Boronia 2
「――あだだだだだぁっ!?」
榛名が悲鳴――いや、そんなに女の子なものではない。どちらかといえば男らしい痛がり方で声をあげた。
たった今入室してきた女生徒に、問答無用で片耳をつねりあげられた為である。
「ハルナぁ……すぐ帰って来るって飛び出してから何分経ってると思ってるのよ! しかもこんなとこで油売って……!」
「いっでぇよ! 痛ぇっての!」
「ま、まぁまぁ、ミユキ。そんな怒らなくても……」
「あんたは黙ってて。これは生徒会内の問題」
「あ、はい……」
眼鏡の奥から向けられるその鋭い眼光と静かな気迫に、高雄は思わずたじろいだ。
高雄と榛名、双方にとって幼少からの幼馴染――天城深雪は、まさに才女と呼ぶに相応しい女生徒である。
座学であれば成績は常に学年ベストスリー。教師達からの信頼も厚いが、それに毎回応え得るだけの能力を有していると言っていい。
高雄と同じ高等部一年生。まもなく二年に上がるが、既に生徒会きってのブレーンにして頼れる会計役。
知的さを漂わせる銀縁の眼鏡、その奥にはやや鋭い目尻に茶の眼。
緑がかった鈍色のロングヘアーには少しの乱れもなく、全ての毛先がスラリと地に向かって伸びており――髪型の名称こそ榛名と同じだが、両者のそれはまさに性格を髪質に表したかのようである。
身長は高雄よりやや低い程度で年頃の女子らしい華奢な体格。しかしその雰囲気からは、榛名とはまた別のタイプで物怖じしないであろう内面の強さを感じさせる。
それが彼女という人。その肩書きと成績に外見。
名は体をあらわす……ではないが、彼女は『デキる女』の風格を存分に放出していた。
もっとも現在は、その整った顔立ちも憤怒によって崩れてしまっていたが。
「三年生を送る会での送辞……あんたがいないと練習始められないでしょうが!」
「いだだだっ! だ、だってその前の会議が長引きそうだっていうから……! ハラ減ったし……」
「なら買うもん買ったらすぐに戻って来なさいよ! ここに寄る必要はないでしょうが!」
「いやその、暇だったんで遊びたかったっていうか痛ぇ痛ぇ痛ぇって!」
好ましくない形で一気に賑やに。それどころか騒がしくなった図書室内の空気に、高雄はため息をつくしかなかった。この2人のやりとりもまた、いつもの見慣れた光景であるが。
「とにかくさっさと戻るわよ! 皆待ちくたびれてるんだから」
「だぁぁ、わ、わかったから耳は放し……いでででぇっ!」
「――じゃあね。お邪魔したわ」
「あ、あぁ……うん」
別れの挨拶にしてはあまりにも鋭い――拒絶にも似たトーンで短い言葉を残し、深雪は図書室の出入り口へと向かった。榛名の耳をつねりあげる右手はそのままに、だが唐突にその足は止まった。
「あ――そうだ」
何か言い残したのか、それとも思い出したのか。深雪は扉に手をかけた瞬間に首から上だけを高雄へと向けた。傍らで未だに悲鳴を上げている榛名のことは無視したままで。
「この前の話だけど――」
「……悪いけど、返事は同じだよ」
「……そう」
こちらも拒絶――用件を彼女の口から聞く前に、高雄が断りの返答を返した。その顔色には嫌悪というより、無情。何かを諦めた時の表情が、最も今の彼に近いのかもしれない。
そんな彼に、深雪もまた感情を動かすことなく答える。少なくとも表面上は。
「自分で――自分の可能性を潰すのね。あなたは」
「……買ってくれるのは嬉しいけど、僕に可能性なんてないよ」
「いいわ。また訊くから――行きましょ、ハルナ」
「そ、それはいいけどいいかげん耳を放し……あだだだだっ!」
榛名は抵抗するが、ようやく捕まえた獲物をみすみす逃すほど彼女は馬鹿ではない。引きずって行くのにも近い状態のまま、深雪は図書室を後にした。
「……ふぅ」
高雄はため息をつき、テーブルと床に散らばったトランプのカードを拾い集めていく。平時の状態に戻っただけであるが、閑散とした図書室内の空気は暖かくもどこか重たいものがあった。深雪の雰囲気が伝染したのだろうかと彼は思う。
「あ」
カードを束にしていく途中で、彼はそれを目にして気付く。榛名が手にしていたハンバーガー入り紙袋が、椅子の上に置かれたままになっていた。大量のそれはジャンクフード独特の油臭さを未だに放ち続けている。
榛名が取りに来るかとも一瞬考えたが、おそらくそれは無いだろうと思い直した。鷹に捕らえられた小動物のようなものだ。仕事が終わるまでは生徒会室に閉じ込められ、取りに戻って来れる暇も隙も与えられないに違いない。
「……仕方ない、か」
かといってここに置いたままというのも図書室という場所からして問題があるし、後でグチグチと小言を言われるに違いない。相手はあの榛名なのだ。「食べ物の恨みは恐ろしい」とよく言うが、彼女の場合は特に恐ろしいものになるだろう。
高雄は再びため息をつき、ズッシリと重たい紙袋を持ち上げる。現状でこれを届けられるのは自分だけだという事実の前に仕方なく、本当は生徒会室にあまり近付きたくはないという心情は我慢するしかなかった。
「よ……っと!?」
「きゃっ」
その接触が起きたのは高雄が図書室の扉を開き、廊下へと出た瞬間である。
周囲への警戒など微塵もしていなかった彼は、ちょうど図書室の入り口前を通りかかったらしい小柄な女子生徒に激突してしまった。彼女が尻餅をつき、手にしていた鞄の中身――教科書やノート類が床の上に散らばる。
「あ、あぁ……ご、ごめんっ」
罪悪感と恥ずかしさ、それに焦りが加わった謝罪を口にし、高雄は廊下に散らばった彼女の私物を拾っていく。途中で、先に彼女の身体を気遣うべきだったかと思ったが、何事も無かったかのように立ち上がりスカートの後ろをはたいている様子を見ると、どうやら怪我などはしていない様子で一安心した。
「悪かったよ……うっかりしてて」
「いえ。私の方こそ不注意でした」
拾い集めた彼女の私物を手渡し、改めて謝罪の言葉を口にしたところで彼は初めて目の前の少女、その容姿を認識した。そして瞬時に目を奪われた。
まだ幼さこそ残しているが、整った顔立ちと艶やかな藍のセミロングヘアー。まさに少女と言える小柄で華奢な体格と、どこか神秘的ですらあるその雰囲気。良い意味で、「まるで人形のようだ」という言葉が浮かぶ。
加えて短い言葉ではあったが平坦で……ともすると無気力ではないかという、鈴の音のように透き通り――されど感情を微塵も感じさせないその声もまた、印象的で耳に残るものであった。
「あの」
「え……あ、あぁごめん……」
彼女に受け取らせておきながら、高雄はその手をノートと教科書の束から離していなかったことにようやく気付いた。その少女に見とれてしまっていたせいだろう。
彼は主に恥ずかしさから、顔を赤く染めた。差し出し、渡しておきながら自分は手を離さないなど、相手から見れば滑稽なことこの上ないはずである。
だが目の前の少女は、高雄を不思議がることはせず……どころか、彼が提げていた紙袋の側へとその視線を向けていた。無言のまま、無表情のままで。
「あ……えっと、その。これは……」
彼はたじろぎ、どんな説明をしたらいいものかと考えた。いくら閑古鳥が鳴いているとはいえ、一応図書室内では飲食禁止なのだ。図書委員である自分が大量のハンバーガーを手にその部屋から出てきたというのは、うまく言い訳をしないと問題にされる可能性がある。聞いた話では紙袋の中の半分程度はチーズバーガーだとか、そういうことは至極どうでもよかったが。
「んと……これはさ、僕が食べてたとかじゃなくて、さっきまでここに……」
緊張と焦りのせいかうまく言葉が見つけられず、しどろもどろになってしまっている高雄を前に、少女はその小さな口を開いて問うた。無表情極まりなく、眉一つ動かすことなく。
「トーストじゃないのですか?」
「……はい?」
これには思わず高雄も聞き返さざるを得ず、呆気にとられた。おそらく十人が十人同じような反応を示すだろう。それほどにその少女が口にした質問の内容は唐突で、予想外で、そして謎に満ち溢れたものであった。
「失礼しました。こちらの話です」
「あ、あぁ……そう」
失礼であったかどうかすら高雄には判別出来なかったが、少女はペコリと頭を下げた。容姿のみならず、その仕草一つすら可愛らしいと言える。表情は相変わらず少しも変わっていなかったが。
「あ――そうだった……」
目の前の少女にまた目を奪われそうになったとき、自分がなぜ大量のハンバーガー入り紙袋を手に提げているのかを思い出して我に返ることが出来た。
「ぶつかってごめんね。ちょっと急いでるから、これで……」
「そうですか。拾っていただいてありがとうございました」
「いやいやそんな……それじゃあ」
適当な挨拶を済ませ、その少女と別れた高雄は早足で生徒会室へ向かった。彼女から最後にお礼の言葉をもらったが、嬉しさや恥ずかしさよりも戸惑いの方が大きかった。彼女の荷物が落ちたのは自分が転ばせたためだというのもあるが、無表情で感謝されるというのはおそらく初めての経験だったためである。
(綺麗な娘だったけど……)
先ほどの謎な質問など……気になるところは多々あったが、それ以上に彼女が着用していた制服のことが高雄には気に掛かっていた。見覚えがあり、どこか懐かしい女子の制服。忘れも間違えもしない、あれは中等部の女子制服だ。スカーフの色から察するに、おそらくは中等部三年生……ようするに一つ下の後輩ということになる。
だがそうなると、なぜ彼女がここにいるのかという次なる疑問が浮かぶ。
この学園は中等部と高等部で学棟が違い、それぞれで完全に独立している。だから中等部の生徒が高等部の学棟を訪れる必要はないはずだし、その逆もまた然りである。高等部の生徒に知り合いでもいるのだろうか。
(……もういないし)
階段を下りる手前で振り返ってみたが、既に彼女の姿はなかった。廊下の向こう端まではそれなりの距離があるはずだが、まるで幻でも見ていたかのように綺麗に消え去ってしまっていた。
「……ま、いいか」
ひとりごとを口にし。それ以上詮索する気も起きず、面倒くさいという気持ちを態度にしたような気だるさで、高雄は重たい紙袋片手に階段を下り始める。
忘れ物のハンバーガーを届けた先で、飢えた榛名から泣きそうな勢いで感謝されるとまでは想像していなかったが。