Crocus 9
「――お嬢おおおぉぉぉっ!」
地を震わせるのではと思える慟哭……むしろ、咆哮。
ほとんど真正面の至近距離でそれを受けた高雄は思わず両手のひらで耳を塞ぐ。ちらりと隣を見れば、朝日も同じ行動をしていた。
同じポーズをとっているだけなのだが、彼女にかかると体格が小柄なせいか……身を守る小動物でも見ているかのような可愛らしさがあった。優しい気持ちになれるというか、なぜか心がほっこりとする。小さな子どもを見守っているような感覚に近いだろうか。
「ああっ! ああよかった! お嬢の身に何かあったら、あっしは奥様や旦那にどうやって詫びようかと……!」
朝日の無事を確認出来ただけで、とにかく感無量らしい。二人がその声量と迫力に圧倒され、若干引いているのにも気づかず……正勝は嗚咽しながら勢い良くまくし立てていく。
「……朝日。正勝さんって、いつもこんな感じなの?」
「私もここまで騒いでいるのは初めて見ましたが」
本人には聞こえないように小声での情報交換。
正勝がこの道で朝日の帰りを待っていたことはとっくに気付いていたのに、彼女と話をしているうちにすっかり忘れてしまっていたことを心の中で謝罪しつつ……高雄は朝日をここまで無事に送り届けられたこと、彼女の体調が回復してくれたことに心底安堵していた。
故意だろうが事故だろうが彼女に怪我の一つでも負わせていたら、彼自身の命が危なかったかもしれない。少なくとも五体満足では帰らせてもらえない気がする。
「もしお嬢がお帰りになられなかったら、あっしはこいつで腹をかっさばこうと思っとりました……!」
(短刀持っとるううぅぅっ!?)
正勝が懐から取り出した、キラリと光る小型の刃物……武将や侍が切腹の際に使用する、あれだ。実物をこうして目にするのは初めてだが、映画やドラマでなら彼も何度か目にしている。べつに刃先が自分に向けられているというわけでもないのだが、高雄は全身から血の気が引いていく感覚を覚えた……。
切れ味を確かめるまでもなく、それが本物であろうことは本能で感じ取った。一言で表すなら「ヤバイ」だろう。色んな意味で。
「正勝さん。――銃刀法違反で通報されます。しまってください」
「あ……へ、へい。申し訳ありません」
どうしてそこまで淡々としていて冷静なんだと、朝日に対して頭の中でツッコミを入れつつ、高雄は悪夢から目覚めた時のようにホッと胸をなでおろした。同時に、そういえば彼女の方が自分より年下なんだよなと思い出し、ひょっとして自分が水準以上に情けないだけかと思ってしまいそうだったが……。よくよく考えてみれば目の前で懐から短刀を出されて驚いたり恐怖しない人間の方が珍しいよなと思い直す。
……だとすると朝日はなんだという話にもなりそうだが――高雄は「まぁ、環境の違いだろう」と半ば強引に自身を納得させた。あまり深く考えない方がいいだろうと思ったから。
「ところで……高雄さんがお嬢をここまで?」
「は、はひっ。送って――いやあの、お、送らせていただきましたですっ」
ゆらりとこちらに顔を向けた正勝に対し、高雄は思わず胸の前に両腕をクロスさせて防御の姿勢を取ってしまった。女子が胸元をサッと隠す時の動作にも似ている。ついでに口も上手く回らず、危うく舌を噛みそうになっていた。
ちらつかせているわけではないとはいえ、目の前の人物は懐に刃物を忍ばせていることが判明しているのだ。彼が本能で恐怖したことを責められる者はいないだろう。
「いやぁ、そうでしたか……わざわざ悪かったですなぁ。ありがとうございやした」
「ああ、いえ……その、こちらこそ」
もはや応対がしどろもどろ。高雄自身、自分がどんな発言をしたのか把握しきれていなかった。簡単に言えば、頭が回っていなかったのである。
そうなるとこの場で冷静なのは朝日だけになるだろうか……だが正勝も取り乱してはいたが、慌てふためいていたりするわけじゃない。そうなるといよいよ高雄だけが動転していることになるわけで、彼が「もしかして自分がおかしいのか」と思い始める一歩手前だった。
「迎えは必要ないと電話で祖母に言っておいたのですが――伝わっていませんでしたか?」
「いやその、奥様から聞かされてはいたんですがね……じ、自主的にと言いやすか」
朝日自身には相手を厳しく叱責するつもりなど毛ほどもないのかもしれなかったが……彼女の微動だにしない表情と変わらない声色は、面と向かった会話相手を自然と怖気付かせるだけの静かな威圧感を持っているのだ。彼女がどういう人間なのかを把握できていない人間にとっては、特に。少し前までの、密かにおののいていた高雄のように。
「正勝さん。私自身が結構だと言っているのですから」
「す、すいやせん」
怒るというより「仕方ないな」とため息混じりな朝日に対して、ばつが悪そうに頭を下げる正勝。
なぜかいたたまれない気持ちになった高雄は、正勝へと助け舟を……とまではいかないかもしれないが、二人の間に入ることはした。もちろん朝日に対しての反論だとか、苦言を呈するつもりではなかったのだが。
「ま、まぁまぁ朝日……正勝さんだって、悪気があったわけじゃないし」
「――ですが」
「迎えはいいよって言われてもこうしてわざわざ来てくれたんだし。きっとそれだけ心配してくれたってことなんだからさ……ですよね? 正勝さん」
「へ、へいっ。それはもう……てっきりあっしは、お嬢が一人で帰り道を歩かれるもんだと思っとりやしたから……」
高雄にとってみれば正勝はもちろん他人ではあるが、使用人である彼の気持ちもまぁわからんでもない。
朝日から連絡があってからの一分一秒は永遠かと思えるほどに時間の経過が遅く感じられ……ともかく正勝は居ても立ってもいられなくなり、朝日が徒歩で帰宅するならば通るはずであるこの道で待っていたというわけだ。おそらくは。
先ほどの安堵ぶりから推し量るに、きっと今の今まで凄まじい心労だったのだろう。それが彼だけなのか、それとも霧島の家にいた使用人全員がそうなのかは分からないが。
「うん。……僕が朝日を家まで送っていくって伝えてれば、正勝さんもここまで心配しなくてもよかったかもしれない……ってことでどうかな? 朝日」
高雄が朝日に目を向ければ、彼女はいつもの癖で下唇に人差し指をあてていた。自分の中で考えや答えをまとめているのだろう。
正直なところ、高雄にとってはミステリアスな印象しかなかった朝日だったが……それも初対面からしばらくの間だけだ。
こうして少しずつではあるが彼女がどういう人なのか理解出来てくると……もちろん今でも理解しきれていないところはたくさんあるが、仕草など実は分かりやすいところもあったりするわけで。
「たしかに私も先輩が送ってくださるとは思っていませんでしたので、そこについては何も伝えていませんでした」
「まぁ、突然の決定だったのもあるけど……そこは僕達二人の不手際だったってことで、どう?」
「そうですね。――すみませんでした、正勝さん」
物は試しと高雄が提案してみた責任の落としどころに、朝日は拍子抜けするほどあっさり同意してくれた。そして朝日はそのままの流れで、正勝へ頭を下げる。
……高雄の想像以上に、彼女は素直だ。自分に非があると分かったなら言い訳などで逃れようとせずに全て認め、即座に詫びる。――これまで彼が関わってきた中だけでの印象だが、朝日はそういう少女だった。責任感の欠片もない為政者などは彼女を見習うべきだと彼はしみじみ思う。
「いっ、いえ! そんな、謝らんでください。あっしが勝手に勘違いしただけですんで……」
「ですが私も、正勝さんのお気持ちを考えていなかったといいますか――」
「……はい、そのへんでおしまい。連絡しなかったとか、勘違いしたとか、みんなが小さな失敗をしたってことで……ね?」
放っておくと両者の謝罪合戦へ発展しかねないと思い、またしても高雄が間に割って入った。榛名や深雪とよく一緒にいるせいか、彼にとってこういった行動はお手のもの……もとい、何度も経験して慣れている。
この件に関しては高雄の言った通り「全員のちょっとしたミス」ということで話がまとまり、そこでお開きとなった。
いくらやんわりとした言葉を使っても、仲介しようとした人間に矛先を向ける者もたまにいる。もちろん、そうなったらなったで対応するつもりだったが……朝日も正勝も彼の制止をすぐに聞き入れてくれたのだった。ありがたいことに。
「じゃ、朝日は正勝さんに車で送ってもらって……僕の見送りは、ここまでってことで」
「あ――先輩、待ってください」
彼女のことは正勝に引き継げば安心だろうと考え、高雄が離れようとした時――朝日がそれを呼び止めた。
「正勝さん。家に向かう前に、先輩をご自宅まで送って差し上げてください」
「へい! もちろんでさっ! ……ありゃ? 車のキー、どこに入れたっけかな……」
「いや、いいよ朝日。僕は歩いて帰るから」
スーツのポケットをまさぐって車の鍵を探している正勝の様子を横目に、高雄は朝日の申し出を遠慮した。
たしかに高雄の家は霧島宅と正反対にあり、ここまで来た道を戻る分の距離が帰り道に加わることにはなる。――しかしつい先日も自宅まで送ってもらったばかりだ。そう何度も甘えるわけにもいくまい……と。
ベンツに乗り込むという、生きた心地のしない緊張感を繰り返し味わいたくないというのも小さな理由の一つであったが、そこは黙っておいた。
「いえ、それは先輩に悪いですし」
「全然悪くないって。ここからだって大した距離じゃないしさ……もともと、朝日の家までは歩くつもりだったんだから。それからだいたい半分くらい距離が減ったんだし」
「――ですが」
「じゃあさ……この前、朝日の家から送ってもらったじゃない? 今日はそのお返しで、僕が朝日を送ったってことで……途中までだけど」
高雄からの言葉を受けて、朝日は少しばかり考える仕草を見せて……彼女なりに思い至ったのか。再び顔を上げて、感情の読めぬ瞳で彼を見つめた。
「歩いて帰るというのは――先輩ご自身の希望、ということでよろしいでしょうか」
「そうなるけど……それだと、何か問題でも?」
「いえ。先輩のご希望を聞き入れず、無理にでも乗っていただく――というのも、悪い気がしますので」
朝日の言う、そちら方面への気遣いに対しては高雄からすれば「助かった」という気持ちだった。もしこれ以上引き留められるようなら「寄っていきたい場所がある」とでも言い訳しようかとも考えていたから。
「もう一度だけお聞きしますが――本当によろしいのですね?」
「うん。それが僕の希望だから……聞き入れてくれると、嬉しいな」
「――わかりました。――正勝さん」
「おっ! あったあった! いやー。まさかケツのポケットだったと……えっ、あ、なんでしょう?」
「先輩は歩いて帰られるそうですので」
探していた車の鍵が見つかり、一安心でご満悦な様子の正勝に朝日がそう伝えた。
「それは……高雄さん、いいんですかい?」
「ええ。気にしないでください」
「いや、しかし……」
「正勝さん。――先輩は歩いて帰りたいと、希望されてます」
彼なりの気遣いなのだろうが、食い下がろうとした正勝を朝日がピシャリと止める。彼女の声はいつも通り淡々として必要最小限な短い言葉だったが、だからこそどこか有無を言わせぬ雰囲気を持っていた。べつに怒っていたりするわけではないのだろうが。
「……わかりやした。じゃ、あっしは車を切り返してきますんで、ちょっとお待ちください」
立場的にも朝日に逆らうことは難しいのだろう。正勝はそれ以上は言わず、二人に向けて一礼すると小走りで車へと向かって行く。
しばしその様子を見送っていた二人だったが、唐突に朝日が鞄からがま口財布を取り出した。
「先輩。遅くなりましたがこれを」
「へ?」
「お借りした分です。自販機のおしるこ代」
覗き込んでみれば、差し出された手のひらの上にあった硬貨は百円玉が一枚。
彼女の言葉通り、さっきの缶ジュース代ちょうどだ。
「……ああ、いいって。幸い今は特に金欠ってわけじゃないし」
「でも、お借りした分はお返ししませんと」
「うーん。あれはさ……おごりでもあるし、迷惑かけた分のお詫びでもあるから、それこそ気にしないで欲しいな。友達としては」
「――そうですか」
友達というワードがそうさせたのか、朝日は予想外にあっさりと引き下がってくれた。……きっと彼女の中で、「友達としての立ち回り方」が未だハッキリとは分からず、またそれを計りかねているのだろう。
「では今度、私が先輩にジュースを買います。それでよろしいでしょうか」
「なにがなんでも返す気か……まぁ、朝日がそうしたいならそれでいいですよ。またの機会にってことで」
「わかりました」
朝日はひとまず納得してくれたらしく、百円玉をがま口へとしまう。……何度見ても、年頃の女子ががま口財布を使用しているのは新鮮だった。
少し向こうから、正勝によるものであろう車のエンジン音が二人の耳に届く。
「……もしかしてさ、初めてだったりとかした? 自販機の缶ジュースを飲むのって」
車がこちらに着くまでの沈黙を避けたくて、高雄は何の気なしにそんな質問をしてみた。「まさにお嬢様」な育ちをしてきたのであろう朝日ならば、その可能性も無いとは言い切れないなと思えたからである。
「いえ。初めてではありません」
「そうだよな。さすがにそんなことは――」
「自販機の缶ジュースを飲んだのは、人生で二回目でした」
「……ニアピン賞だったか」
高雄は少しの間だけ言葉を失い……そして朝日はやっぱり「まさにお嬢様」なのだと、再認識もしたのだった。
そんなやりとりをしているうちに、正勝の操る黒塗りベンツが朝日の横で停車する。
「先輩。今日はありがとうございました」
「いやいやこちらこそ。……じゃ、またあした。えっと、図書室で……かな?」
「――そうですね。放課後に、また」
朝日にお礼をされ、彼女のために後部座席の扉を開けようと運転席を降りた正勝からもしっかりとお礼をされて、高雄はどうにもむず痒いような気持ちになった。もちろん嬉しくないと言えば嘘になるが。
そうして朝日たちは車に乗り込み、高雄は小さく手を振りながら遠ざかっていく車の後ろ姿を見送った。夕焼けだったことも手伝ってか、彼女達との別れは寂しくもあったが……今の高雄はなぜか、どこかワクワクしている。
それはどういうことかと言えば、車へと乗り込む前に高雄は朝日と約束を一つ交わしたからだ。……人によってはそれを「面倒だ」と感じるようなことかもしれなかったが、高雄にとってはどうなるのか気になるという気持ちが強く、その結果が楽しみでもあった。
「……さて。帰りますか」
視界にベンツが映らなくなってから、高雄も踵を返した。
夕焼けが終わりを告げて、夜の黒がすぐそこまで迫っているのが見える。
それまでに歩いてきた道をのんびりと進んでいると、道に点在する街灯が彼を出迎えているかのようにパッパッと順番に点灯し始めていた。
高雄が自宅に着いたのは朝日と別れてから、一時間以上も後のこと。あの場所から自宅まで引き返すだけならばこんなに遅くなるはずがないのだが、道中で思い出したようにスーパーへと寄ってしまったのが原因だ。食品類を吟味しているだけであっという間に時間が過ぎ去ってしまう、彼にとっては魔境と呼んでもいいような場所だった。それが楽しくもあるのだが。
「ただいまーっと……あれ?」
ネギと大根が飛び出したビニール袋を左手に持ち、右手で玄関のドアを開けたところで気がついた。自分が「玄関の鍵を開ける」という動作をし忘れていたことに。だけど現実に、その動作をしなくとも扉は開いてしまったわけで。
もしかしたら今朝の登校時、家を出る際に鍵を掛けずに出て行ってしまったかもしれないと……そうも考えたのだが、すぐに答えは得られた。
――玄関に、それがあったから。
(……帰って来てたのか)
それは、靴だった。……高雄が履くような靴ではなく、女性用のハイヒール。まぶしいと感じるほど明るい装飾を施されたそれは、乱雑に脱ぎ捨てられ左右に転がっていた。
彼はその靴を知っていた。
いや。初めて見る靴だろうと、この家に出入りする人間から消去法で考えれば、女物の靴を履く人など彼女しかいないことになるわけで。
(荒れてなきゃいいんだけど……)
高雄はため息を吐きながら自分の靴とそのハイヒールを揃えて並べ、なるべく足音を立てないようにそっと家の中へとあがって行く。
廊下の先で待っていたのは、およそ三日ぶりとなる息子と母の対面だった。