Boronia
季節は冬。
いつの間にか意味が履き違えられて恋人たちの祭典となったクリスマスが過ぎ。コタツにミカンでのんびりと過ごす正月を越し。またしても恋人たちの祭典であるバレンタインも視野に入ってきた二月の初め。
時刻は放課後、夕方前。彼こと、赤城高雄は学園内の図書室にて読書に勤しんでいた。
市内唯一にして中高一貫のマンモス校である、ここ『呉野学園』の高等部一年生……それが彼という人間の、現在の肩書きである。
「……暇だ」
なぜ図書室なのか。答えは簡単だ――彼が図書委員だから。そして今は図書委員の受付当番としてカウンターの中に座っているという、実に当たり前な理由からである。
おまけにこの場所はストーブを完備している。窓の外で極寒の風が吹きすさぶ中、室内プラス暖房器具というのはそれだけでもう極楽浄土。それに加え、この場所は非常に静かである。その静寂さは心地よく、本の中に広がる世界へ没頭するにはうってつけだ。
いや、図書室だから静かなのは当たり前だというわけじゃない……閑散としており、彼以外に誰もいないのだ。もっともそんなことは今に始まったことじゃなく、彼にとってはもう慣れたものであった。
「……暇だなぁ」
彼は誰に話しかけるわけでもなく、もう何度目かわからないその言葉を思わずつぶやいた。
だからといって状況が変わるわけじゃない。そんな魔法が存在するならば、彼自身知りたいものである――広げていた本を閉じて、あくびを一つ。
受付は人が来ないためにやることが無く、本棚の整理はそもそも本が動かされていないのだから必要ない。新しい本の入荷などまだまだ先の話。いつものことではあるが、本当にやることが無かった。
彼は何をすればよいか少々悩み、結局何の答えもでなかったので引き出しからトランプのセットを取り出してその作業を始めた。委員として不真面目だと目くじらを立てる人もいるだろうが、精密機械じゃないのだから四六時中マジメに振る舞っていては疲れ果ててしまう。たまには息抜き位いいだろうということだ。
「今日は三段目まで行きたいですねー……っと」
指先に細心の注意を払い、彼はトランプでタワーの建設を目指してカウンターの上にカードを立てていく。
図書委員というのは暇なのだ。他の学校は知らないが、少なくともこの学園に限っては忙しいという言葉とは程遠い。
この図書室に人が来ることは稀であり、受付の当番として毎日ここへ来る彼以外、誰も寄りつかないのがもはや日常――そのため委員としての仕事もほとんど無いに等しいのだが。
「二段目完成……っ」
震える手先を気合で黙らせ、いよいよ緊張感高まる三段目へと突入した瞬間だった。
本を読みに来る者など皆無な図書室の扉が、レールを外れそうなほどの勢いでもって開かれたのである。底抜けに明るい女子の声と共に。
「うぃーっす! 遊びに来てやったぞタカー!」
「あ――っあああああぁぁぁ……!」
現実は非情である。どれほどの努力をして、それが報われるとは限らない。懸命に積み上げたものが、気まぐれな風によって吹き飛ばされることもままある。
たとえば、彼の目の前で崩壊したトランプのタワーのように。
「ぼ、僕のスカイツリーがああぁぁ……!」
「なーにをこの世の終わりみたいに叫んで……なんだぁ? 一人で神経衰弱でもしてんのかオメー」
もはや怒る気力すら失せ、彼はただ深いため息をつく。
不可抗力だ。目の前の女子には悪意は無いのだから――まるで修行僧のように自身にそう言い聞かせて。
だけど少しだけ不機嫌そうに答えてしまうのは仕方ないだろう。
「ハルナさん……何をしにいらっしゃいやがったんですか」
「んだよ、その言い方。用がなきゃダチのトコに来ちゃいけねぇっての? 冷たいねぇお前さんは……」
やれやれというジェスチャーの後に、彼女は手にしていたハンバーガーをひと口でたいらげる。
片手に提げている巨大な紙袋。その中には彼女がたった今食べ終えたのと同じ物がぎっしりと詰まっていた。
「いや、そんなつもりは……っていうかいいの? 生徒会長がこんなトコで油売ってて」
「まだなってねぇんだから頭に新をつけろって。いいんじゃねぇの? 生徒会室で待ってたところで、どーせヒマなんだし」
「あっそ……」
適当な受け答えで会話を切り上げ、高雄はカウンター周辺に散らばったトランプ達を拾い集めていく。
すぐさま拾うのを手伝ってくれたのは、彼女の素の優しさからだろう。
出来れば扉を静かに開けるとか、彼としてはそっちの方で気を使って欲しかったのだが仕方ない。
「ほい。これで全部か?」
「みたい……だな。ありがと……で、それは一体なに」
傍らに置かれた、いい匂いを漂わせるハンバーガー満載の紙袋を指差して高雄は尋ねた。
そんな彼に、彼女はきょとんと真顔で答える。
「オメェ……目、大丈夫か? ハンバーガーに決まってんじゃん」
「そんなことは訊くまでもなく分かってる……僕が訊いてるのはだな」
「ああワリぃ。そういやチーズバーガーも半分くらい混ざってたわ」
「そこじゃないって……質問してんのはさ、なんでそんなに大量に、それもこの場所に持って来たかってこと」
質問し、それに答えながらも彼女は食べるという行為にストップをかけようとはしない。
それを止めたら死ぬとでも言うかのように、包みを広げては食べる動作を繰り返していた。
「大量ってまた大げさな……小腹が空いたから買って来て、ヒマだったから食べながらここに来ただけだっつの」
「小腹……ねぇ」
喋りながら食べ続ける。いや食べながら喋っているのだろうか。
まるで豆菓子でもつまんでいるかのような軽快さで……常人であれば一、二個で充分主食になるであろうそれを次々に飲み込んでいく。
もはや咀嚼しているのかすら疑わしいスピードであった。
「一応、図書室内では飲食禁止なんだけど」
「いいだろべつに。読みながら食べてるワケじゃねぇし、ゴミはちゃんと片付けるからさ」
「しかし生徒会長が校則を守らないってのも……」
「新をつけろっての……かてぇこと言うなって。あれだ。会長特権の前借りってやつだ」
自分が言った台詞が面白かったのか、彼女はケラケラと笑い、そして食す。
彼女はいつもこうなのだ。食欲旺盛で天真爛漫。彼女のために生まれた言葉ではないかと思えてしまうほどだ。
葛城榛名というその女子生徒は、高雄より一つ上の先輩にして幼少時からの幼馴染である。
そして彼らの会話で話されるようにこの春から彼女は最上級生となり、さらに高等部の新たな生徒会長となることが決定している。
同年代の平均身長内に納まっている高雄を軽々と越える、百八十センチ近い高身長。
がさつで喧嘩っ早く、並の男子よりもよっぽど男らしいかもしれない。
けれどその見た目は内面に反比例するかのように実に女性のそれである。
腰まで伸びる、彼女の元気さを現したようなハネ気味の茶髪。
パッチリとしていて凛々しい表情を良く映す瞳。高身長と相まってモデル顔負けのプロポーション。
高雄と一年しか違わない年齢でありながら、既に外見のあらゆる要素が大人の女性として固まっていると言っていい。
無論、外見のみで生徒会会長などになれるほど甘くはない……けれど彼女はまるで人の上に立つために産まれてきたのではと思うほどの、天性のカリスマとでも言うべき厚い人望を得ていた。
それに加え、これまた天性のと言える生徒会期待のブレーンまでが彼女の味方なのだから、学園内選挙での勝利は約束されていたようなものである。
「なんだよタカ。なんか元気ないぞ? ……あ、もしかして腹減ってんのか。食うか?」
「いや、いい。ハルナを見てるだけで、もう胃もたれしそうなほど……」
「ハンバーガーのピクルスと、チーズバーガーのピクルス、どっちがいい?」
「両方もれなくピクルスじゃないか……ありがとう。いらないよ」
「そっか……だったらさ、遊ぼうぜー。暇で死にそうなんだよあたい」
会話を切り上げてトランプ片手にカウンターへと戻ろうとする高雄だったが、彼女がそれを逃がすはずがなかった。
カウンターにうつぶせて、まるで幼児のように駄々をこね始める。これもまたいつものことではあるが。
「ハンバーガーに夢中になってればいいんじゃないの?」
「じゃあ食べながら遊ぼう。よし決定っ……ババ抜きからいくか」
気付いたときには高雄の手からトランプの束は姿を消していた。ハンバーガーを食べるという行為は持続しながらも、気付かれることなく瞬間で奪い取るという――まるで忍者のような気配の消し方だと高雄は思い、そしてため息をつく。
「はぁ……いいの?」
「あん? 何が……あ。実はお前、『トランプの魔人』とか巷で噂されるほどで、そんな俺の真の実力を出していいのか? とかそういう……」
「どんな魔人だ……違うって。生徒会の会議か何か脱け出して来たんでしょ? ここで遊んでていいのかっていう意味だよ今のは」
「あたいがいなくたって問題ねぇだろ。ダメだったら探しに来るだろーし」
追いかけられる前に仕事するべきだろうと、誰しもそう思うだろうが高雄はそう言わなかった。
彼女は昔からそういう人だ。自分が思ったこと、やりたいことを好きにやってきている。
そしてそれに対する叱責すら楽しんでいる印象である。けれどその実、いざという時には彼女ほど味方になれば頼もしいと思える人間もそうはいないだろう。
注意だけはされないよう、最低限のことは――最低限のことしかしない高雄にとっては、少なからず憧れを抱いていた部分ではある。
しかしそんな憧れも、今ではもう彼は諦めた。
自分は自分、彼女は彼女だと。彼の中ではそれでいいということにしてある。
「――んじゃ始めっか。まずタカが『ババ』な」
「……すみませんがババ抜きのルールから勉強し直してもらえますかね」
「んじゃあ『ババ』無しのババ抜きすっか?」
「それもうゲーム違うから……ババ無いから」
「――っコラァ! やっぱりここにいた!」
出入り口方面から突如響いた少女の怒号に、二人とも身体を強張らせて振り向いた。
静かな室内に雷鳴を走らせ、二人の耳を軽く痺れさせたその女子生徒。
乱れなく足元へ伸びる長髪をなびかせ、彼女は眉間にシワを寄せた険しい表情のまま、彼らのもとへと歩み寄っていった。