『旅立ち』2
舞台上をセリエさんが板に乗せられて運ばれ、中央に置き去りにされた。
アスカレアが生け贄として捧げられ、それをエノールが止めるシーンである。
しばらくすると、舞台袖から獅子舞のような化け物が現れてセリエさんに近づいていく。中には獅子舞と同じく二人の人が入っている。口を大きく開けて牙をカチカチと噛み合わせながら近づいてくる様は、実によく魔物を表していた。
その光景を、俺は客席の後ろにある二階から見下ろしていた。ここは関係者しか入れない場所であり、エノール役である俺は、ここから登場することになっている。
「良い? ここはアスカレアを助ける王子さまを演じるのよ?」
傍にいるソカが、小声でいった。
「おっ、王子さま? 俺がか?」
「えぇ、そうよ」
「俺は王子さまなんて柄じゃないだろ」
「大丈夫。……あの時、本当にそう思ったから」
「あの時?」
「なんでもない! ほら、そろそろ行って」
「待て待て! そこのロープで吊るされて行くんじゃないのか?」
俺は近くに垂れ下がっているロープを指差す。ロープの先は背中で固定する用の器具が付いていて、上は滑車が取り付けられており、それは舞台の上まで続いている。速度を調節できるよう、別のロープもついていた。
「あんなのテプトに必要なの? 無い方が動きやすいでしょ?」
「……いや、必要というか、そういう仕組みになってるんだろ?」
すると、ソカは浅く息を吐いた。
「よく聞いてテプト。あなたは、規定とかルールとか、常識だとか、そんなものに囚われ過ぎてる。前のあなたは、もっと重要なことに目を向けてた。台詞だってそう。重要なのは台詞じゃないの。台詞は、演劇を魅せるための一つでしかないのよ」
「だが、規定やルールは大切だ。それがなくて秩序は保てない。それを犯せば行き着く先は混乱だけだ」
「でも、あなたはその規定やルールを変えてきたじゃない! それはなんで? あなたの思い描く秩序をつくるためじゃないの?」
……俺の思い描く秩序。
「あなたは、今の在り方が間違ってるから変えようとしているんでしょ? 私はそれに納得できた。だから、協力もしてきたの。なのに、今頃になってあなたはそれを守ろうとしてる。それはなんで?」
「……それは」
「まぁ、今は関係の無い話ね。もう出番よ、行って。大丈夫、あなたはこんな細工なんか無くても、結果を出せる人よ。自分を信じて。私は信じてる」
「……ソカ」
その瞳は、真っ直ぐ俺に向けられていた。確かに、俺なら風の魔法で舞台に行くことが出来る。お客さん的にも、そちらの方が圧巻だろう。
「わかった。やってみよう」
問われた答えは、後で考えることにした。今は演劇を成功させる事だけに集中する。
「そういえば、ソカが仕切ってるが良いのか?」
「ランドールさんから、私とテプトの役に関しては好きにして良いって許可をもらってるわ」
(……おいおい、案外適当だな)
俺は呆れながらも、体勢を整える。やがて、魔物がセリエさんを食べようと口を大きく開けたところで立ち上がり叫んだ。
「待て!」
スポットライトが当たる。眩しさで舞台上しか見えない。魔法で風を体にまとわりつかせると、衣装がフワリと持ち上がった。
(行ける)
そのまま軽やかに、俺は、ダイブした。
その姿を、後ろからソカは見ていた。そして、『あの時』の事を思い出していた。
ーーーあの時。それはレイカと闘技場で争った時である。
為す術がなく、やられるしかないと思った瞬間、テプトは現れた。
それは、ただの偶然だったのかもしれない。運命や奇跡と呼ぶには少し弱いものなのかもしれない。しかし、彼女にとってそれは内なる何かを動かす程に大きなことであった。
テプトはどよめきの中、舞台に舞い降りて魔物と戦闘アクションを始める。練習こそしていないものの、その動きは洗練されたものであり、客席からは感嘆の息が漏れている。
心臓が早く脈打っていた。
同時に、締め付けられるような息苦しさを感じる。
その原因を彼女は既に知っている。それを取り除く方法が、彼女自身にはないことも……既に。
それは、舞台上にいるセリエにとっても同じことだった。
客席の後ろ、二階からテプトが跳んだ時は、思わず声を上げてしまった。だが、脳裏に浮かんだ最悪な結末とは裏腹に、彼は優雅に舞台に降り立った。演技だと分かっていても目が離せなかった。
なぜ、彼はこうもあっさりとやり遂げてしまうのだろう。
自然と浮かぶ疑問。しかし、彼はそんなことなど気にする様子もなく、次なる演技に取りかかっていく。
その姿を夢中で見ていた。本当に、エノールに助けられたアスカレアのように。
舞台袖から演出である煙が立ち込め始める。テプトと魔物が動く度に煙は乱れ、彼らの動きを浮き彫りにした。スポットライトの光が赤や青に色付けされて、煙にも同じ色が反映される。その有り様を、観客は我を忘れて見ていた。
やがて、煙が霧散すると魔物は逃げてテプトとセリエだけが取り残される。
二人は手を取り合って笑いあった。
「なんということを!!」
そこに、一人の老人が舞台袖から歩いてきた。
「まさか、魔物を倒してしまうとは! これでは大地の怒りは増すばかり。人の生ける場所はなくなってしまうぞ!」
テプトはセリエを庇うように立ち、老人に向き直る。
「長よ! あなたは間違っている! こんな習慣など無意味だ! 人は何かを犠牲にせずとも生きていける。犠牲の上で成り立つ生活など、人がすべき生活じゃない!」
「エノール。間違っておるのはお前じゃ! わしらは代々こうして暮らしを守ってきた。それは、紛れもない事実。積み上げられてきた歴史。それを、ちっぽけな感情一つで泡にしてしまうとは……わしらはもう終わりじゃ」
「終わりじゃない! これは新たなる始まりでしかない。魔物は倒せる。俺はそれを証明した! 俺は今後も人々のために戦い続ける。そのための力を手にした」
「それは悪しき力。本来、人が手にしてはならぬ物。お前は我らに破滅を呼ぶ者となった。さぁ、この地より出ていくが良い!」
「そんな! 長よ! お聞き届け下さい」
「ならぬ!」
舞台上では、テプトと老人のやり取りが続いている。ソカは、それを見ながら微笑んだ。
「何だかんだ言ってたわりには、堂に入ってるじゃない」
そして自分の出番が近いこともあり、その場から離れた。