六十話 ギルド職員として
闘技場についた時、まず目にしたのは凍った門だった。そして、それに集まる見物人たち。まだ朝早いこともあって、大きな騒ぎにはなっていなかった。よく見ると、その中には普通の姿をした冒険者の姿もある。
「テプト部長」
急に呼ばれて振り返ると、そこには冒険者ギルドの職員が何名か立っていた。ミーネさんが先に送りだした人たちだろう。部長と呼ばれるのはなんだかむず痒い。
「お疲れさまです。これは一体?」
「私たちにもサッパリ……ただ、中から聞こえてくる音からすると、戦闘が行われてるのは間違いなさそうです。一応、町の人たちには戦闘訓練をしていると伝えています」
「わかりました。では、事情は本人たちから聞きましょう」
「……どうやって?」
それから俺は、見物人たちに近寄ると一人の男の肩に手を置いた。
「どういうことか、聞かせてもらえますか?」
それは、なんの装備もしていない冒険者である。町の人に扮してはいるが、普段冒険者管理部をしている俺の目は誤魔化せない。他にも何人か見受けられ、そいつらに視線をやれば、目線が合い気まずそうにうつむいた。
彼を離れた場所に連れていき、事情を聞く。彼は観念したのか、ポツリポツリと話し出した。そこで俺は『ギルド派』と『レイカ派』の事を聞いた。
「テプト部長……じゃあこの中では本当に戦いが」
一緒に聞いていた職員が不安そうな表情をする。
「これは……急がないといけないですね」
もしかしたら、怪我人だけでは済まなくなるかもしれない。
(ヒルは何をしてたんだ?)
彼がレイカについてる限り、過激な真似はしないと思っていた。だが、それは過信だったようだ。ともかく、一刻も早く戦いを止めさせなければならない。
「ここは頼みます。安全のため氷はこのままにしますが、戦いが収まったら、内側から開門します」
そう、他の職員に告げた。
「それは良いですが……どうやって中に入る気ですか?」
「魔法ですよ」
笑って返し、俺は風の魔法で跳躍をする。闘技場の壁の凹凸を足場にして、高い壁を駆け上がるとなんなく中の客席に着地した。
「……なんだよ。これ」
そこには、闘技場の地面に横たわる冒険者たちの姿が視界に入った。そして、その中央では、レイカが誰かと対峙している。その赤い髪には見覚えがあり、近くで倒れている冒険者にも同じく見覚えがあった。
ふと、見ればレイカから離れた場所にヒルがいた。そこに彼がいるという事実に、頭が混乱しかける。
ヒルは戦いを止めなかったのか?
レイカはなぜこんな強行に?
ソカがなんで戦いに参加している?
カウルも……なんでだ?
『ギルド派』と『レイカ派』の経緯は先程、冒険者から聞いた。だが、争いで解決するという理屈がいまいち理解できなかった。
そこまでの事なのか? どうして血を流す必要がある?
様々な疑問が頭を駆け巡ったが、最後に残った感情は『怒り』と『後悔』と『無力感』だった。
こんなことになってしまったのは、ギルド側が不甲斐ないせいなのかもしれない。結局、争いで決着をつけるのが冒険者には一番良い方法なのかもしれない。だが、俺は冒険者を力で屈服させることを禁じ手としてきた。だから、できる限りの話し合いを以て解決を模索してきたのだ。そこには、納得出来ないことも不満もあっただろう。それでも、多くの人たちが納得出来るように努力はしてきたのだ。
それなのに……この光景はなんだ?
今までやって来たことを否定されるかのような争いに、思わず唇を噛み締める。自分の目指した事は間違っていると宣告されているような気がした。
最初からレイカを、戦いで納得させていれば、こんなことにはならなかったのか? 俺がやらなかったから、俺を信じてくれた冒険者たちが立ち上がったのか?
ということは、全部俺のせいなのか?
無力な自分に怒りが沸いた。同時に、勝手に争いを始めた彼らにも怒りが沸いた。そして、レイカが目の前にいるソカに対して魔力を練りあげる姿を見たとき、その魔力量がソカを殺しかねないものだと理解したとき、怒りの奔流が一気に溢れだした。
自分が出せる最速で二人に向かい、空間魔法で業火を取り出す。そして、今まさにソカに触れようとしているレイカに向かって、躊躇なくそれを降り下ろした。
ーーーー。
そして、今はレイカと対峙している。ソカもカウルもボロボロだった。すぐにでも回復魔法をかけてやりたかったが、俺にはやらなければいけないことがある。
「ソカ、もう少し我慢してくれ」
そう言って、ギルド職員の制服を彼女に羽織らせる。カウルにも同じように言うと、「あぁ」とだけ返してくれた。
「レイカ。待たせたな」
「……別に」
「あと、ヒル。お前は後でお仕置きだ」
それからヒルに視線をやる。だが、彼は臆した様子はなく、いつものように笑みを浮かべていた。
「相手はAランク冒険者ですよ? 勝つつもりなんですか?」
「あぁ、そうだが?」
「強きですねぇ」
改めてレイカと対峙した。彼女はAランク。そして属性『氷』の使い手でもある。
「……前に冒険者ギルドで見せたのは、ほんの一部。あれを私だと思っていたら、痛い目をみる」
確かに、俺は冒険者をしていた頃Cランク止まりだった。Bランクの試験はパーティーに入れてもらえないと知ってから受けていない。そして、もっといえば俺はAランクの者と戦ったことがない。だから、レイカとの戦いは未知数だ。勝つための戦略なんかも何もない。
ただ、俺はそれ以上の魔物と戦ったことがあり、その全てにおいて勝利を収めてきた。というとは、俺の方が強いという結論に至る。それでも、魔物と人との戦いは違う。どんなに魔物を倒せても、人との戦闘で負けない根拠にはならない。
「一つ俺からも言っておく。冒険者ギルドで見せたのは実力の一部にすぎない。だから、全力でやって問題ない」
「……呆れた」
だが、最近冒険者を見ていて気づいたことがある。転生した際に、俺が神から貰った能力についてだ。今まで、世界の事にばかり目を向けてきたため、それを『実証』することを疎かにしていた。
「なんだって良いさ。俺はお前を止めなければならない。冒険者は力こそ正義だと意地でも言い張るなら、それを以て、お前の目を覚まさせなければならない」
「……出来るつもり?」
「やらなければならない事に、つもりも何もない。これは俺の役目だ」
「……あとで泣いても知らない」
「分かってるさ」
もしも、神から貰った能力が本当に『なんでも出来る』なら……その能力に制限がないなら……俺はこの世界で唯一無二の万能ということになる。そんなことは馬鹿らしいと頭では思うものの、果たしてそれを否定する事が今までにあっただろうか? 否定してきたのは俺自身じゃなかっただろうか? だが、そう考えるのは自然だろう。なぜなら、そんな能力を持たせる神がどこにいる? 適当すぎんだろ。
「……ムカつく」
「奇遇だな。俺も心底頭にきてる。この事態に今まで気づかなかった自分自身にも」
「……そう。なら、自分の愚かさを呪って」
本当に神がくれた能力で、なんだって出来るなら。
「あぁ。そうだな」
「……余裕ね」
「そう見えるか?」
それが。可能なら。
「……なぜ?」
その言葉に俺は答える。
「俺は誰にも負けないからだ」
恐らく、最強にだってなれるだろう。
「……『氷弾連射』」
「それは効かない。ーー燃やせ」
迫り来る氷の針にエンバーザを振り抜く。炎の斬影が、いとも容易く氷を飲み込んだ。俺はレイカに向かって、歩きだした。
「ーーっつ! 『氷弾大砲』」
レイカの後ろに巨大な氷の塊が盛り上がり、円形の筒状を形作った。直後、その筒から俺に向かって氷の塊が射出される。
「『大地の王』」
俺は呟いてから右手を地面に着いて魔力を流す。すると地面から氷の三倍はあろうかという岩の右腕が盛り上がり、襲いかかる氷の塊を掴んで、粉々に砕いた。
「……その魔法」
レイカは目を見開いた。
「知ってるのか」
「……土魔法の最上級」
「その通り」
そう答えると、レイカは少し笑った気がした。
「……本当に遠慮はいらないみたい」
「そう言ってるだろ」
すると、今度は彼女が地面に両手をついた。凍っている地面に。
「『氷の女王』」
次の瞬間、レイカによって凍った地面から、氷の両腕が形成される。その腕は俺が出した大地の王よりも細く、美しい。
「驚いたな……お前も使えたのか」
「……あなただけじゃない」
「そうか。ならーー『火の化身』」
「……なっ!?」
エンバーザを地面に刺して左手を地面につき、魔力を流す。今度は、岩の右腕とは反対から、炎の左腕が姿を現した。
「……そんな二属性同時なんて」
「驚くのは早いな」
俺は属性の違う巨大な両腕を操り、手のひら同士を張り合わせる。岩は炎に焼かれ、溶け出した液体が炎に流入していく。
「……うそ」
「灼熱の腕」
レイカの氷の両腕と対峙するのは、俺が作り出したマグマの両腕となった。腕から垂れるマグマが、侵食してくるレイカの氷と交わり、煙にも似た水蒸気を立ち上らせる。
バーニングアームをレイカに襲わせると、彼女はアイスルーラーで防ぐ。しかし、氷は見る間に溶けて、堪えきれなくなったレイカはその場から離れた。
「もう終わりか?」
「……なぜ二属性の最上級魔法を使える」
「極めたからな」
「……理由になってない」
レイカはそう言うと、腰の剣を抜きさった。どうやら、接近戦をするようだ。それは片刃の片手剣であり、刀身が少し曲がっていた。俺もエンバーザを地面から抜き取る。
「……『領域凍結』」
彼女は呟く。再びレイカを中心に凍結の円が浮かび上がった。俺は、その中に躊躇なく入り、加速してレイカに向けてエンバーザを一閃した。
金属音が響き、俺の攻撃をレイカは止める。その表情には驚きと焦りが見てとれた。
「……ありえない」
「なにがだ?」
「……こんなに早く……動けるはずない」
「忘れたのか? 俺は氷属性も使えるんだ」
エンバーザを返して、別の角度からレイカに斬りかかる。それを彼女は止め、また別の角度から斬りかかった。レイカは、俺の猛攻に防戦一方をするしかないのだろう。一歩、また一歩と下がり続ける。
「……いくつの……属性を」
「全部だ」
「……全部」
その目に絶望の色が宿る。その呟きと共に、レイカの背後は壁で塞がった。もう下がる事は出来ない。
「もう終わりか?」
彼女にエンバーザを突き付け、再度問いかける。
「……こんなの勝てない」
思っていたよりも呆気なく、レイカは負けを認めた。俺は、深いため息を吐いてからもう一度彼女に向き直る。
「なら、これで終わりだ」
レイカは、ぺたりと背中から地面にずり落ちた。負けた事がショックなのか、呆然としている。俺は、エンバーザをしまうとしゃがんだ。
「レイカ。お前のやりたいことは分かるし、同じ冒険者だった者として同情もしてやる。だが、自分勝手な理由で判断を下すな。ちゃんと物事を見据えて、正しい答えを見つけ出すんだ」
その言葉が、今の彼女に聞こえているかどうかは分からない。それでも俺は、彼女に告げる。
「『依頼義務化』は、誰かを貶めるために作った制度じゃない。それをレイカには理解して欲しい。そのために、話を聞いて欲しい。俺はただ、それだけなんだよ」
彼女はうっすらと俺を見て一言「わかった」とだけ言った。もう彼女からは戦闘意欲を全く感じない。だが、念のため魔法は使えないようにしておこう。
俺はレイカの腕にそっと触れ、『魔力吸収』を使用する。彼女は魔力切れを起こしてぱたりと倒れた。一応な? 一応。
それから、立ち上がってヒルに向かって歩き出す。彼はそれに気づくと頭を掻いてから軽快に喋り出した。
「いやぁ、テプトさん強いんですね。驚きました。まさか、本当にAランクぼっ!!」
瞬時に移動して、ヒルの頬を殴る。ヒルは勢いよく転がった。
「……痛っっ」
「……お前は何をしてた?」
俺は、レイカよりもヒルに腹がたっていた。
「何を……って、見てたらわかりませんか? 冒険者同士の争いに参加してたんですよ」
ヒルは、口元から流れる血を拭いながら答えた。
「なぜ止めなかった? こうなることぐらいお前なら分かってただろ」
「……そうですかね? 僕が止めたとしても、いずれはこうなっていた気がしますが……それに冒険者は、こうやって決着をつける方が性に合ってると思うんですよ」
「そうじゃないだろ」
「そうじゃない? では、テプトさんは冒険者たちを鎮める良い方法でも思いついていましたか?」
「そうじゃない! お前は……冒険者ギルドの職員だろう!」
思わず、叫んでいた。ヒルに歩み寄ると、胸ぐらを掴む。
「なぜこんな格好をしてる? 冒険者のつもりか? お前に魔物が倒せるのか?」
「倒せませんが」
「ギルド職員の制服はどうした? どうして着ていない? それとも、お前の中では辞めたつもりになってるのか?」
「違いますよ。僕は今回、テプトさんがどうするのか知りたかっただけです」
思わぬ言葉に、唖然とする。
「……俺?」
「はい。本部に報告することなんてすぐにでもできました。その前に、この状況をテプトさんが収められるなら、見てみたいと思ったんですよ」
「そんなことのためにここまで放置したのか?」
「はい」
平然とそう答えたヒルに、力が抜けて胸ぐらを掴む手が弛んだ。
「俺は……お前を信用してた。例え、ギルド職員以外の仕事を受けていたとしても、サボり癖があっても、最後には職員として動いてくれると思っていた。だから、今まで強く言ってこなかったんだ」
「それは……買いかぶりすぎですね」
「そうらしいな。ヒル……お前はこのタウーレンにきてから、何も感じなかったのか?」
「感じる……とは?」
「最初、『依頼義務化』が始まるまで、町の人たちの依頼をやってただろ。町の人たちは、悪い人たちだったか?」
「いえ、皆さん良い人たちでしたよ」
「そうだ。お前はよく仕事から逃げてたが、最後の方は見つけるのに手こずった。町の人たちが……お前に依頼を達成して貰った人たちが、お前を隠すからだ」
ヒルは一瞬驚いたように、瞳を揺らした。
「冒険者は……ただ魔物を倒すだけの人間か?」
「そんなことはーー」
「ないんだよ。冒険者だって同じ人間だ。皆何かのために生きているし、その生き方には思いがある。だから、今回みたいな事になったんだ。守るべきものがあるから、摩擦が起きて喧嘩にもなるんだよ。それは、お前だって同じはずだ」
ヒルの表情には笑みが消えていた。
「最後に聞くが、ここにいるギルド職員は本部に報告をしなければならないほど、罪深い人たちか?」
しばらくヒルは黙っていたが、やかて口を開く。
「……いえ。ただ、何か罪を犯したのなら、それに対する罰を受けなければならないと思いますが」
「ヒル……確かに、罪に対しては罰を受けなければいけない。そうじゃないと世の中は狂ってしまう。だが、何故狂ってしまうのか分かるか?」
「犯罪者が増えるからじゃないですか?」
「もっと根本的なことだよ。人は、自分の犯した罪の重さに気づけないからだ。いいか? 人は皆善人なんだ。だから善き生き方を目指す。だが、それが他人にとって悪になる場合もある。その時に、罪が起こるんだ。なのに、本人はその悪を理解していない。理解したつもりになっている。だから、罰を下さなければいけないんだ。だが、ここにいる人たちは、自分達の罪を理解できないような者ばかりか?」
「それは……分かりません」
「そうか。……俺は違うと思う。最初、このタウーレンに来た頃、俺は周りの奴等に呆れてた。自分が犯した罪に気づかず、のうのうと毎日を送っていて大丈夫なのか? と思った。だが、ここで過ごしていくうちにだんだんと皆の事を理解していったんだ。そこには、仕方ない事情があったり、どうしようもない願いが込められていた。馬鹿みたいな奴等だと思っていたら、本当に馬鹿みたいに純粋に生きてた。そして、ちゃんと話し合えば……何が正義で何が悪なのかを教えあえば、その時皆理解してくれた。それには当然俺も含まれてる。俺だって聖人じゃない。偉そうに言える立場じゃない。……人ってのは、他人から教えられなければ、犯してる罪に気づかないんだよ」
「それは……今の僕に言ってるんですか?」
ヒルがぽつりと言う。
「なんだ。分かってたのか」
「はい。僕は、自分の罪に気づいてますよ。気づいていて、敢えてやったんです」
「なら、ダメだな。全然足りてない」
「足りない?」
「あぁ。お前は自分の罪の重さを分かってない。だから教えてやる。まず、冒険者たち。彼らは魔物を倒してこのタウーレンに利益をもたらしている。もし、この戦いで冒険者が死ねば、あるはずだった利益はなくなり、その分は損失になるんだよ。この戦いを止めようとしなかったお前に、その損失分が払えるのか? 代わりに魔物を倒せるのか?」
「……いえ」
「それに冒険者にも家族がいる。冒険者稼業で家族を養ってる者も少なくない。その家族のことはどうする? お前が養うのか?」
「そんな人は最初から戦いに参加しませんよ」
「それはお前の勝手な決めつけだ。本当にそうだといえるのか? 調べたのか?」
「……調べてません」
「そして、町の人たちだ。この闘技場は町の中心にある。もしも、この戦いで、町の人たちに被害がいったら、どうするつもりだったんだ?」
「ここは闘技場ですよ? そんなーー」
「それも決めつけだろ。絶体安全なんてないんだよ。そして、最後に冒険者ギルドだ。この事が原因で、冒険者ギルドが信用を落とせば、間違いなく依頼はなくなるし、冒険者だって去っていくかもしれない。冒険者ギルドが潰れれば、職を失なった者は路頭に迷うし、それが原因で自殺をするかもしれない。もっと広い目で見れば、タウーレン自体の経済を狂わしてしまうかもしれない。お前は……その全てに責任を取れるのか?」
「テプトさんの言っていることは、全て仮定に過ぎません」
「あぁ、そうだ。だが、お前はそこまで考えた上で、こんなことをしたのか?」
「……いえ」
「だから足りないと言ってんだよ。全然考えが足りてない。ヒル、何かをするならあらゆる事を考慮しろ。あらゆる可能性を考えて、一番悪くない方法を取るんだ。それは、自分では結論づけることができない。だから、話し合いが必要なんだ」
ヒルは、唇を噛み締めていた。俺が殴ったからなのか、彼が強く噛み締めすぎているからなのか、再びその口元からは血が流れた。願わくば、彼がちゃんと考えられる人間であって欲しい。考えることさえできれば、今回の事の大きさに気づけるはずだ。それが出来ないなら、彼の言う通り罰を与えるしかない。
彼は、何も言わずただ、立ち尽くしていた。そんな部下に対して、俺は何をするべきなのだろうか? 伝えたいことは伝えた。殴ったのは頭を冷やして欲しかったからだ。あとは……何ができるのだろうか?
いや、もう何も出来ないのだ。あとは、彼自身が答えを導きだすしかない。
「……お前の処分については保留にする。他のギルド職員に見られないよう影に隠れておけ」
それが、俺がヒルにしてやれる最後の事。彼は腐っても俺の部下という位置にいる。上司である俺がしてやれるのは、これがギリギリのライン。
それから、ヒルに忠告をする。
「もしもこのまま逃げたら、俺はどこまでもお前を追いかけるからな? 地の果てまででも追いかけてやる」
ヒルは静かに「わかりました」そう言って、闘技場の中に消えていった。その背中からは、いつもの彼の雰囲気を感じなかった。
俺は、深くため息を吐いてから今度は辺りを見回す。
(……怪我人を見なきゃな)
ちょうどその時に、闘技場の門が開く音が聞こえ、闘技場内にバリザスや、ミーネさんなど、ギルド職員たちが駆け込んでくるのが見えた。
区切り