Crocus 5
「こちら、榛名さんのお品になりまーっす」
擬音で表すならドスンと。店員が両手で抱えるようにしなければならないほどの巨大な大皿をテーブルの上へと置いた。
皿の上でほかほかと湯気立ち、食欲をそそる油の香りを立ちこめさせているその料理の名は、いわゆるチャーハンである……だがしかし、よほど特殊な環境で暮らしてきた人間でもない限りこれほどの巨大さ、迫力があるチャーハンなど見たことも聞いたこともないだろう。それほどまでに榛名の目の前に置かれたそれは圧巻と言ってよい。
「うひょぅ! 待ちくたびれて飢え死にしそうだったぜー」
料理が運ばれてきて心底嬉しそうな榛名の横で、朝日はUFOでも目撃したかのように固まってしまっていた。
そもそも大皿自体がテーブル全体のうち四分の一以上を占拠するほど巨大なのに加え、その上に「限界まで盛りました。もう勘弁してください」と言わんばかりにチャーハンが山盛りなのだ。対面にいる相手の顔が隠れるほどである。名付けるならエベレストチャーハンとでも言おうか。
「んじゃ、いっただっきまーす!」
食べることへの感謝の言葉――そのあたりはきっちりと忘れずに。
これまた大きなレンゲを振るい、榛名は堰を切ったように目の前に鎮座するチャーハンの山をがっつき始めた。
「ごゆっくりどうぞ。他の品もすぐにお持ちしますねー」
優しげな笑顔と快活な言葉を残し、店員は再び厨房へと引っ込んでいった。
数秒ほどしてから「どこか引っかかる事を思い出した」という様子で、朝日はようやく硬直が解けるとともに首を傾げてつぶやいた。
「――他の?」
聞き逃したりしていないのなら、たとえ彼女でなくともこの状況でその言葉に疑問を持つのは当然だろう。
榛名以外の三人が頼んだ品は全て行き渡っている――というか、最初からジュース以外注文していないはず。
そうなると、店員が言う「他の品」というのは、誰に向けてかということになり……そしてその対象は一人しか思い浮かばないわけで。
「はーいっ! お待たせしましたーっ」
元気な声と共に舞い戻ってきた店員。
両手には大きな銀の盆が二つ、そこに乗っているのは大小様々な丼と皿。そこに盛られているのは、色とりどりの料理たち。
それだけならまだいいかもしれなかったが、それら料理の数と量が少々どころではなく常軌を逸していた。テーブルについている四人の中では最も一般人に近い常識と感覚を持っているであろう朝日が再び絶句しているというのが、それを如実に表している。
「おほぅっ! 来た来た……深雪。それそっち置かせてもらっていーか?」
「――ご自由に」
彼女が言い切るのが早いか、本来なら店で一番大きなはずのテーブルが小さく見えてしまうほど所狭しと料理皿が置かれていく。
麺が五玉入り、雲に覆われた山頂のようにスープから顔を覗かせている特大ラーメン。
深い丼に山のように盛られている、もはや何人前かもわからない量の焼き餃子。
大皿から溢れそうなほど広がっている、チンジャオロースに麻婆豆腐とニラレバ炒め。
鶏一羽分の肉をまるまる使用しているんじゃないかとも思える量の唐揚げ。
それら料理の山が、テーブル上をほぼ隙間なく占拠した。その場で見ているだけでも常人なら食欲が湧くのを通り越して満腹感を得られるかもしれない。まさに料理の軍団。ある種の数の暴力と言える。
「あと、こちらなんですけど……」
どうしようか、といった感じで店員が最後に差し出したのは円形の蒸篭だった。蓋のせいで中身は見えぬが、これまた大きい。
テーブルの上にはもう隙間が見当たらず、注文主の榛名はといえば右手に箸を握り左手にはレンゲという状況。
「あ―。……朝日、悪いけど持っててもらえるか?」
「――あ、はい」
朝日はハッと我に返り、榛名から頼まれるがままに店員からずしりと重い蒸篭を受け取った。
もともと蒸篭が大きいのに加えて小柄な朝日が両手で懸命に抱えているものだから、見た目には軽く「不思議の国のアリス」状態だ。
「朝日……持とうか?」
「いえ、大丈夫――です」
高雄の申し出を遠慮した朝日だったが、見た目にはどう見ても大丈夫じゃない。華奢な朝日の細い両腕では、おそらくもって数分といったところか。
「ご注文の品は以上でお揃いですか?」
「おうっ! んじゃ、あらためていただきます……っと」
「それではごゆっくりどうぞー」
一礼して去っていく店員。それと同時に榛名は再び食べ物を口に運び始める。
まるでリスかハムスターのように両頬を膨らませるほどに納めていた口腔内の料理たちを一飲みで片付け、榛名は朝日の背中をバシバシ叩きながら笑顔で謝った。
「悪ぃなー。重いだろ?」
「いえ、そんなこと――は」
「……朝日。やっぱり持とうか?」
彼からの再びの申し出だったが、朝日は首をふるふると振った。
小さな身体にはさぞかし負担であろう。
大変そうであることは目に見えてわかるのに、自力で頑張ろうと協力を断るその姿は親の手伝いをする幼児のようでどこか可愛らしさを感じられる。
「悪ぃ悪ぃ。ま、すぐに片付けっからさ。ちょっとだけ待っててくれな」
「いえ、気にしないでくださ――」
遠慮の言葉もそこそこに、朝日は再び驚愕して絶句する羽目になった。
それもそのはずだ。「すぐに片付ける」と言い放った榛名が、まるでわんこそばの記録にでも挑戦しているかのようなペースでもって……彼女の目の前に山を形成していたチャーハンにがっつき、ゴリゴリとその量を減らしていったからである。
「――はいっ。ごっそーさんとっ!」
先ほどまでは確かにそこにあったのに、わずか一分と経たずに姿を消したエベレストチャーハン。
まるでマジックだ。そのトリックは榛名が高速で食べ終えたという、信じがたいが単純なものだが。
「……悪かったなー。朝日、もういいぜー」
「あ――はい」
朝日から蒸篭を受け取り、榛名はそれを綺麗さっぱり空になった大皿の上に置いた。
蓋を取ると待ちかねていたかのようにモクモクと湯気と香りの爆弾が立ち込め、それが晴れると真っ白な複数の物体が姿を現した。
「へへー。んじゃ、こっちもいっただきまーす」
それはわずか一つで顔面が隠れそうなほど大きな、肉まん。
榛名が手にとった分と、蒸篭の中に留まっている分を合わせて全部で七つ。
半分に割ってようやく一般的な肉まんの大きさではないかというその巨大な白い塊に、榛名は至福の笑顔で豪快にかぶりつく。
かじられた部分から覗き見れる肉汁滴る中の具。生地はふんわりのほっくほくでありつつも、中身はたっぷりこれでもかと詰め込まれ……舌をとろけさせるかのような濃厚さはまさに珠玉の一品。
「んっふっふー。うんめぇー……!」
彼女からすればまさに幸せな時間の真っ最中。しかし笑顔で食べ進めていく榛名の様子とは裏腹に、それを見せられている三人の顔色はよろしくなかった。
この状況こそまさに、朝日が食べ物を注文することに対して高雄と深雪が苦言を呈した理由である。
肉食の恐竜にも匹敵するんじゃないかと思える榛名の食べっぷりは……それがある程度までであれば見ていて爽快かもしれないが、なにせ彼女の場合は一般的な感覚の度を超えて成層圏を軽々と突き抜けていた。
よく「見ているだけで胸焼けしそう」等と表現されるが……彼女の食事に付き合ってその様子を目の当たりにした人はまさにこの状態に陥る。今の彼らのように。
「……大丈夫か?」
とりわけ、高雄が心配して声をかけるほど朝日の表情は曇っていた。
満漢全席の如き光景と、彼女からすれば受け入れがたいほどの榛名の食べっぷり、それに立ち込める油の匂いにおそらくはやられてしまったのだろう。
「だ、大丈夫で――うぷっ」
朝日は言い切ることも出来ず、思わず目を閉じハンカチを口元にあてがう。
まるで乗り物酔いのような顔色と様子に、高雄は限界だと判断し席を立った。
「朝日。外に出よう」
「え――ですが」
「ちょっと外の風にでも当たったほうがいい。……深雪、悪いけど――」
「言わなくてもわかってるわ。――朝日さん。無理しないで」
一緒に外に出て朝日を介抱している間、榛名の付き添いを頼みたい……高雄がそう言わずとも、深雪は彼からの要望を瞬時に理解して承諾した。
「――すみません。それでは少しだけ」
二人の言葉に従い、朝日は申し訳なさそうに席を立つ。
ふらつく身体を高雄に支えられながら、おぼつかない足取りでゆっくりと店の扉にたどり着きどうにか外へ。
「大丈夫……なわけないよな、どう見ても」
「すみません」
「いや、謝るのはむしろこっちで――あっ、ちょうどいいや。あそこに座ろう」
店のすぐそばに設置されていた自販機に隣接しているベンチを見つけ、とりあえず朝日をそこへ腰掛けさせて一息つくことにした。
中華の香りと油の匂いが包まれていた先ほどと打って変わり、肌に冷たいが今は心地よい新鮮な外の空気。
「――ふぅ」
おかげで朝日の気分も少しは良い方向へ向かったようで、少なくとも吐き気からは解放されたようだ。
もとから他人より少し色白な肌色の頬も、心なしか血色が良くなったように高雄の目には映った。
「……少しは落ち着いた?」
「はい――ありがとうございました、先輩」
丁寧なお辞儀でもって御礼をされたが高雄からすれば気まずくて気恥ずかしく、頭を掻きつつ彼女から顔を背けた。
その視線の先にあったのは温かい飲み物が取り揃う自販機。
「えっと……何か飲む? お茶とか」
「あっ、はい――」
返事をしながら朝日が取り出したのは黒のがま口財布。
高雄も思わず目を丸くした。彼女らしいといえばらしいが、少なくとも今時の女子学生が持つような財布ではないだろう。というか名前とその存在こそ知ってはいたが、もしかしたら高雄も実際に使用している人を見たのは初めてだったかもしれない。
「――先輩」
「え、なに?」
「小銭が無かったです」
「……いいよ。おごるから」
「いえ、そんなわけには――あ」
「ちょ――っと!」
遠慮しようと立ち上がった瞬間……彼女は立ちくらみのようにふらつき始め、慌てて高雄がその肩を支えた。
「本当に大丈夫か……?」
「すみません。まだ少しふらふらします」
「と、とにかく座っててくれ……お茶でも飲んで落ち着いてさ」
「いえ、小銭がありませんので」
おそらくこのままでは遠慮されるだけで先へ進めないなと考え、高雄は朝日を座らせると即座に小銭を自販機へと投入してしまった。
「おごるから。……ね?」
「ですが――」
「んー……なんていうかな、迷惑かけたお詫び? とにかくさ、気にせず受け取ってよ。もうお金入れちゃったし」
当たり前だが、返却レバーを押せば投入した百円玉は戻ってくる。
だがそうじゃなく、これは「遠慮しないでくれ」という、言葉と合わせて彼女へのポーズなのだ。
そんな彼の言葉と態度に、ついに折れてくれたらしく……朝日はこくんと頷いて答えた。
「わかりました。ではお借りしておきます」
まぁ妥当な落としどころだろう。そして都合がいい。
実際に後で返済されるかどうかは高雄にとって問題ではなく、今この場がどうなるかのほうが重要だったから。
「うん。……で、どれにする? 普通の緑茶? ウーロン茶も――」
「でしたら右端の――それを希望します」
「えーっと、右端の……え?」
朝日が示した指先の延長線上を追っていき、そこにあった物を見て高雄は絶句した。まるで一瞬だけ時間が静止したかのように。
「あの……これ、『おしるこ』だけど」
「はい――いけませんか?」
高雄は困惑した。べつにダメというわけじゃない。
しかし常識的に考えて、気持ち悪かったり気分が優れない時に飲むものじゃないだろう。
「あ――もしかして、つぶあんでしたか?」
「いや……こしあんだけど」
「でしたら、それをお願いします」
「……はぁ」
問題点はそこじゃないような気がしたが……今の彼女にいちいちツッコミを入れるのも酷かもしれない。
どうにも腑に落ちはしないが、とりあえず高雄は言われた通りボタンを押して、取り出したおしるこ缶を朝日へと渡した。
「はい……熱いから気をつけて」
「いただきます」
慎重にプルタブを開け、白く小さな両手で缶を包み……目を閉じてゆっくりと飲み始める朝日。モノはおしるこだが、その動作自体はまるでコーヒーかワインの鑑定士と見えなくもない上品さと優雅さがあった。
高雄は少しの距離を置いて隣へと腰掛け、すぐ隣にいる朝日の――『飲み物を飲む』という、ただそれだけの行為になぜここまで透き通るような美しさを感じるのか。ぼんやりとそんな感じながらも次の瞬間にはそれに気付き、頭を振って無意識から帰還する。
同時に、彼女が今手にしているモノを再認識。そして彼女の先ほどまでの状態を思い返し、「やはりどこか不思議な少女だ」とも改めて感じるのだった。