈夫です。私、自分の力で登校したいんです」



 「……そうですか、分かりました。でも、もしも何かあったらすぐに連絡をしてくださいね」



 そう言いながら、私が制服を着るのをずっと見ていました。手を貸そうかと何度も言って、そんなにハラハラした様子見られるとシャツのボタンをうまく締められません。もう少し落ち着いてください。



 五分の格闘の末、どうにかスカートを履くことができました。やってみれば案外出来るものです。この調子で、色んな事をこなせる様になっていければ、きっと楽しいと思います。



 エレベーターに乗って、玄関へ。下へ降りてもまだ心配そうな顔をしている秋津が何だか可愛く見えます。



 「やっぱり、一緒に着いていきます。もう心配で心配で」



 こうなってしまっては、どうしようもありません。振り切ることは出来ませんし、断っても草葉の陰から覗いていることでしょう。だったらいっそ、隣にいて貰ったほうが気が楽と言うものです。



 そんな事を考えて門の方へ漕いでいくと、今まさにインターホンを押そうと手を伸ばす男の子が見えました。



 「七橋さん?ここで何をしてるんですか?」



 「あ、おはよう東条さん。君を迎えに来たんだ」



 「……頼んだ覚えはないですけど」



 「頼まれた覚えもないよ。でも、きっと部活に来ると思ってさ。昔みたいに、一緒に登校しようよ」



 言った後、彼は秋津に頭を下げて挨拶をしました。



 「……そういう事みたいです。秋津、後は彼に任せてください」



 「わ、わかりました。七橋さん、奏様をお願いします」



 どうにも、私は前より強引な態度を受け入れる事が出来るようになっているみたいです。それはきっと、連れられていく場所が楽しいと知ってしまったからなのでしょう。



 「車椅子、押そうか?」



 「いえ、いりません」



 言って、私は車輪を転がしました。時刻はまだ6時半。部活が始まるのは9時ですが、きっと何度も休憩する事になるでしょうからこの時間に……。



 「……あれ?」



 はて、どうして七橋さんはこんな時間に来たのでしょう。普通に歩けば、学校までは30分もかかりませんのに。

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― 新着の感想 ―
[一言] 過去の想いは、下手をすると自分を縛る鎖にもなるから。それを強さにするには、単に過去を持つだけじゃなくて何らかの形で昇華する必要があるんだろうなあ。 楽譜も、奏の中で強さに変えられたのかな。…
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