第17話 思い出
「おしぼりどうぞ。メニュー決まりましたらお呼びください」
水の入ったグラスと布のおしぼりをテーブルに置かれ、女の店員さんはにこにこと愛想の良い笑顔を浮かべながら下がった。別に何か面白がっているとかそういった笑い方でもなく、ただただ善意を感じるような微笑み。来店を喜んでくれているというのがこっちまで伝わるぐらいに、優しい顔をしていた。
「良いお店……」
心からの称賛が言葉にも漏れる。呟く僕を見て、向かいに座っている彼女は微笑んできた。
「その言葉を聞くと、私もなんとはなしに嬉しくなります」
「あっ。はは、声に出ちゃったよ」
照れを掃うようおしぼりに手を伸ばし、そのまま手を拭いているとふわりと柑橘系の甘く控えめな香りを鼻先で感じて、驚く。
「え、良い匂い……!」
「アロマで香りづけされているみたいですね。良い香りです」
「すごい、拭いていると手がどんどん良い匂いになる……! けどこれって意味があったりするのかな」
「そうですね、例えばレモンの香りは気持ちを和らげてリフレッシュしてくれる効果があります。他にもミントは気分がすっきりする効能や、グレープフルーツの香りも緊張を解すと言われていますね」
「おお、なるほど」
僕の疑問をさらりと解決してくれる彼女は今、おしぼりの香りと同じぐらいの効能をもたらしてくれた。
けれど、と言いながら彼女は持っているおしぼりを直接嗅ぐわけではなく、手に付いた香りの方を鼻に近づけて確かめながら、続ける。
「これは、少し甘い香りがします。オレンジかもしれません」
香水を付けた時に見るような、手首の裏を顔に近づける女性らしい仕草に一瞬どきりとしながら僕は聞き返す。
「……オレンジだと何か違うとか?」
「オレンジは、気持ちが明るくなったり食欲増進の効果があると言われますね」
「へぇ! 今からご飯食べる人にぴったりだね」
「まさにそうですね、お昼時はこの香りなのかもしれません」
「ん? お昼時は? あれ、もしかして他にもあるの?」
「私が来ていた時は、甘さが混じってる香りじゃなかった記憶があるのです。もしかするとお茶の時間帯だったからかもしれません」
「それならすごいね、時間帯によって変えるとか本気さを感じるよ……!」
ただただ感動していると、白刃さんは立て掛けられていたメニューを取り、開いてこちらに見せてくる。
「あきと君は何を頼みますか?」
「えっとそうだなぁ……。パスタ、サンドイッチ、ハンバーガーもある……! 迷うなぁ」
どれも美味しそうだが、喫茶店は値段がすこし高めなこともありたくさん注文することは難しい。悩んでいると、白刃さんから言われる。
「サンドイッチはいくつか種類がありますが、一つのお皿に数枚乗っていますから交換もできますよ」
「えっ、良いの! 実は候補が二つぐらいあったから、嬉しい!」
「では、そうしましょう。飲み物はどうされます?」
「うーん、紅茶かなぁ。白刃さんは?」
「私はブレンドで」
クールにブラックコーヒーが似合う人だろうけど、優雅みたいな方向で見れば紅茶も似合いそうだよなぁ。というか何でも似合いそう、下手したらココアでもミルクでもそれ相応に見える気がしている。
いや、きっと僕の色眼鏡が彼女を綺麗に染め上げてるんだろうな。元々綺麗で美人さんですけども。
結局色が入りまくった締まらない考えで締めながら「これとこれと」とメニューに指を指してお互いに示し合わせる。
「じゃあ決まりだね!」
「はい」
彼女は店員さんの居る場所に向けて手を上げながら、「すみません」と深く通るのに大きくは無い、落ち着いた声色で呼びかける。学校で自己紹介をしていた時ぐらいにしか聞いたことのないよく通る声だ。
そして気付いた、僕は女の子にそんな役をさせてしまった事に。男を魅せる場面を、逃してしまった失態に。
しかしそれは些細なことだと言わんばかりに、心の中でしどろもどろになっている男をよそに白刃さんは僕の分の注文も全て言い終える。
「以上で、お願いします」
「かしこまりました。お待ちくださいね」
注文をメモに書き終え、すたすたと厨房の方へと向かって行った店員さんを見送りながら、何とかこれだけは言う。
「ありがとう、白刃さん……」
「いえいえ、あきと君は十分働いてくれたのですからゆっくりして下さい」
「そんなことないです……僕は花の名前をちょっと知り過ぎているだけで大したことしてないです……」
「あらあら、卑下する事ないのですよ? それに救われた人が目の前に居るんですからね。貴方にそんな事言う人は私が許しません」
「僕自身であってもでしょうか……?」
「はい、許しません」
「結構、自分にお厳しい方ですね……?」
「厳しくもしますが、甘やかすこともあるといったところでしょうか」
「蜜とトゲどっちも持っている花みたいな人だなぁ……」
「お花みたいに綺麗という遠回しの褒め言葉ですか、あきと君はたらしさんですね」
「まぁ……ピンク色のアマリリスが似合う人だとは思うし……」
「ん? なぜですか?」
やべ。
「いえ、何でもないです!」
気が抜けていた。毒を抜かれた。棘を抜かれた。
どれであっても特に変わりはない。普段抑えている諸々の考えが、一つの例えになり一瞬浮き上がってしまった。
その油断を見逃さず、彼女は携帯を取り出した。
「ピンク色、アマリリス。検索しましょう」
「やめて」
「あら綺麗ですね、アマリリスは色もたくさんあるのですね」
「白刃さん」
「猛毒持ちのお花。なるほどそういう風に見られているのでしょうか」
「美銀さん」
「花言葉、『おしゃべり』以外もあるのですね。何々、ピンク色のアマリリスの花言葉は……」
「美銀ちゃん!」
静止は利かず、忠告も聞かず。彼女に見られてしまった、知られてしまった。
「――splendid beauty。『輝くばかりの美しさ』ですか」
ああ、ああ。
合ってるよ、正解だよ、終わったよ。
一刻の隙が命取りだなんて現象が人生ではあるんだということを、僕は知ってしまったよ。
「死にたい」
「それはちょっと許せませんね、私でも怒りますよ」
「僕の死を糧にして」
「私に月が綺麗ですねと言わせたいのですか?」
「死んでも良いです」
「良くないです。英訳だからって何でも飛び跳ねてはいけません、《《輝くばかりの美しさ》》という日本語訳を見習いましょう」
「分かりやすさ重視ですか! さすが毒持ちは厳しいですね!」
「蜜もありますから気負いしないで下さい」
「死んじゃうから! その蜜飲んだら毒入ってるから死ぬって!」
アマリリス。
花言葉は「おしゃべり」「内気」「誇り」「強い虚栄心」などなど。
発見された時代から進むにつれ、アマリリスだと知られていた花が種類の多さや調べの甘さで実はアマリリスでは無かったことが発覚し、今度本当のアマリリスを「ベラドンナリリー」と名付けると、今度は「ベラドンナ」という別の花と名前が混ざってしまい、さらにややこしいことになった歴史を持つお花。
ただし花言葉だけに目を向けるのであれば、総じて今日はアマリリスという日であることは間違いない。
おしゃべりしまくり、内気な心を絆され、誇りを売っぱらって、虚栄心も敵わず、美しいと思っていることを悟られる。
ああ、看板と店名にあるアマリリスは僕をその美しさでどこへ連れていくつもりだったんだい。いや違うな、手を出してしまったから僕は猛毒にかかってしまったんだろう、死ぬのがさだめって暗に示していたんだね。
「あきと君」
ツッコみあい、ジョークの重ね合いをしていると不意に彼女はその波を緩め、僕の名前を呼んでこちらと目を合わせ、深く覗き込んだ。そして笑って、言った。
「嬉しかったですよ、アマリリスが似合うって言ってくれて」
彼女の顔は今、ピンク色のアマリリスのように淡く頬が染まっているように見えた。ただの錯覚にしては、意味深でまぶしく感じる美しさと笑顔に何も言い返せず、口籠ってしまう。
ただただ、早く紅茶が来てくれないかと心の中で願ってしまうのだった。