第1章 春
早春の京都は、三月の暖かく穏やかな陽射しの中で霞んでいた。
私は四条大橋の舗道の欄干にもたれながら、霞む比叡山や東山の山並みを眺めていた。
京都の街を覆う霞のような空は、中国大陸から風に乗って飛来する、
”黄砂”のことを言うのだろうかと、私は空を眺めて思った。
”杉本安奈”18歳。高校を卒業したばかりの私の名前である。
四月から京都市内にある、女子短大に進学が決まっていた。
私は京都市内の西の端にある、西京区と言う所に住んでいた。
今日は母に頼まれて、東山にある祖母の家に預けてある母の着物を取りに行く途中だった。
四条河原町までアズキ色の私鉄に乗り、四条大橋を渡って右に下がれば、
古い京町家の祖母の家がある。
私は、四条大橋の上から見える鴨川の流れに春の訪れを感じ、
暫く立ち止まって、辺りの景色を眺めていた。
ひっきりなしに目の舗道を通る観光客の言葉に、京都は観光都市であることを再認識した。
そろそろ祖母の家に行こうと、鴨川から目を離して振り返った先に、
半年前から付き合っているカレシの”亮太”の姿を偶然に発見した。
彼は、高校のクラスメイトだったが、夏休みの夏期講習が切っ掛けで親しくなり、
2学期に入った頃に、彼から告白され付き合っている。
彼は進学をせず、4月から京都市内の建設会社に就職をすることになっていた。
それまでは、春休みのバイトで自分のスケジュールを埋めている筈だった。
しかし、明日はバイトが無いので映画を見に行こうと、私は彼から誘われていた。
今日はバイトの筈なのに、彼はどうして此処を歩いているのか不思議に思った。
バイトが休みになったのなら、私に電話を掛けてくればいいのにとも思った。
彼は私と反対側の舗道を、八坂神社のほうに向かって歩いていた。
私は彼を偶然の発見をした嬉しさに、彼をビックリさせようと声をかける事にした。
私は、四条大橋の東詰まで歩いて、北側に横断歩道を渡り、
川端通で歩行者信号を待っている彼に追いついていた。
彼は、ジーパンに白いブルゾンを着て、ポケットに両手を入れて信号を待っていた。
私は後から驚かせてやろう彼に近づき、私の手を彼の肩に置こうとした瞬間、動作を止めた。
何故なら、彼の隣で信号待ちをしている若い女性に、急に彼が話し掛けたからだった。
私は予期していない彼の行動に、凍りつくような衝撃を受けて立ち尽くした。
私が、後ろに居る事を知らない彼は、馴れ馴れしい言葉で彼女に言った。
「しかし、キョウコと会うのん、チョット久しぶりやなあ」
話しかけられた女性は、亮太に向かって答えた。
「こっちも、あの事でバタバタしてて、電話でけへんだしね」
彼女も、亮太に向かって親しげな言葉で話していた。
彼女は20歳くらいに見えた。
派手な茶色に染めた髪はウェーブがかかり、肩から20cmくらいの長さだった。
白いスーツはタイトのミニスカートで、ハイヒールを履いた彼女は化粧も濃く見えた。
私は二人が何処に向かって歩いているのか、どんな関係なのか解らなかった。
でも、二人の後を距離を取りながら着いていった。
彼女は亮太の身内の人間なのかとも思ったが、彼に姉や妹が居ることは聞いていない。
彼の両親は15年前に離婚しており、彼は母親と二人で住んでいる筈だった。
私は祖母の家に行くことを忘れたかのように、二人の後を探偵のように追跡し始めた。
私の頭の中は、彼女と彼が親密な男女関係だっらどうしようかと、不安は大きくなった。
逆に彼女が、彼の身内で従妹とかだったら、私の行動はお笑い種になるとも思った。
しかし、目の前を歩く亮太を秘かに尾行することを、私は中止する事は出来なかった。
二人は、四条通を歩き、花見小路を越えて八坂神社の石段を登り始めた。
観光客に混じって10m位後を歩く私に、亮太は全く気づいていなかった。
石段を後から上る私は、前を行く白いスーツ姿の女性の短いスカートと、
スラリと伸びたスタイルの良い長い脚が目に入った。
その時、私の頭のどこかで亮太が言った言葉が思い出された。
亮太は、派手で大人っぽい、年上のOLのような女性が好みだと言っていたことだ。
私の心の中は湧き上がる不安と、彼への不信感で一杯になりそうだった。
此処まで来て追跡中止もできないし、今更声をかけるのもタイミングが悪いと思った。
二人は八坂神社に仲良くお参りしてから、近くのベンチに並んで座って話をしていた。
私は神社の建物の陰に隠れて、後ろのほうから二人を見ていた。
二人は笑いながら顔を見つめ合い、恋人同士で話をしているかのようだった。
亮太はあの女性と付き合っているのだと、私の心の中で誰かが囁いた。
私は、二人の見える建物の陰から、亮太の携帯に思い切って電話を掛けた。
私が彼に抱いている不安を解消するには、これしかないと思った。
彼は、私の質問に対して納得できる答えを返してくれると、心のどこかで期待していた。
私の不安は取り越し苦労であることを、彼の声ではっきり確かめたかった。
私の電話に、彼はポケットから携帯を出し、着信者を見て電話に出た。
「もしもし・・・」
私は建物の裏から、私の声が聞こえない程度の小さな声で喋った。
「もしもし・・・安奈。亮太は今、バイト中やったっけ?」
彼は答えた。
「うん。バイト中やで。今日も残業で遅くなりそうやわ。何やった?」
私は一瞬、自分の心が潰れそうになるのを堪えて、彼に続けた。
「亮太が明日、映画見に行こうって言うてたやん。何時ごろから行くのん?」
彼は、数秒黙ってから言った。
「ごめん。明日アカンようになったんやん。バイトがどうしても休まれへんねん」
私は呆然として、彼に言った。
「そうなん?バイト休めへんねやったら、仕方ないやんね」
「せやけど亮太。あんたのバイトって工場ちゃうん? メチャ静かやん、まわりが」
彼は、誤魔化す様に笑って言った。
「ああ、丁度、今な、休憩時間やねん。機械止まってるしな・・・」
私は、大きな絶望感を感じながら電話を握り締め、言った。
「解った。ほんなら、また電話するし・・・」
私は、慌てて電話を切った。
目の前が真っ暗になったような気がした同時に、悲しくて目の前がぼやけていった。
私は、この場所から一秒でも早く逃げ出したくなって、祖母の家に行くことを決めた。
彼女と彼は、ベンチを立って、私の居る建物の傍を二人で通り過ぎて行った。
建物の脇を通り過ぎるときに、二人の会話の断片が私に聞こえてきた。
私にとって、その会話は、心が押しつぶされるような痛みに感じた。
私の隠れる建物の横を通り過ぎながら、二人は笑いながら会話をして歩いた。
どんなに言い訳をしても、二人は仲の良いカップルにしか見えなかった。
彼女が言った。
「あんた、よ〜そんな嘘が付けるなあ。どう見ても、此処は工場ちゃうで」
「その子、私の存在は知らんねんやろ?」
彼は言った。
「知ってるわけないやん。いつかは話はするつもりやけどな」
私は、そんな二人の会話に耳を塞ぎたい気持になった。
二人は仲良く肩を寄せながら、八坂神社の隣にある円山公園の方に歩いて行った。
私は、足早に八坂神社を離れて、祖母の家を目指して四条通を西に歩いた。
すれ違う観光客を避けるように歩き、私は祖母の家の古い格子戸を開けた。
祖母は、私の母の母で、昔は祇園の御茶屋の女将をしていたと聞いている。
今は、他人に譲ってひっそりと、この家で余生を送っている。
母が父と結婚した後、独りになった祖母は生け花や踊りや着付け等を教えていたが、
七十歳を過ぎた今は、それも辞めて読書と観劇だけを趣味に過ごしているようだった。
その祖母の昔ながらの、はんなりとした京言葉は、
私にとって時には、異国の言葉に聞こえるような響きだった。
祖母は涙で目を濡らし、玄関から入って来た孫娘の顔を見て問いただした。
「安奈はん。どないしやはりましたん? 泣いたはるのと違うんどすか?」
私は手で涙を拭いて、笑いながら祖母に言った。
「ちゃうねん。黄砂が目に入ってん。涙止まらへんわ」
祖母は、自分の座っている座敷机に座るよう、私に言った。
「安奈はん。どうでも宜しおすけど、ちょっと、ここにお座りやす」
私は座布団を引いて座り、祖母の顔を見て言った。
「お母さんから言われて、着物取りに来たんやけど、何処にあるのん?」
祖母は私を睨むようにして言った。
「そんなことは、後からでも、かましまへん。何であんさんは、泣いたはりますのん?」
私は祖母が私のことを心配してくれているのは充分解ったが、
亮太のことを説明するのは億劫だった。
そして、早く祖母から母の着物を貰って帰り、自分の部屋に篭ってしまいたかった。
私は、よく磨かれた座敷の机に目を落としながら、黙って俯いていた。
祖母が痺れを切らして言った。
「あんさんみたいに気丈な子が、泣かはるなんて、尋常な事やおへんさかいにな」
「お祖母ちゃんが聞いてあげるさかいに、言うてみなはれ。安奈はん」
私は、祖母の優しい気遣いと、凛とした口調に涙が止まらなくなった。
堪えようとする気持に反して、涙は流れ、しゃくりあげる始末だった。
私は、その悲しい感情が少し落ち着いたとき、祖母に全てを話した。
祖母は、私の泣いている理由を黙って最後まで聞いてくれた。
祖母は私の泣いている理由を聞き終わって、優しい口調で言った。
「亮太はん・・・どしたかいな? 前に、わての家に遊びに来てはったボンどすやろ?」
「亮太はんは、そんなタチの悪いボンやおへんと、わては思いますけどな」
「あのボンの目は、安奈はんを裏切るような目は、したはらへんと思いまっせ」
「わても、男はんを見る目は有りまっさかい、安奈はんは、心配せんで宜しおす」
祖母は、そう立て続けに私に言って、母の着物を風呂敷に包んで私に渡した。
そして、電車で帰ったらシワになったり、崩れたりするのでタクシーで帰るように言った。
祖母は箪笥の引き出しから、タクシー代と言って一万円を渡した。
いらないと言って返しても、受け取る祖母でないことを承知していた私は、
祖母に礼を言ってポケットにお金を仕舞い込んだ。
祖母に、亮太の話をしたことで不思議と気持は楽になったが、
心の中では、やはり、穏やかな気持にはなれなかった。
タクシーに乗っている間、色んな言葉や色んな光景が頭の中を過ぎっていった。
五条通を西に向かう私の目に、桂川の向こうの西山に傾いた夕陽が眩しく輝いていた。
私は、家に帰ると自分の部屋に閉じこもり夕食も摂らなかった。
母は私を心配して部屋に来てくれたが、体調が悪い旨の返事をしてベッドに横になっていた。
翌日からも、食事には顔を出したが食欲は出なかった。
家族との会話も殆どしなくなり、友人との買い物の約束や、食事の誘いも断った。
両親や友人は私を心配してくれたが、やり切れない私の気持は沈んだままだった。
私の頭の中には”キョウコ”という文字と、”亮太”という文字がグルグル回っていた。
私は鬱病って、こんな感じなのかなと客観的に感じながら、陰鬱な日々を過ごした。
その間に、亮太からのメールも電話もないことから、
私と亮太の関係は、こんな形で何となく終わるのだろうと感じていた。
4月に入って初めての土曜の夜、亮太から電話があった。
私は、その電話が嬉しいのか悲しいのかわからない、複雑な気持で受信した。
亮太は、やけに明るく就職先のことや仕事の内容を喋り続けた。
私は、どこか遠くから聞こえてくる亮太の声に、耳を傾けながら涙が流れるのに気づいた。
亮太は、そんな私の気配に気づいて問いかけた。
「安奈、どないしたん?何かあったんか?」
私は鼻を啜りながら答えた。
「うーうん。別に・・・」
亮太は、明るく弾けるような声で私に言った。
「安奈。久しぶりやし、映画に行かへん?世間は春爛漫やで。明日は日曜やし行こ!」
亮太の余りにも明るく上機嫌の声が、私の落ち込んでいる心に針を刺していた。
亮太は”キョウコ”という女性と付き合いながら、私を誘っているのかと腹立たしくなった。
私の胸は、そんな亮太の身勝手で不埒な言葉に、悲しさと苛立ちで潰れてしまいそうだった。
私の、どうすることも出来ない感情の高ぶりは、遂に亮太に爆発した。
私は亮太に言った。
「そんなに映画に行きたかったら、私と違ごて”キョウコ”さん誘えばええやん!」
亮太は突然の私の言葉に声をなくした。
「ええ?」
私は続けて亮太に言った。
「”キョウコ”さんと居るほうが、亮太は楽しそうやし、私のことは、もうほっといて!」
亮太は混乱しながらも私に言った。
「安奈、あのな、自分勘違いしてるって。ちゃうねん、”キョウコ”はな、ちゃうねん」
私の感情は亮太の言い訳を聞きながら最高潮に達し、泣きながら叫んだ。
「私は、二人が八坂さんでデートしてんの知ってるねんで!言い訳は、もうええから!」
亮太は、私の叫びを電話で聞きながら笑い始め、そして、私に言った。
「安奈、その事なあ。安奈に解る様に説明するし、今から出て来てや、俺もバイクで行くし」
私は、亮太の言い訳を聞くことを了解し、家の近くの公園に行くことを告げた。
これで最後になるのだったら、直接会って別れるほうが気持の踏ん切りが着くと思った。
私はコンビニに雑誌を買いに行くと母に伝えて家を出た。
春の暖かい夜風が顔を撫ぜて、私の悲しむ心を嘲笑っているように思えた。
公園に着くと、亮太は既にバイクで到着し、街灯の下のベンチに座っていた。
私は彼の座っているベンチに距離を開けて座り、無言で俯いた。
彼は、何から話したらいいのか迷って居るようだった。
思い切ったように、彼は言葉を吐き出し始め、次のような複雑な話をした。
・・・15年前、彼の両親は離婚した。
母は京都に残り、父は大阪に移った。
離婚後の話し合いで、3歳の亮太は母に引き取られた。
しかし、亮太には7歳の姉が居り”キョウコ”と言う名前だった。
ところが、15年後の今年、亮太の父が病死して、22歳になった”キョウコ”は、
母の元に戻って暮らすことになったと言う。
そして、今年の三月、私が亮太と”キョウコ”を見た日は、
”キョウコ”が母と亮太に、今後の生活を相談する為に京都に来ていた時だった。
母に相談する前に亮太に相談し、その意思決定を母に伝える為の二人の話し合いだった。
二人で話し合った後、母も”キョウコ”と暮らすことを賛成し、
翌日から”キョウコ”の引越しや、市役所の手続きなどで、亮太は走り回ったという。
だから私には悪いと思ったが、その騒動が落ち着くまで連絡が出来なかったと言った。
私は、長い時間を掛けて亮太からの説明を聞きながら、
彼の家族の事情を納得し、勘違いをしていた自分の行動を恥じていた。
そして、祖母が私に言った言葉を思い出して、祖母の見る目は確かだと感心した。
”あのボンの目は、安奈はんを裏切るような目は、したはらへんと、思いまっせ・・・”
祖母の凛とした言葉が、私の心の中に蘇り、私の曇った心は晴れていった。
翌日の日曜日、私はウキウキした気持を振りまいて、亮太とのデートに向かった。
今までの沈鬱な私を見ていた両親は、娘の天真爛漫な姿を見て、あっけに取られていた。
家を出て春の陽射しを浴びている私は、自然にニコニコと笑っているのが解った。
私って、案外単純な性格なのかなと考えたが、私の笑みは体中から放たれていた。
体中が自由になったようで、手も足も心も春の陽を浴びて踊りだすのが解った。
亮太と映画を見て昼食を取り、ゲームセンターで遊び、コーヒーショップで夕方まで寛いだ。
夜の帳が降りた頃、二人は円山公園を歩いていた。
多くの屋台が立ち並び、夜桜見物に繰り出した人ごみの中で、
ライトアップされた”枝垂れ桜”は、春の夜空一杯に見事に咲き誇っていた。
私の心は、昨日までの湿った孤独感、疎外感、不信感をどこかに吹き飛ばして、
手を繋いだ亮太の手の温もりと、私を包み込む彼の優しさを感じて華やかに彩られた。
円山公園を、ほんのりと照らす提灯を見ながら、二人で歩く私の口元から歌が流れた。
”月は朧に東山・・・”
そんな祇園小唄という古い歌が、小さいとき祖母から習った私の記憶から蘇った。
京都の、東山や鴨川の風景を歌う昭和初期の歌は、この風景にぴったりだと私は思った。
そして、私は亮太と繋いだ手が、いつまでも離れないようにと心の中でお祈りした。
枝から舞い落ちた桜の花が一枚、優雅な舞を見せながら亮太の肩に留まった。
私は、その花弁を彼の肩から彼に気づかれないように、そっと掌に取って、
自分のポケットの中に、大切に仕舞い込んだ。
私は、その桜の花弁が、いつかポケット一杯の綺麗な花を咲かすような予感がした。
私は、並んで歩く彼の横顔を見つめながら、幸せな気持で微笑んでいた。