Crocus 8
突然とも言えるであろう高雄からの質問に反応し、朝日は目線を彼のほうへと向ける。二人が足を止めることはなかったが、首から上だけを向け合う形となってから両者の歩く速さはどちらともなく少しだけ遅くなっていた。
「朝日はさ。その……さっきベンチに座ってた時に、少しうらやましいって言ってたけど、どうしてかな……って」
「ああ、あれのことですか」
どうしてこんな質問をしたのかと問われれば、なんとなく。
とりわけ深い意図があったわけでも、そこまで気に病んでいたわけでもなかったのだが、まさに「なんとなく気になったから」である。
どうしても理由をあげるとすれば、その言葉を口にしていた時に朝日の顔がどこか寂しげであったのも、その一つ。けれど彼女らしい無表情であったことには変わらないから、寂しげというのは単に高雄の思い込みに過ぎないのかもしれなかったが。
「あっ、もし答えたくなければ、僕はべつに……」
「いえ。大丈夫です」
もしかしたら失礼だったかもしれないと予感し、考慮せず口走ってしまった質問の言葉をフォローしようとしていたその途中で、朝日からの返答が返ってきた。
どうやら彼の質問には答えてくれるらしく、またそのことを高雄は気にしなくてもいいようだ。それは朝日の言葉をそのまま鵜呑みにすればだが、そこのところ……彼女の本心についてまで追求したらそれもまた失礼かと思い、高雄は黙って隣を歩く少女からの次なる言葉を待つことにした。
互いに少しの沈黙。実際にはたかが数秒だったかもしれない。
そっと高雄から視線を外して前方を見据えた朝日の言葉が、その沈黙を破った。
「――あれは、私の本心でした」
またしばしの沈黙。
二人の足音……シャーベット状態に近付きつつある路面の積雪を踏みしめる、シャリシャリという音だけが互いの耳に届く。
「本心っていうと、お城組みたいなのが?」
新しい質問と共に、朝日の側へ顔を向けた高雄の目に映る彼女は、やはり無表情で。しかしどこか寂しげな雰囲気も感じられた。
「そうですね。お城組も含めて現在まで、ですが」
「……うらやましい、か」
高雄は少し唸ってしまった。彼自身を含む、お城組のどこに羨む点があるのかパッとは思いつけない。たまに男女問わず「うらやましい」と言われることはあるが、それは榛名か深雪と……いわゆる「お近づきになりたい」からであって。
そもそも朝日は「お城組も含めて現在まで」と言っているが、そこもまた彼にとっては謎だった。幼少時の頃ならいざ知らず、現在の彼ら三人組の関係は決して手放しに良好と言える状態ではない。特に高雄と深雪の間がギスギスとしているのは、おそらく朝日にも伝わっているだろうと思えるのだが。
「私には、そういった相手がいませんでしたから」
端的で感情を込めず、ただ事実のみを言葉にしたつぶやき。
けれど朝日が口に出してくれたその一言で、高雄は目の前を覆い隠していた濃霧に光が差したような感覚を覚える。それは静かではあったがあまりにも痛快で、思考の邪魔になっていた壁が崩れてくれたようなものだったから。
「それって……ずっと?」
「はい。小さな頃からずっと、です」
朝日には幼馴染どころか、友人と呼べるような相手が現在までいないという……彼女自身の口から軽く事情を聞いただけでも、なるほどそれなら仕方ないだろうなと高雄には思えた。
あの見るからに豪邸といった佇まいな霧島家の一人娘で、幼い頃に両親を亡くし、今日までまさに現代の「箱入り娘」として大切にされてきた朝日。もし高雄が彼女の立場だったら三日と経たずに音を上げてしまいそうな、厳しく多量であろう習い事の数々。
ごくまれに当主……ようするに朝日の祖父だ。彼によって外に連れ出されても、行く先は大企業や政治分野など有力者達との会合。もちろんそういった場で出会う相手など、朝日とは何十も年の離れたお偉いさんばかり。
きっと持ち運びされる飾り人形のような扱いであったのだろうなと、そういった経験のない高雄でも想像は容易だった。
「学校に入ってからは新鮮でした。同年代の男女がたくさんいましたから――でも、先輩達のような関係を誰かと持ったことはありません」
(……ようするに、友達がいない……か)
お城組のような付き合いや関係が羨ましがられるほど魅力的かどうかは置いておくとして。高雄はなるべく朝日の立場になったつもりで、彼女が告白したその事実について考察してみた。
躾の行き届いた名家のお嬢様で、来る日も来る日も習い事。そして人付き合いに関しては半ば大人たちの世界に放り込まれているようなもの。
身体はまだ年端もいかぬ子どもでありながら、心はすでに大人であることを強いられているような……たしかに、そんな環境にずっと身を置いていれば同年代の男子女子になど興味も沸かないか、上手く付き合えないといったところであろう。そして実際問題、おそらくそれらを体験してきたからこそ今の朝日がここにいる。
(あれ……? でも、だったら……)
高雄は自身の思いつきについてもう一度思い返し、思考を巡らせてみる。「石橋を叩いて渡る」という言葉があるが、高雄もまた「行動や発言の前に、それらに問題がないか一考してから事にあたる」という癖があった。それが慎重と言えるか、はたまた単に臆病なのかはさておくとして、ともかく彼はそういうタイプの人間なのだ。
「――ねぇ、朝日」
「はい。なんでしょう」
そうしていつも通りの一考の後……彼はその思いつきがおそらく問題ないだろうとの結論を導き出すと隣を歩く朝日に向けて言葉をかけ始めた。
「僕じゃ、ダメかな」
「えっ?」
「ごめん。ちょっと訂正する……僕達じゃダメかな? 朝日の言う、そういう関係っていうか……いわゆる、友達?」
朝日は即答しなかった。しかしそれは拒否のためではなく、彼女の中で受け取った言葉を噛み砕き、理解をするための――先ほどまでの高雄と同じ、思考するためのしばしの沈黙である。そして彼女はその間その場で棒立ちのようになっていたのだが……高雄がそれに気づくのはほんの少し彼女より先行してしまってからだった。
「っていうか、榛名なんてもう朝日をお城組に――あれ?」
気がついたときには隣を歩いていたはずの朝日の足は止まり、その姿は彼の後方にあった。距離にすればおよそ三歩半……二メートルも離れていないかもしれない。互いが手をまっすぐに伸ばせば、握手は出来る程度の距離だ。
「朝日、どうかした?」
高雄の問いに、またしても朝日は即答しなかったが……それを気にするよりも先に、彼の意識は今この状況に対してのデジャブ――既視感に襲われていた。
しかし、その既視感の答えは時間を掛けずとも得ることが出来た。
あの時と、同じだったから。
それはまだ、高雄が朝日のことを名前で読んでいなかった頃。校舎の階段を下りる途中で、思慮にふけったらしい朝日は今と同じようにその足を止めていて。
彼女の白い肌を、藍色で少しだけウェーブがかったショートヘアーを、西の空から降り注ぐ夕陽が照らしているのも、同じだった。
「先輩。――お聞きしたいのですが」
違う点を挙げるとするならば、あの時は屋内で今は屋外であること。あの時は高雄が朝日を見上げる形であったが、今の両者には彼らの身長差以外の高低差がない。さらに今の彼は、朝日が無言で無表情でも……そこに言いようのない緊張感や威圧感を感じることも、いつの間にかなくなっていて。
朝日がたまに見せる「自身の下唇へ手の人差し指を触れさせる動作」も、彼女が自身の中で何かを考えている時に見せる癖なのだと……聞いたわけではないが、なんとなく理解できていることだった。
「僕に答えられることならいいけど、何を?」
「――迷惑ではないでしょうか」
ああ、もう一つ挙げられることがあった。あの時と今で、違う点。
高雄が……これもまたあくまで「なんとなく」ではあるのだが、朝日の感情を少しだけ読み取れるようになってきたこと。
彼女は常日頃から無表情ではあるが、人形のように無感情でないことだけは確かなようだ。それは朝日の近くに居て、彼女という人を見て、直に接してみての彼なりの実感。
そして今の朝日は、どこか寂しそうな表情で……いや、目に見える表情に変化はないのだが、彼はそう感じ取った。喜怒哀楽で言うなら、今の彼女はきっと『哀』の状態だ。
「迷惑……あっ」
彼女が口にした単語の意図するところはどこにあるのかを彼は考え……そういえばそうだったと、彼女のことを再認識した。
「そ、そうだよな。迷惑だよな……朝日からすれば、僕なんて特に庶民なわけだし……」
「いえ、そうではありません。先輩が言うような意味では、決して」
「えっ……?」
「――逆です」
間抜けた面と声で返してしまったかもしれないが、彼女からの答えは高雄からすれば本当に意外だった。きっとそうに違いないと思っていたから。
「私が加わらせていただくことが――先輩達の迷惑になるのではないか、という意味です」
「え……あ、ああ。そういうことか」
意外な真相に、少しだけしどろもどろになってしまったが……けれどわかってしまえば、なるほどたしかに。それは実に朝日らしい疑問と言えるのではないかと高雄は思えた。
そしてすぐに、彼は答えを返した。「そんなことはない」と。
そうしたらやはりというか。朝日は一瞬驚いた様子を見せて、それから戸惑っている様子だった。もちろん無表情なのに変わりはないのだが。
「ですが――先輩方は小さい頃からずっと三人で」
「うーんとさ。たしかに僕達はお城組として、よく三人で遊んだりしてるけどそれはべつに……僕達だけで、あとは誰も入ってくるな。っていうわけじゃなくてさ」
「違うのですか?」
「うん。……なんて言うのかな、僕達の……正確には榛名の、か。まぁどっちでもいいけど、僕達について来れるというか……これだと偉そうに聞こえちゃうか。とにかく、付き合ってくれる人がいなかったっていうのかな……ごめん、うまく言えないけどさ。ずっと三人だけだった理由なんてそんなものだよ? だから朝日がそこに加わったって……僕達の友達になっても、迷惑なことなんて何もない」
しどろもどろな状態はまだ続いてしまっていて。そうでなくても言葉にするのが難しい問題というか、質問だ。こういう時に喋らずとも伝えられるようなテレパシー能力を有していればどれほど便利だろうかと彼は思ったが……思考がごちゃ混ぜなままで伝わったところで結局は同じことだろう。
「ですが――私は先輩達と知り合って、まだ数日程度しか」
「友達になるのに日が浅いって言うんなら、これから一緒にいてその時間を増やしていけばいいだけだよ。……違うかな?」
「しかし――」
「大丈夫だよ」
返答だけでも彼には十分感じ取れたが、朝日はまだ躊躇っていた。もし相手が榛名だったらきっと、「あぁもうめんどくせぇな」などと言いながら、力技で強引に友達認定でもするところだろうが……この場にいるのは高雄であって、榛名ではない。
だから高雄は、彼なりに彼の言葉を朝日に向けて投げかける。それは他人から見れば不器用かもしれないし、下手くそかもしれない。
けれど、それでいいだろう。いいはずだ。誰かと比べて優れていなくても、それも含めて彼という人間なのだから。
「そんなに難しく考えなくてもいいんじゃないかな。……友達ってさ、気付いたら仲良くなってて、話して遊んで……いつの間にかそうなってるものだと思うよ」
「――そうでしょうか」
「たぶんね。っていうか朝日も、僕達と話したり遊んだり……いやまぁ、今日はちょっと散々だったかもしれないけど、もうそういうことはしてるわけで……それは嫌だったりした?」
朝日は黙ってうつむくと、ふるふると首を小さく横に振った。
「なら、大丈夫。深雪も……ちょっと気難しいところがあるけど、たぶん大丈夫だと思う。……榛名に至っては、もう朝日をお城組に加える気マンマンみたいだったから、言わずもがなだね」
「――先輩は」
「ん?」
「先輩は――嫌ではないのですか?」
ようやく顔を上げてくれた朝日が、高雄に見せた両の目……彼女の瞳が訴えかけるその意味を、高雄は知っていた。「目は口ほどにモノを言う」とされるが、まさにその通りだ。実際、高雄には彼女が今抱いている感情が痛いほどに伝わってきたのだから。
だから彼女の問いに対しては、高雄は笑って返すことができた。決して責める意味でなく、「何をいまさら」と思えたからである。
「嫌だったら、同じ本を一緒に読み進めたりなんてしないよ。一緒に帰ったりも、ね」
「――あ」
どうやら朝日は言われて気づいたらしい。そしてまた人差し指を口元へ持って行って、細い指の背を下唇へとあてる。そんな反応がいじらしいというか、どこか可愛らしいもので、高雄は見ていて思わず口元がほころんだ。
「僕は嫌じゃなかったよ。……朝日はどうだった? 僕と一緒は、嫌だった?」
「そんなこと――ありませんでした」
「なら大丈夫だよ。……あとは」
高雄は提げていた学生鞄を左手に持ち替えて、空いた右手を朝日の前へと差し伸べた。
「朝日の気持ち次第かな。僕としては、これからもよろしくお願いします……なんだけど」
「――はい」
朝日は高雄の手に応え、同じように右手を差し出した。彼の言葉への返答と共に。
「よろしくお願いします――先輩」
その瞬間……いや、その瞬間も。朝日はやっぱり無表情で。けれど一瞬だけ、彼女の表情がほころびたように見えた。そこまでジックリと注目して観察していたわけでもないから、きっと気のせいかと高雄は思ったが。
「こちらこそ。……僕達が初めてかな。朝日の友達になるのは」
「そうですね」
つなぎ合った両者の手に、恥じらいなどといった想いは存在しなかった。その時、そこにあったのは喜びの感情だけ。
「でも――榛名先輩も深雪先輩も、今ここにはいらっしゃません」
「あー……まぁ、そうだな。二人とはまた後日ってことで……」
「ですので、私にとっては先輩が――初めての友人です」
その言葉が引き金のようなものになって、高雄はいまさらながら朝日と手をつないでいるんだという事実を再認識して……瞬間的に顔が沸騰しそうなほど熱を帯びるのを感じ、反射的に手を離してしまった。手持ち無沙汰になった彼の右手は、できるだけ自然に見えるようササッと自身の後頭部へ。
「そ、そう、ね。……あ、でも榛名の前では、そういう言い方は無しでお願い。『なんであたいが初めてじゃないんだー』とか、よくわからん理由でなぜか僕が八つ当たりされかねない」
「はい。わかりました」
高雄はひっそりと胸を撫でおろした。握手をしていたのに不自然に手を離してしまったことから、どうにか朝日の興味を別の方向へ向けることには成功した様子だった。もちろん彼に拒絶する意味合いなど微塵もなかったのだが、彼女にそうとられてしまう可能性もあったのだから。
「――先輩。そういえば思い出しました」
「え、何を?」
「正勝さんのことです」
「……あっ」
そういえば、である。
おそらく朝日もだろうが、高雄も彼女から言われる今の今まですっかりあの人のことを忘れていたのである。
故意でなく過失とはいえ、一度視認していた相手を意識の外に吹っ飛ばしてしまっていたことに罪悪感を抱きつつ振り向くと、正勝は先ほどまでと同じ場所に立っている。……ただしその様子まで同じとはいかず、挙動不審気味であった動きはさらに重症化していた。
住宅街の片隅に停められたベンツ。その車体の周りをせわしなくぐるぐると回る、スーツ姿にサングラス着用の角刈りおじさま……おまけで顔に傷まで。これはもう怪しいなんてレベルじゃない。いつ近隣住民から警察に通報があってもいいくらいだ。中身は悪い人じゃないと高雄は知っているが。
「……早足で行こうか」
「そうですね」
二人は共にバツの悪さを感じながら、進んでいた道を駆け足寸前の速度で再び歩き始める。
夕刻の時間帯であるにもかかわらず、その道に人通りがほとんどなかったことは不幸中の幸いと言う他なかった。