Crocus
二月の半ばに差し掛かろうかというこの時期の外気温は当然ながら一桁台で、まさに身を切るような寒さであった。
うっすらと積もり、景色を白銀色に染めている雪。それに少しの氷を含んだ道の上を歩いていく――雪を踏みしめるサクサクという足音が、冬独特の静けさと相まって心地よいリズム音として耳に届いていた。
「……どうしてこんなことになったのかしら」
重苦しい雰囲気を自ら作り出すかのような調子の声で、天城深雪は白い吐息混じりにそうつぶやく。そして着用している眼鏡の位置を確かめるように左右のレンズに挟まれたフレームの中央――ブリッジ部分へと指を添えた。
彼女は一人で歩いているわけではない。少し後ろには三人の男女が彼女と同じように歩を進めていた。旧知の仲である葛城榛名に赤城高雄、それに彼女にとっては初対面に等しい霧島朝日……の三人である。
「なぁ深雪ー。そんなに怒んなよぉー」
「べつに怒ってなんてないわよ」
追いすがるように声をかける榛名。それに対する深雪の返事の調子は刺々しく、やはりどこか怒っているようにしか聞こえない。
「忘れてたのは悪かったって……勘弁してくりっ。なっ?」
「だから怒ってるわけじゃないって――」
「……深雪?」
「――ふんっ」
「あ――っちょ、ちょっと待てってば……」
いい加減にしつこいと思い始め、振り向いた深雪の視界に映ったのは後方にいた榛名の姿……それに続いて並んで歩く高雄と朝日。
無意識に鋭い目つきで彼らを見つめてしまったことに自ら気付き、彼女はすぐに視線を外すと前を向き直して歩き始めた。
足早に進んでいく深雪に声をかけながら榛名が追い、そんな二人の姿を見ながら高雄と朝日はマイペースに歩き続ける。
「先輩。私は何か気に障ることをしてしまったのでしょうか?」
「いや……特に何もしてないでしょ」
「ですが、なんだか睨まれていたような気がします」
「……もしそうだとしてもその原因は間違いなく僕だから、朝日は何も気にしなくていいと思うよ」
頭を掻きつつ、高雄はそうつぶやく。深雪が本当に不機嫌でこちらを睨みつけていたのだとしても……虫の居所を悪くした要因の大部分を占めているのはおそらく自分であろう、と。高雄は諦めるように彼の中で納得していた。おそらく自分は彼女にあまり快く思われていないのだという、あまり実感したくない自覚によるものである。
しかしなぜ彼ら四人が行動を共にしているのか――事の発端はといえば、図書室の入口で三人と鉢合わせた深雪を榛名が誘ったからだ。
榛名は元々、深雪の所用が終わるまでの暇潰しとして図書室を訪れていた。「生徒会で必要な物品を買出しに行くため、校門前で待ち合わせる」という、彼女との約束を綺麗さっぱり忘れて。
用事を済まし、校門前でいくら待っても榛名が現れる気配のないことに業を煮やした深雪が榛名を探しに来て……そこでちょうど高雄と朝日の両名と遊びに行こうとしていた榛名を発見したというわけである。案の定というか、深雪の小言が始まるよりも早く榛名が「どうせ買い物に行くなら、全員で行こう!」と問答無用でお誘いし、この現状というわけだ。
「先輩。お二人がどんどん離れていきます」
こちらのペースなど知ったことではないと言わんばかりに、彼女たちはズンズンと先に進んでいってしまう。
高雄からすれば深雪の不機嫌さも、まぁわからなくはない。榛名と二人だけで行くはずだった買出しの約束を忘れられたうえ、予想外のおまけが二人もついてきたのだ。それも仲睦まじい相手ならいざ知らず、冷戦状態の仲と言える高雄に、ほぼ初対面に近い朝日という――おそらく深雪からすれば、要らぬおまけが。
けれど彼女はそこまで人見知りが激しいわけではないから、きっと朝日に対して抱いている感情は今のところ「様子を探り、警戒している」程度のものだろう。いきなり敵意を抱くとは思えない……しかしそうなると不機嫌なのも睨むような視線を送っていたのも、それらは主に高雄へ向けてのものになるわけで。
「……ハァ」
「どうかしましたか?」
すぐにどうにか改善しようとはしないが、どうにかならないものかと高雄はため息をついた。無気力に、けれどしみじみと。
「いや、なんでもないよ……僕たちも少しペース上げようか」
「はい」
前方を行く二人を追いかけて彼らも足を早める。
行き着く先が同じとはいえ、彼女たちを待たせてやいのやいのと責められるのは回避するべきだろうと、彼の経験が警告していたから。
「にしても、よく許された――いや、言い方がおかしいか……よく認められたね?」
「何がでしょうか?」
「僕たちと一緒に歩いて買い物に行くこと。正勝さんの性格から考えると、なんとしても車で送っていきます……とか言いそうだけど」
「ああ、そういうことでしたか」
初めて朝日と一緒に下校し、自分で歩いて帰ろうとした彼女に食い下がっていた正勝の姿が思い出される。これまで朝日の送迎が当たり前となっていた彼ら使用人にとって、朝日の申し出と行動はさぞ衝撃的だったことだろう。
おそらく今日の買い物……高雄たちと行動を共にしていることも、使用人達にとってはちょっとした事件にも匹敵するんじゃないかと想像に容易い。
「正勝さんへは祖母から連絡してくれるそうなので、心配はないかと思います」
「あ、さっきの電話の時に?」
「はい。私が必要ないと言ってもなかなか諦めてもらえないでしょうが、祖母からの頼みなら聞いてもらえると思います」
「ふーん……」
霧島の家を訪れた時に様子は見ていたが、やはり使用人達は春日に頭が上がらないらしい――まぁそれは主従関係を考えれば当たり前か。
あの温厚そうな春日が他者を怒鳴りつけるような姿はちょっと想像出来ないが……仏の顔も何とやら。実は怒ると恐ろしかったりするのかもしれない。
そんなおそらくはありえないであろう想像に顔がほころびそうになるのをこらえつつ、朝日と共に足を早めてしばらく後。彼らはようやく、前方を行く二人の背中に追いつくことが出来た。
「おーっ。遅かったな二人とも」
大きな声と明るい笑顔で出迎えてくれた榛名は、その片脇にこれでもかと言わんばかりに大量のプラスチック容器が抱えられていた――ざっと見たところパック数は二桁。透けて見える容器の中身はホカホカと湯気を漂わせ表面でかつお節が踊る『たこ焼き』である。おそらくはつい先ほど、高雄達も通り過ぎた道端の屋台で購入してきたのだろう。
「なるほどな……それで簡単に追いつけたのか」
彼女の様子を見ただけで、高雄は自分達が労せずして彼女達に追いついた理由を把握できた。
「いやぁ、気付いたらタカ達がだーいぶ後ろにいるって分かって、ただ待ってるかのんびり歩くってのもなんだかなぁって思ったからな。あとハラ減ったし」
見た感じでは苛ついていた様子で、四人の中で先頭を切って歩いていた深雪がよく榛名を置いて先に行かなかったなと高雄は思ったのだが……呆れ顔で榛名の横を行く深雪に訊いてみたところ、「今の榛名を見てたら、イライラしてる自分が馬鹿馬鹿しくもなるわよ」とのことで、妙な形ではあるが彼女のご機嫌ななめはどうにか消化されたらしい。
一行の空気を変に緊張させる要因が去ってくれたことに、高雄は人知れず胸を撫で下ろした。
「……朝日。どうかした?」
しかし合流して再び歩き出した時、何があったのか今度は朝日がその動きを止めていた。
まばたきを忘れてしまっているらしい朝日の視線の先には、抱え込んでいるたこ焼きの山を絶賛消費中な榛名の後ろ姿がある。
「先輩。あれだけ大量のたこ焼きを見たのは初めてです」
「そう……ね。たぶん作り置きしてあった分と新しく焼いた分、全部買い占めたんだろうな……」
「ご家族へのお土産でしょうか」
「……ん?」
「あれだけの量が有れば、十人程度の一食分には事足りるかと思います。榛名先輩の御宅は大所帯なのですか?」
「……あー。そういうことか」
朝日の推測と疑問はもっともだ――榛名をよく知らぬ人間、普通の人からすれば。誰だってあれだけの量を一人で食べきるために買ったとは思えないだろう。
しかし相手が普通じゃない。対象が葛城榛名だという時点で、常識というものさしで測ろうとしてはならないというか、測れない。
「えーっと……あのな朝日。残念ながら今現在、榛名は一人暮らしなんだ」
「そうなのですか」
「うん。つまりそういう――」
「では、あれらは知人の方達へのお土産かなにかで」
「ちょい待ち朝日……そうじゃない」
だから高雄は特に隠したり誤魔化したりもせず、朝日に事実のみを伝えることにした。突きつけるというほど残酷なものだったりするわけではないのだが、彼女の中に蓄積されてきた現実感なり価値観を多少なりとも崩してしまうことにはなるだろう。
「あれはお土産じゃない……榛名一人用だ」
「はい?」
彼を見上げる朝日の視線は、困惑の色を見せていた。言葉にするなら「何を言ってやがるんですかあなたは」といったところだろうか。
「すみませんが、その冗談はちょっと笑えないかと」
「……残念ながら真実なんだなコレが」
「ありえません。あれだけのたこ焼きを、榛名先輩お一人でなど――」
頑なに認めないというか、認められないといった様子の朝日であったが……そんな会話から数分後に榛名が見せた行動に、彼女は足元から崩れるような衝撃を受けることになった。
「……ポイっとな」
「――っ!?」
商店街の入口、人気のないこぢんまりとした広場に設置されたゴミ箱。
榛名は満足げな表情を浮かべながら、先ほどまで手にしていた大量のプラスチック容器を全てその中へと放り込んだのである。もちろんそれら容器の中身は綺麗さっぱり失くなっていた。残っているのは透明な容器の底にこびりついたソースと青のりくらいなものである。
「あー。美味かった」
「相変わらず食べ終わるの早いわね……もう少しちゃんと噛んで味わったら?」
「ん? ちゃんと味わってるぞー。タコが二つ入ってるのもあったしな。もうけもうけっ」
先を行く榛名と深雪はいつも通りな彼女達の会話に興じているが、背中越しに事の一部始終を目撃した朝日は驚愕のあまり固まった……それが三人の様子を見ていた高雄の見た景色である。
朝日は即座に、そのゴミ箱へ駆け寄った。そしてたった今自身が見た光景に間違いがなかったことを確認し、再び静かに驚愕するのだった。
「先輩。中身が――たこ焼きが消えています」
「……今頃は榛名の胃袋の中で踊ってるよ」
あまりの衝撃に、めまいすら覚えたのかもしれない。
高雄の主観ではあるが、ゴミ箱からゆっくりと離れた朝日の足元が少しふらついているような印象を受けた。紳士でも気取るなら即座に手を伸ばして肩を支えてやればよかったのかもしれないが……いざ倒れたりなどした時に備えて彼女の近くに体を寄せるのが精々というのが、年頃の男女間における難しさというものだ。
いや、単に高雄の心中での天使と悪魔の闘い……理性と恥じらいのせめぎ合いというだけでもあるが。
「あの量をお一人で、それもあれだけの短時間で――」
「信じられないのも無理ないけど、そういうことなんだよ……あ、悪いけど理屈を聞かれても『榛名だから』としか答えられないから」
「そう、なのですか」
「おーい! 二人ともなにしてんだぁ? 早く来いよぉ。置いてくぞー!」
ふと前を見れば、再び榛名達との距離がだいぶ空いてしまっていた。とりあえず「すぐに行く」と返事をした高雄だったが……隣を歩く朝日の足取りはどうにも重く、混乱状態から未だ抜け出せぬようで額に手をあてていた。
「大丈夫か朝日? 頭痛とか吐き気とか……」
「い、いえ。平気です――行きましょう先輩」
この程度のことは見慣れてしまっている高雄からすれば調子を狂わされ過ぎではないかと一瞬思ったが……温室育ちがアマゾンの片鱗を見せられたようなものだ。ショックなのも理解できるし、こうなっても致し方ないだろう。
(……大丈夫かな)
「先輩、どうかしましたか?」
「え、いや、なんでも……ないこともない、かな……」
現状ですら軽くショックを受けている朝日が、この先榛名の振る舞いを見て耐えられるのかという心配事が高雄の中に芽生えていた。
たしか図書室を出発しようという時、榛名が「ケータイ買ってからメシ食っても……」と発言したことを覚えている。
(まぁ、なるようになるっていうか……どうにかするしかない、か……)
ケセラセラの精神。
普段は受動的で事なかれ主義な高雄だが、何も起きないということはあり得ない。まして身近に榛名のような友人がいれば、それは特に著しい。
しかし関わった以上……自分に責任が発生した以上は、嫌々でも最後まで付き合おうとしてしまうのも彼の性格なのであった。ちっぽけで中途半端な良心だと他人は笑うかもしれないが、それもまた彼という人を象る要素の一つなのだから仕方がない。
「――先輩?」
「あ、ごめん……行こうか」
「はい」
追い風の方向へ。身をかがめたくなる冬の風に背中を押されるような感覚を覚えつつ、高雄は朝日と共に再び、深雪と榛名の元へ駆け寄る。
最初の目的地である携帯電話ショップは、もう目の前だった。