幸せでした、さようなら
千鶴は半年前に死んだ。
ガンだった。
僕は自分の部屋の椅子に座り、窓から見える青空と、眼下に広がる町並みを眺めていた。
この空のどこかに君はいるのかな・・・・・。
ねぇ千鶴?
君がいなくなったこの世界でも、僕はしっかりと生きているよ。ご飯は自炊しているし、ちゃんとバランス良く食べてる。洗濯もきちんとやってる。心配しなくても大丈夫だよ。
視線を机の上に移した。そこに他の写真と一緒に置いてある写真立てを見た。その写真の中の千鶴は、僕と肩を並べて微笑んでいる。それは僕と千鶴でとった最後の写真だった。
「――――――」
そのとき、玄関の方から声が聞こえてきた。どうやら七海が僕のことを呼んでいるようだ。今日来ると言っていたはずだ。
僕は再び青空へ顔を向けた。
千鶴。僕は新しい生活を始める。
君は僕を選んで幸せだったか?
僕は幸せだったよ。君と過ごした日々は、とても幸せだった。
そう。
僕の記憶に残っている思い出。
君と初めて会話した日も、こんな雲一つない青空だったね。
*
君との出会いは本当に偶然だった。そしてそこに、ほんの少しの勇気を加えただけで僕たちの世界は広がっていったんだ。
中学生時代の僕は、本に夢中だった。
放課後図書館に行き、面白そうな小説を見つけては借りて読んでいた。
高校受験を無事に終え、高校に入学してからもそれは同じだった。中学校よりも大きくて広い図書室を見て、心躍った覚えがある。
そんな日のことだった。
放課後いつものように本を返しに行った僕は、カウンターの前まで来てドキッとした。肩まで伸ばした黒髪と、くりっとした瞳が印象的な女の子がいた。
それが千鶴だった。
その日は小説の文字なんか頭に入らず、しかもなかなか寝付けなかった。
君は図書委員だったらしく、その一週間は僕が行く度にいたね。
あるとき自転車置き場で偶然君と出会ってしまった。
僕はすぐに目を反らそうと思ったけれど、君は笑顔で話しかけてきてくれた。
彼女も本が好きだと言った。
それからはよく話すようになったね。
ねぇ千鶴。
君と話すのは楽しくて。君の笑顔がかわいくて。
僕はもっと君と一緒にいたかったんだ。
だから生まれて初めて勇気を振り絞った。ものすごく緊張した。
君も真剣な顔をして
「私も好きです」
って言ってくれた。
あの日々はとても楽しかった。君とどんな会話をしたかなんてほとんど覚えていないけど、あのときはただただ楽しかったんだ。
高校三年生になり、そろそろ自分たちの進路を決めなくてはいけない時期になったとき、千鶴は僕に自分の夢を話してきた。
「私、図書館司書になりたい」
その言葉を聞いたとき、驚いた、という気持ちは微塵もなく、やっぱり、という気持ちが僕の心に浮かんでいた。
「図書館が好きなの」という千鶴の想いは十分に理解できた。自分もよく図書館に通っていた者として、あの空気、あの空間はとても心地よい場所だった。僕もここで将来仕事ができたら幸せだなと思ったことがあった。
「だから資格の取れる短期大学に行こうと思ってる。真人君は、どうするか決めてる?」
「俺は文系の学部がある大学に行くよ。がんばって地元の国公立目指そうと思ってる」
「そうなんだ、じゃあ卒業してからも会えるね」
そう言って君は微笑んだ。
大学を目指すとは言ったものの、僕の場合は千鶴と違ってはっきりとした将来の夢があるわけではなかった。理系より文系で、卒業後すぐに働くというのは考えておらず、ただ漠然と四年間で何か見つかるだろうという、どこか楽観的な気持ちからのものだった。
そう思うと少し焦りは感じたが、いつでも会えることを純粋に喜んでくれている千鶴の笑顔を見ただけで、心が落ち着いた。
僕たちはそれぞれの大学に合格し、別々の道を歩き始めた。二人とも新しい環境で生活し、新しい友達を作り、お互いの知らない世界を広げていった。
君が遠くへ行ってしまったようで、寂しかったな。
それでも夜には電話を掛け合い、週末には二人で過ごした。
月日が経ち、千鶴は自分の夢をかなえたよね。君は念願の司書になり、県内の図書館で働き始めた。
僕もその二年後出版社に就職し、新たなスタートを迎えた。それを機に、一人暮らしを始めた。
そして。
忘れもしない。今でも鮮明に覚えている。
僕の社会人一年目の時だった。一人暮らしを始めてからは、千鶴から僕のほうに電話をくれることが多くなっていた。しかし数日経っても電話はなく、僕のほうから電話を掛けると千鶴の母親が出た。
電話越しに、いつもと違う雰囲気を感じた。
「千鶴ね・・・・・・今入院しているの」
千鶴の母親はそう言った。
僕が病院を訪ねると、千鶴はベッドの上で体を起こし、本を読んでいたようだった。
僕を見て弱々しく微笑む。
「真人君・・・・」
なんだか急に衰弱してしまったように見えた。
「どうしたんだよ、千鶴」
「真人君・・・・・ごめんね」
どうして千鶴が謝るのか分からなかった。一日だけの入院なら、驚かせるなよって笑ってやるし、盲腸だったら手術して回復するまでお見舞いに来る。それが当然だし、むしろ僕がそうしたかった。
その程度のことを考えていた僕は、千鶴の口から発せられた言葉に頭を強く打たれたような衝撃を受けた。
「ごめんね・・・、私、ガンなの」
「・・っ・・・・・」
何も言えなかった。
千鶴の顔が歪む。おぼれ落ちた涙が一筋頬を伝った。
何も、言ってやれなかった。
手術の日、僕は千鶴の両親と共に終わるのを待たせてもらった。
何時間経ったかなんて分からない。
しかしとても長かった気がする。
突然手術中のランプが消え、扉が開く。
手術着に身を包んだ先生が現れる。
僕はゆっくりと視線を先生の顔へと移す。その表情からは、成功なのかどうかは判断がつかなかった。
そして彼は僕たちに語りかける。
「手術は――――――」
*
千鶴。
あの時君が助かったことが何よりもうれしくて。
病院のベッドの上、目を覚ましたとき僕は泣きじゃくったね。
千鶴、僕と過ごした時間は幸せだった?
君の選んだ人生は間違ってなかった?
僕は幸せでしたよ。
君と過ごした四十年は、とても幸せでしたよ。
僕を選んでくれたこと、同じ日々を生きてくれたこと本当に感謝している。
あの後、君との結婚はなかなか大変だったね。君のお父さんに認めてもらうのは難しかったよ。それでもお願いに通い続け、認めてもらったときは涙が出そうになったよ。それから子どもを二人儲けたね。今は二人とも立派な社会人だ。優しくて強い子に育ってくれた。
孫が生まれたときは息子たちと同じぐらい喜んだよね。
そして君は、再びガンに侵された。
どうして神様は千鶴の命を二度も奪おうとするのか。
僕は悲しみと怒りに震えたよ。
でも君は、そうじゃないって言ったよね。
神様は私の命を延ばしてくれたんだって。
あなたとの暮らしと、子ども達の笑顔をプレゼントしてくれたんだって。
だからもう、十分なくらいなんだよって・・・。
そして千鶴は息を引き取った。
僕は思い出す。
千鶴の笑った顔、泣いた顔、困った顔、怒った顔、髪を撫でる仕草、僕を呼ぶ声、そのすべてが愛おしかったっ・・・。
そのとき、襖の開く音がした。咄嗟に顔を上げる。
千鶴!?・・・・・・・・・いや。
そこにいたのは七海だった。
「あ、おじいちゃん?ここにいたの?ずっと呼んでたんだよ」
「ああ七海、ごめんな」
「も〜う、私たち今日引っ越してくるんだからね。それじゃあ私、お母さんたち手伝ってくるね!」
そう言って七海は飛び出していった。
少し見ない間に、また大きくなったなと思った。
そう。今日から長男達が引っ越してきて、家族四人の生活が始まる。
僕は心の中で呟いた。
千鶴、僕は孫の成長を見守っていくよ。
そしていつかまた会おう。それまでは、さようなら。
写真の中には幾つになっても変わらない笑顔があった。
読んでくださったみなさんに感謝です!




