青春の追い風
「最近のあなたは、どこかおかしいです」
学校の帰り、車の中で奏がそう言った。
「そうか。あんまり自覚はないんだけどな」
「なら、もう少し自覚する努力をしてください。一生召使にしますよ」
あの夜から数日、奏は何か気に食わない事があると、決まってこの口上を告げるようになった。お前が金を払う訳でもないだろうに。
垂れ流しにしているクラシックピアノのベストアルバムも、ヘビロテし過ぎてそろそろ音楽家を言い当てられる程に慣れてきてしまった。因みに、今流れているのはモーツァルトだ。
「違います。これはブラームスのピアノソナタです」
……そういうことらしい。カーナビのモニターには周辺マップが開かれているから、これではカンニングも出来ない。たまには知識的な部分を見せようと思ったのだが、思い切り裏目ってしまった。
「惜しいな」
そんな適当な相槌には、奏は言葉を返さない。呆れたようにため息を吐くと、頬杖をついて外の景色を眺め始めた。こいつ、いっつも頬杖ついてんな。
今日は前期中間テストの最終日。気が付けば奏は夏休みまで秒読みとなっていて、それは俺がボストンへ旅立つまで残り三週間を切った事を意味していた。
「そう言えば、テストの出来はどうだったんだ?結構真面目にやってたみたいだけどよ」
家でも勉強している姿を頻繁に見ていたから、実をいうと訊くほど心配もしていない。
「そこそこです。落第はないと思います」
と言う事は、やはり出来は良かったのだろう。もし結果を残したのならば、何かご褒美を上げなければなるまい。
「そんだけ自信あるなら、答案が戻って来るのも楽しみなんじゃないか?」
言うと、奏は髪の毛先を指でクルクルと回して話を誤魔化してしまった。少し長くなって、カラーがグラデーションっぽくなっているのが印象的だ。パーマも更に緩くなって一層可愛らしく、奏自身も今の方が気に入っているんだとか。美容院に行くのは、もう少し先の事になりそうだ。
赤信号で止まる。この先で事故があったみたいだ。一般道にも関わらず、とんでもない渋滞となってしまっている。しかし、別に急いで帰る用事もないから、このまま並んでいよう。
「……市島さんの事ですが」
まるで俺が知っているかのような口調で喋り出した奏に、「そんな話をしたことがあったか?」と疑問符を浮かべたが、よくよく考えてみればこいつが突然話をするのは今に始まった事ではない。だから、気にせずに耳を傾けて「あぁ」でも「うん」でもない音を口にした。
「最近、よくあなたの事を訊かれます。何故だと思いますか?」
撫子の話を思い出して、それはお前が俺を貶して遊んでいるからなんじゃないかと考えたが、様子を見るに訊かれるから話をしている、と言った感じだ。
「そりゃお前、すずめの鳥かごの中に一匹だけカラスが混じっていたら、どうしてその中にカラスがいるのか気になるだろ」
「……そういう事ではないと思うのですが」
否定するというという事は、ある程度こいつの中で理由は解っているのかもしれない。それでいて俺に考えを訊くのだから、ワケを暴いても奏は喜びはしない。
「そんな事よりよ、演の奴は元気か?」
「演って、七橋さんの事ですか?何故彼を知っているんですか?」
「何故って、……そりゃ、こんだけ何回も通っていれば知り合いの一人や二人くらいできるだろ」
実のところ、あれ以来演と話した事はない。何度かニアミスする場面はあったのだが、あいつの周りにはいつも人がいて会話をする機会を設けられないのだ。リア充って言葉は、ああいう奴に使うのだろう。自分で言うのもなんだが、俺に単騎で立ち向かってくるのだから奴が人気になる理由もわかる。
「……そうですね。時々、私のクラスに元吹奏楽部の人を連れて足を運んできます。彼は二年生ですが、小学生の頃からの知り合いなので、気を使ってくれてるんだと思います」
どうやら、そういうことらしい。俺の見立てじゃ、あいつは間違いなく奏に惚れているわけだが、こうも薄い反応をされると言うことは、あいつは今も昔も苦労しているのだろう。中学時代は吹奏楽と陸上、高校に上がったら目の前から消えちまって、だから俺はそんな宙ぶらりんなあいつの想いを救ってやりたいと思ってしまった。
「たまには遊びに行ったりすればいいんじゃねえか?友達も出来たんだしよ」
「……あなたが来てくれるなら、考えます」
どうやら、既に誘いはあったようだ。毎日ケータイを触っているから、それくらいの仲の友達はいるとは思っていたが。さしずめ、テストの打ち上げと言ったところだろう。
「バカ言え。言っとくけどな、絶対俺がいない方が楽しいからな」
渋滞から抜け出して、ようやく車が走り出した。奏は答えを出さなかったが、迷っているのなら後はきっかけだけなのだ。こいつは結構押しに弱いところがあるから、ゴリゴリに攻めてやれば「仕方ないですね。今回だけです」とか言って付き合うと思っている。問題は、同じ歳でそれを穏やかにやり過ごせる奴がいるかと言う点だ。
家について仕事のルーティンをこなすと、夕飯までに少し時間が余ってしまった。最近は湊とカジの散歩に行くのも日課になっているから、腹が減って仕方ない。あの無尽蔵のスタミナは一体どこから沸きだして来るんだろうか。そんな事を考えながら、今は気分転換に裏庭へ行くことにした。夜はどうせ明け方までピアノを弾くんだろうしな。
階段を下って裏口へ。その途中、水仕事をしていたのかハンカチで手を拭きながら登ってくる美智子さんと会った。
「ちょうどよかった。黒木君にお客さんよ」
ここで働き始めて、俺に客が来たのは初めての事だ。特に何かをやらかした記憶はないのだが、こういう時に悪いイメージしか浮かばないのは悪者特有の悩みなのかもしれないな。いや、本当にガサ入れくらうような事はしてないぞ。
「こ、こんにちは」
あぁ、なるほど。
「よう、元気か?」
確かに、来るならこのタイミングだよな。なんなら、今日以外ありえないってレベルだ。なぁ、演。
「はい、元気です。……少し、時間を貰ってもいいですか?」
「いいぜ。場所移そうか」
近くの自動販売機まで歩く。何か飲むかと訊くと、演はコーラを飲みたいと言った。素直でかわいい奴だ。
コーヒーとコーラを買って壁に寄りかかる。空はまだ明るい。あの低くて大きな雲の多いのを見ると本格的な夏の始まりを感じる。
「デート誘ったみたいだな。偉いじゃねえか」
「デートじゃないですよ!その、中学の吹奏楽部のOBとOGで復帰祝いをしようと思ってるんです。と言っても、星稜には後輩の市島も合わせて五人しかいませんけどね」
むしろ、同じ部活出身の人間が五人もいる事の方が珍しいんじゃないだろうか。
「そういうの、爽やかでいいねえ」
しゃがみ込んで冷たいコーヒーを流し込む。演は俺が飲み始めるまでプルタブを引くのを待っていたようだ。細かいがこういうところを見ると、どうしてもかわいく見えてしまうのは俺が大人になったからなのだろうか。
「けど、東条さんはあまり乗り気じゃないみたいで。少し考えさせて欲しいと言うんです。そこで、何か話を聞いていないかと思いまして」
「なるほどねぇ」
言って、ポケットを探る。しかし、目当てのタバコは見つからない。そうだ、禁煙したんだったな。
「まあ、嫌じゃないと思うぜ。ただきっかけが欲しいだけなんだよ、あいつは」
「きっかけ、ですか」
「そう。例えば……」
そう言いかけて、俺は答えを出すのを止めた。確か、撫子の言う教育論の中に「魚の釣り方を教える」と言うのがあったはずだ。となれば、ここで全てを教えてしまうのはあまり良くないのかもしれない。
「例えば、なんですか?」
「いいや、やっぱり俺にも分かんねえや」
しかし、明らかに勿体ぶった態度だったのが分かったのか、演は小首を傾げて頭の上にでっかいはてなマークを浮かべた。
「ただよ、あいつは結構押しに弱いんだ。他にも、ヒントになりそうな事は教えてやれると思うぜ」
「是非、お願いします」
そして、俺は奏の趣味や癖なんかをそこそこに教えた。演も賢い奴だから、これでうまい事誘い出してくれることを願おう。