わだいがない 24
白木君の場合
世の中に劣等感というものを抱いていない人間は赤ん坊だけだ、と僕の父親は言った。その時、父親の言った言葉の意味はすぐにはわからなかった。ただ、小学校、中学校、と成長していって徐々にその言葉の意味は理解したが、本当に劣等感を持っていない人間などいないのだろうかという疑問は社会人になっても続いている。
「おはようございます。」
朝から自分の耳には、特別に聞こえる彼女の声にちょっとだけ目を向けるが、その笑顔は他の社員の男性に向けられていて、自分は無意識に眉をひそめている。
最近、同僚に指摘されて自分の眉が勝手に動いているらしいことを知った。慌てて、おでこをなでる。睨むような表情は作ってはならない。彼女は、僕の下を通って、さっさと自分の席へと歩いていく。僕はこっそりため息をつく。
僕には障害がある。もちろん外からはわからないし、話していても気が付く人は障害とは気が付かずに、落ち着きのない、融通の利かない奴、としか思わないだろう。いや、実際に何度もそう思われている。きっと彼女にもそう思われている。
僕がこれは障害の一種なんだ、と打ち明けていないのだから知られていなくて当然だ。だが、打ち明けて避けられたり、気を使われたり、嫌われたりするくらいなら、今のままでいいと思い込んでいる。
そりゃあ、打ち明けて、理解してもらって、そのうえで好きになってもらえたら当然嬉しい。だが、実際にそんなことは夢物語だということを僕はこの成長過程で知った。お前は人とは違う。それも悪い意味で。
ふと彼女を見つめると隣の友人と目をキラキラさせて話している。そんな姿が可愛くて、私語厳禁と強く言えない自分がいる。
彼女は派遣さんだ。最初は多くの人のなかに紛れ込んでいて気が付かなかったが、ちょこちょこ質問を受けているうちにえらく真っ直ぐに自分を見つめる子だな、と気になった。だが、彼女は誰に対してもそうらしい。僕は正直な所、それに気が付いてほっとした。僕のおかしなところに気が付いたのかと思うと、怖くてしょうがない。
僕は、人に避けられて育ってきた。その過程で表情を隠すのもうまくなったし、背も人よりも大きくなって、体格だってけっして細くない。そのままの僕なら、嫌われることは少ないに違いない。だが、僕は人とは違う。そんなことは言い訳だと友人はいうのだが、友人は健常者だ。僕とは違う。それでも僕は自分の中で折り合いをつけながら生きてきた。誰かを好きになる時だけは本当につらいけれど、それ以外の時はなんとか乗り切っている。僕はこの体で生きていくしかないのだ。治らないのだから、諦めるしかない。それでもいいと言ってくれる誰かを求めながら。
「白井さん。」
「はい?」
名前を呼ばれてひょいと横を向くと彼女が立っている。書類を見ながら聞いてくる。
「ここって、どうなりますか?」
「これ?これは、こことここにレ点を入れてください。」
冷たくなりすぎないように、声のトーンに集中する。
「あ。わかりました。」
彼女がにっこり笑って自分を見つめた。可愛いぞ。そう思いながら、無表情を心がける。彼女が去った後、同僚の方を見つめると、彼はパソコン作業で忙しい。朝から無意識にたまに眉が上がっていることに気が付いたのは彼だ。
「お前、たまに朝からどれだけ機嫌が悪いのかってくらい、人を睨んでいるぞ。」
「え、そう?」
「うん、昨日も今日も朝、しかめっ面してるぞ。」
「えー、なんでだろう。」
「知らんよ。」
同僚は笑った。後から、考えて、考えて、ようやく彼女のせいかと納得した。気を付けなければ。ため息をつく。僕も、自分の仕事を進める。たまにこっそり彼女を見つめているけれど、そして目が合うとウキウキするくらい心が弾むけれど、顔には出さない技術を得ているのだから、淡々と仕事をするだけだ。同僚にこの思いがばれないように。もちろん、彼女が気が付くはずもないが。
「白井君。これ、まだ?」
隣を向くと、同僚が立っている。
「あ、今できます。」
「はーい、じゃあ待ちます。」
ゆっくりな口調の同僚は面白い奴だ。僕よりも背が低いし、細いし、もやしみたいに白いけれど、彼は健康だ。僕が彼みたいなら、彼女にデート……は無理でも、なんでもない会話はできるような気がしている。年齢とか、趣味とか、住んでいる駅名とか、家族構成とか、仕事以外のことでも聞ける気がする。まぁ、気を付けないとセクハラになるかもしれないけれど。
今の僕は、仕事で何か教える時だけしか、話しかけられない。質問に答えてくれないかもしれない思いも怖いし、どうしても話したいわだいもないけれど、根本的な問題は自分に自信はない。そんなもの、どこから来るというのか。
劣等感を持っていない人はいない。父親の声が聞こえる。それでも、障害がなければと思わずにはいられない。
上司には話してあるが、同僚にも障害のことは話していない。上司でさえも、実は話したのは、結構時間が過ぎてからだ。僕があまりにいろいろできないせいか、怒鳴られたときにクビ覚悟で話したのだ。
さすがの上司もまさか、部下の出来が悪いのが障害のせいかとは思いもつかなかったようで、目が点になっていた。しかし、その後、ネットなどで調べてくれたようで怒鳴られることはない。たまにイライラさせていることは、声のトーンで分かるが、原因が分かった以上怒鳴っても無駄だということは理解してくれたようだ。
「白石!」
「はい。」
その上司に呼ばれる。僕は慌てて、彼女の後ろを走って上司のもとに走る。
「この書類、二枚モノなんだが、一枚がどこかに紛れ込んだ。探してくれ。」
「わかりました。」
「よろしくー。」
呼ぶとき以外は、穏やかな声に上司。ふと、思う。この上司はどうして独身なんだろう、と。確かに厳しい人ではあるけれど、口調は優しいし、たまに怒鳴るけれど、それはこちらがミスをしたからだ。私服はいまいちだけど、僕だって人のことは言えない。スーツ姿はかっこいいし、顔だちだってハンサムな部類に入るだろう。
そういえば。とまた思う。同僚はなぜ離婚したのだろう。彼は、おもしろいし、やさしいし、仕事だって僕よりもできる。奥さんはなにが気に入らなかったのだろう。段ボールの箱をガサガサあけながら、書類を探す。
「白木さん、聞いてもいいですか?」
声の方を向くと、彼女が立っている。
「はい、どうぞ。」
「これと、これは?」
「あ。これらは僕の机に置いておいてください。」
「はい、わかりました。」
にっこり笑って、彼女は去っていく。僕は段ボールに視線を移しながら、彼女が独り身なのかどうかも知らない、と思った。指輪はしていないけれど。
話をしないとわからないことばかりで、だけど、話をすると自分が他人と違うことがばれるのではないだろうか、そのことで避けられるんじゃないだろうか、嫌われるんじゃないだろうかと怖い。僕は人とは違う。健康でも独身の上司。健康でも離婚した同僚。健康だからといって、幸せな人生ばかりではないと最近になって思うようにはなった。
だからといって、自分にも幸せが来るか、と問われるとやっぱり自信がない。諦めと、希望を繰り返しているうちに、なんだか心がしぼんできて、最初から誰も好きにならなきゃいいのに、とさえ思えてくる。それでも。
今日の作業の終わりのチャイムが鳴り響く。仕事が終わって嬉しい反面、一日が終わって寂しい気持ちもある。
「お疲れ様でした。」
「はい、お疲れ様でした。」
彼女とのやり取りは嬉しい。僕はこっそり微笑んでいたらしい。
「白井さん、なにかいいことあったんですか?」
他の派遣の人に声をかけられる。
「いえ、別に。」
慌てて、否定したが彼はニコニコしている。
「そうかい?ま。お先!」
彼は颯爽と去っていく。ヨメが怖いんだ、と愚痴りながらも彼は幸せそうだ。僕に言わせるとものすごいファッションの彼だが、おそらく自分に自信があるのだろう。毎日、派手な格好だが、誰の視線も気にすることなくサクサク歩いている。なんとなく、うらやましい。
劣等感を持っていない人はいない。本当にそうだろうか?彼の後姿には自信しか見えないのだが、それは人に見えないものだし。見せないようにしないと、この世の中では心が負けてしまう。そんなことを頭の中では理解しながらも、やっぱりちょっとうらやましい。
「忘れ物!」
ドアが突然開くと彼女が風と共に入ってきた。
「どうしました?」
「カーデガンを。あ。あった!」
どうやら、服を置いていったらしい。
「じゃ、再度、お疲れさまでした!」
ものすごいスピードで彼女が去る。
「パワフルですね。」
「元気よねぇ。」
僕は他の人の声で振り返ると、ほかの社員もにまにま笑っている。彼女の爆風につい、笑ってしまったらしい。僕もつい笑ってしまった。上司も、同僚も笑っている。
彼女にも劣等感なんてあるのだろうか。きっとあるのだろう。見えないけれど。言わないだろうけれど。僕は人とは違う。だけど、誰もが人とは違う。劣等感を持っていない人はいない、という父親は正しいのかもしれない。持っていない人が羨ましい。それは否定せずに、生きていけそうだ。
僕は、明日こそ自分から彼女に挨拶できるようになるといいな、と思った。