Fennel 3
意味がわからない話だから、読む価値などない――そう切ってしまうのは簡単である。
しかし今の彼には今日までの彼女と同じようにその本、その話が――彼女の言葉を借りれば「存在する意味」はどこにあるのだろうかと、気になってしまっていた。これも朝日が口にしていたが、一度気に掛かるとどうしてもその答えを求めてしまうタチは、高雄にも少なからずあてはまるところがあるわけで。
「……あ」
およそ数分間。カウンターとテーブルの間を行き来し、室内の本棚外周をぐるりと一周しかけた時のことである。彼は脳内に――喩えるなら、小さな電流が走った感覚を覚えた。天啓とまではいかないかもしれないが、彼なりの答えを閃いたのである。
けれど高雄は手放しで喜んだり子どものようにはしゃいだりはせず、それまでと同じように落ち着き払った様子を保ちつつゆっくりと朝日のもとへ歩み戻った。
「朝日。ちょっと考えたんだけどさ」
「なんでしょう?」
「少し……違った考え方をてみたらいいんじゃないかな、って」
無表情でありつつもきょとんとしている様子の朝日へ、高雄は彼なりの推測を提案してみる。それは現段階では仮説もいいところだろうが、互いにとって現状へのヒントにでもなれば、という思いだった。
「その、童話ってさ。前に朝日が言ってたような目的もあるけど、どんな話でも何かしらの教訓になることが多いじゃない? だったらこの話にも……何でもいいんだけど、何かタメになることが書いてあるんじゃないかなって」
「この話にもですか?」
朝日は顔にこそ出さなかったが、「そんなバカな」と言わんばかりにページ上の文字列を再び読み返し始める。高雄はその様子を見守りつつ、その時間を利用して……頭の中に浮かび泳ぐ自分の考えと推測を、どのような言葉にしていけばいいかを整理し、落ち着いたところで再び口を開いた。
「うーんと……なんていうかこの話、そのまんま読み取ると『兄妹は青い犬を見つけられず、母親は亡くなってしまったのかも』っていう、どうにも報われないただのバッドエンドで終わるでしょ」
「そのように書いてありますが」
「たしかにこれだけしか書かれてないけど、このお話から何か教訓を得ようとしたら……どこだと思う?」
諭される形となった朝日はもう一度目の前の本へと視線を移し、何度も読み直しながら答えた。
「やはり『青い犬』など、実在していないのだ。ということでしょうか」
「いやまぁ、そこはフィクションの童話だから……別に『青い花』でもかまわないんだろうし」
「違いましたか」
高雄が意図した答えとあまりにもかけ離れた道すじを辿ってしまった朝日は、これでもかというほどページ上の活字へと目を走らせる。じっくりと、素早く、何度も何度も。
しかしどうにも彼女なりの答えまではたどり着けない様子で、とうとう彼に助け舟を請うのだった。
「先輩はどうお考えですか」
「僕?」
「はい。正直なところ、今の私にはこれ以上の答えが見つかりそうにありません」
ぶれることなくジッと彼を見つめてくる朝日の視線がなんだか気まずく、どこか恥じらいも感じ、高雄はそれを避けるように本へと目を向ける。
同時に、ひょっとしたら朝日は「物事の裏側を読み取ること、深読みをすること」が苦手なのかとも思えた。
これまでに読破してきた本数……それらの内容の難しさも、彼女の読書量は高雄のそれを文字通り圧倒しているはずなのだから。
とはいえ、それを無神経に口にすることなど出来るはずもなく――高雄は彼なりに思いついた推測を答えるにとどまった。
「えっと……この話の元っておそらくだけど、あの『青い鳥』でしょ?」
「ここまで類似しているということは、そうだと思いますが」
「あの話の教訓はさ、幸せは気づかないだけですぐ近くにあるもの……ってことだと思うんだ。それでたぶんだけどこの『青い犬』って話も、同じような教訓を教えるためのものなんじゃないかって思うんだけど」
「この話と、あの話がですか」
フランス生まれの童話劇――『青い鳥』は「二人兄妹が幸福の象徴である青い鳥を探しに行くも、結局のところそれは自分達に最も手近なところにある、鳥カゴの中にいた」という物語である。兄妹が青い鳥を探しに旅立ち、幸せの青い鳥を見つければ病気が治るという要点だけなら同じだが、結末が明らかに違っている。
『青い鳥』では兄妹は母親のもとに帰るハッピーエンドに終わり、一方で『青い犬』は報われた描写がなく物寂しいラストシーンで締められている。読者からしてバッドエンドしか想像出来ないような終わり方だ。
実際に世界中で親しまれている童話の中には、子どもには少々刺激が強いのではないかというほど残酷で、むごたらしい話も数多く存在している。しかし登場人物たちが報われないからといって、必ずしもそこから教訓が得られないということには直結しないはずである――そういった無意識かつ、ある意味ポジティブな気持ちで、高雄はその童話の中身を自分なりに読み取っていた。
「この『青い犬』っていうのは救いのないお話だとは思うけど、やっぱり教訓は『青い鳥』とあまり変わらないと思う」
「と、言いますと?」
「こっちの話だと、結局『青い犬』は見つからずに兄妹は母親とも再会出来ずに終わってるでしょ。母親が病気で亡くなっちゃったのかまでは書いてないけど、きっと二人にとっては最後の瞬間まで母親と一緒にいるのが、一番の幸せだったんじゃないかな」
「しかし、だとしたらこの兄弟はその幸せを失ってしまっていますが」
「そう、そこ。そこなんだと思う」
「はい?」
高雄は彼女の発言にビシッと反応し、今度は特に恥ずかしさや緊張を感じることはなく朝日へと視線を向け直した。しかし当の朝日はというと、彼が見せた反応と指摘の意味がわからないらしく、無表情のまま目をぱちくりとさせるだけであった。
「あくまでも僕の見解だけど……原作だと兄妹が『自分たちが気付かなかっただけで、幸せは身近なところにあったんだ』ってことが教訓でしょ。この話でも同じなんだと思う……兄妹がその幸せに気付けず、それを失っちゃってるっていうのが原作とは違うところだけど」
「それが、この話の教訓――ですか」
「もう一度言うけどあくまで僕の推測、ね。この兄妹は最期まで母親と一緒にいるのが一番幸せだったんだと思う。けど、それに気付けずに母親のもとを離れちゃって……反面教師じゃないけど、今ある幸せを大事にしろとか、幸せは失くしてから気付くものだとか……そういうメッセージというか、教訓なんじゃないかと」
「なるほど」
(……母親と一緒に……か)
彼女なりに納得したらしい様子を目にしつつ、ふと高雄は物思いに沈んだ。
自分が口にしたことだが、やはり子どもにとっての幸せとは彼らの親と共に過ごすことだろうか、と。
自分が考えた答えだったが、それが当てはまらない自分は不幸なのだろうか、と。
そして幼くして両親を亡くしたらしい朝日はどう思い、どう受け止めるのだろうかとも。
「先輩、すごいです」
心の中、自身の内へと入り込んでいた高雄をすくい上げるように発された朝日の返答。
彼女はもう、手元の本へ目をやることはなかった。今の彼女の視線は、ただ高雄にのみ食い入るように向けられている。
それは威嚇や軽蔑とは程遠い――外見こそ最初と変わらぬが、その視線には尊敬や敬慕……そういった熱を持つ感情が乗せられていた。
「え――でも僕の……なんていうか、ひねくれた考え方というか、強引に考えたというか」
「そうだとしても、先輩は先輩なりの答えを得ています」
彼の主観ではあるが、心なしかその時の朝日の瞳はそれまでよりも柔らかな雰囲気をかもし出しているように見えた。
そしてふと、彼女は視線を落として本の表紙を指先で撫でた。表情は変わっていないはずなのに、その様子はどこか名残惜しそうにも感じられる。
「私だけではそんな答えは得られませんでした」
「いや、でもそんな大したことじゃ……」
「いいえ」
無意識に謙遜の言葉を口にした高雄を見上げる形で、再び朝日の視線が向けられる。吸い込まれそうになる雰囲気に高雄は思わずおののきを感じるが、彼女は彼を見据えたままで続けた。
「私には出来なかったことを、先輩は出来ました。それもずっと短時間で、です」
「……まぁ、そうだけど」
「これは嘘でも下手な煽てでもなく、事実です。ですから先輩は誇っていいと思います」
「はぁ……」
おそらく素直に褒めてくれているのだろうが、高雄は少々困惑した――だけどそれも仕方ない。無表情に加えて感情の感じられぬ声で褒められれば、誰だって手放しでは喜べはしないだろう。
もちろん彼も悪い気はしないとはいえ、それを自慢気に誇るなどという気は全く湧かなかった。
「と、とりあえずありが……とっ?」
彼は面食らい、背筋が伸びた。
姿勢を崩して明後日の方向へ体を向け、朝日から目を離して数秒。
お礼の言葉を一応は返しておこうと振り向いた時――彼女はいつの間にか椅子から立ち上がり、ぱっちりとした両の瞳で彼の顔をジッと見つめていたからである。相変わらず冷たいようでいて引き込まれる目線だ。
「先輩。お願いがあります」
「は、はいっ……?」
既視感があった――そう、朝日から初めてその本を借りた時の状況と似ていた。
もっともあの時と比べれば彼女という人について多少は理解が進んでいる……はずなのだが、やはり彼女が次に何を言い出すのかという想像は高雄にとって未だ容易ではない。だから変に緊張して身構えてしまうのだ。その様子は傍から見ればまるで片想いともとられかねない反応だったかもしれない。
「この本の、最初の話については理解が出来ました。おかげで先の話に進めそうです」
「そ、そう……それはよかったけど」
「私もまだこの先はしっかりと読んでいないのですが」
朝日は言葉を続けながら、ただでさえ近い彼との距離をさらにグイと詰めてきた。もはや接触寸前だ。後ずさりこそしなかったが、高雄の心拍数は上昇する。
「先輩さえよければ、一緒に読み進めてもらえませんか」
「えっと……その本を、一緒に?」
「はい。無理にとは言いませんが」
彼女が胸に抱いていた本へと目を向ける。安っぽく、薄くて、小さな本だ。それを小柄な朝日が抱えているのは正直、似合っていた……ミニチュアの食器や、小道具を手にしたドールでも眺めているような気分とでも例えようか。
そんな不思議で、不快さとは無縁な気持ちに揺さぶられながら、高雄は彼女へと返答を返す。
「その……朝日がいいって言うなら、僕はべつに」
「本当ですか」
「……こんなことで嘘ついてもしょうがないって」
「それもそうですね」
何か思うところがあるのか、朝日は視線をやや落として右手の人差し指を自身の唇へとあてた――親が子に「しーっ」と、黙るよう悟す時のジェスチャーに似ていた。その行動が彼女にとって何かを考える際の癖であることくらいは、高雄もさすがに気付いている。
時が静止してしまったような錯覚を覚えたが、実際には十秒ほど。ようやく考えに至ったらしい彼女はフッと視線を戻し、小首を傾げながら彼に尋ねた。
「握手、でしょうか」
「……はい?」
「こういった協力を承諾してもらえた時の、とるべき行動です」
「………………」
どこからそういう考えに至ったのか今は気にしないことにして、ズボンの裾で擦るように手のひらを拭いてから高雄は右手を差し出す。
少しの緊張感を抱いている高雄と違い、異性との肌の接触など気にもとめていないのか。朝日は平然とした様子で彼の手を握り返してきた。
二人だけの誓い……というより、協定と言ったほうが近いかもしれない。
彼らしか知らず、それでかまわないその小さな約束は、こうして結ばれることになった。
「えーっと……よろしく、でいいのかな?」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いします」
彼女は指の関節を屈させてしっかりと手を握ってくれたが、彼にはそれが出来なかった。照れや恥じらいなどといった感情が顔に出ないよう努めることが、精一杯だったのだ。
同世代の女子と比較しても小柄な……彼女らしい、小さな手。
もしかしたら彼の体温が高かっただけかもしれないが、彼女の手は意外にもひんやりとしている――けれど、女性特有のと言っていいだろう柔らかな肌の感触。それを実感すると共に、彼は自身の体温が沸騰するかの如く上昇するような感覚も覚えるのだった。