Fennel
翌日の放課後も、彼と彼女の行動は変わらなかった。
図書委員の当番として図書室にやって来た高雄と、読書のために同じく図書室へとやって来た朝日。
彼らは待ち合わせたわけでもなく図書室前の廊下でいつものように再会し、手短な挨拶を済ませ……カウンターの向こう側とテーブルの端という、両者にとっての定位置へと鞄を下ろす。
けれどそこから先の行動は、いつもと違っていた。
高雄が鞄から取り出した物は二つ。彼女から預かった本と、彼女の祖母から受け取り……ありがたく完食させてもらった、お弁当の重箱である。
「朝日、これ……」
その二つの荷物を持って、彼は彼女のもとへと向かう。
これまでの人生において風呂敷包みなど未経験だったため、「お返しするときはこの包み方でいいものか」と小一時間ばかり悩んでしまったことは、自分の胸にしまって墓まで持っていこうと思う高雄だった。
「えっと、まずはこっちかな……どうもごちそうさま」
口と姿勢で礼をし、とりあえずは右手に提げていた包みを朝日の前へ差し出す。両手で受け取った彼女が華奢で小柄なせいか、彼はまるで自分が持っていた時よりも重箱の包みが少しだけ大きくなったかのような錯覚を覚えた。
「一応洗って、乾かしてあるから……あ。言っておくけど壊したりとかはしてない――はず。慎重に持って来たし……」
「いえ、そこは心配していません」
それなりに信頼されているのか、それとも高雄から見たら高級そうな重箱でも、彼女にとってみればどうでもいい事なのか。朝日は包みを開けて中の状態を確認することもせず、静かに自身の鞄へとそれをしまった。
「それより、お口に合いましたか?」
「え、あ……うん。舌が幸せでした」
「なら、よかったです」
器である重箱の豪華さに引けを取らない、絶妙な味付けの中身について高雄は思いつく限りの賛辞の言葉を並べる。感想については、彼女の口から春日へと伝えてもらえるとのことで、彼は安心することができた。
念のため、高雄は何かお礼の品を持参した方がいいかと訊いてみたが……最初に迷惑をかけたのはこちらなのだからと、丁重にお断りされてしまっては仕方がない。ひとまず彼はそれ以上食い下がるのは止めておくことにした――途端、朝日がハッと何かに気づいたらしい。
「先輩。迷惑という言葉で思い出しました」
「えっ……な、なにかご迷惑だった?」
「いえ。後頭部のお加減について、訊ねるのを忘れていました」
「あ、ああ、そっちか」
そう言われて高雄は、あらためて自身の後頭部を撫でた。
電柱にぶつけた際にできたタンコブは昨日より腫れが引いているとはいえ、未だにぷっくりと彼の頭皮に居座っている。だが殴られた左頬も含め、包帯や氷袋をあてておかなければならないほどの大事には至っておらず、彼は何も装備しないフリー状態で今日一日を過ごしていた。
さすがに強く触れれば少しの痛みは走るが、日常生活に支障が出ているわけでもない。まして朝日が……少しだけ期待していたのかもしれなかった、記憶喪失や未知の能力の開花といった現象も今のところはみられていない。もちろんそんな現象が現れたら、それはそれで困ってしまうが。
「まぁ、大丈夫だと思うよ。冷たくならず無事に朝を迎えられたし、今だってクラクラしたりしないし」
「そうですか」
ともすればため息にも似た、おそらくは安堵による吐息を朝日が吐いたことに高雄は気づいた。これまでも、そして今この瞬間まで彼女は終始変わらぬ無表情しか見せていないが――やはり彼女にも感情、他人への関心といったものはちゃんと存在しているらしいと、彼は再認識する。
「えっと、それでさ。この本のことなんだけど……」
「読みましたか」
「は、はいっ……約束通り、栞のページだけ」
やはりそうだ。朝日は表情に出ないだけで、ちゃんと感情はある――差し出した本に対する、彼女の身を乗り出すような食いつきぶりから、彼はそう実感した。
そして毎回ではないとはいえ、彼女のそうした態度に動揺して怯んでしまう自分が少しだけ情けないのではと感じながら、どうすることも出来ないのもまた彼であった。
「と、とりあえず返すよ。ありがとね」
「はい。といっても、正式には私の本ではありませんが」
「まぁ……僕にも読ませてくれたことに対する、お礼ってことで」
「わかりました」
応対を一段落させたらしい朝日は、視線を手元の本の表紙へと向けて、ジッとそれを見つめている。
そうして、もはや何度目か分からぬ……無言にして無音の時間が、彼らの間に流れる。一人でいるときよりも複数人の時に訪れる静寂の方が格段に息苦しいものだ。高雄は見えない重りを背負っているような感覚を覚えた。
はたして何か行動を開始していいものかと彼が考え始めた頃に、その静寂を終わらせる発言が彼女の口から飛び出してきた。
「質問してもよろしいでしょうか」
「ど、どうぞ?」
「この本を読んでの、先輩の感想をお聞きしたいのですが」
気づけば彼女の視線は、再び高雄へと向き直されていた。彼女独特の雰囲気に飲み込まれそうになりながらも、高雄はどうにか踏みとどまって答える。
「僕の感想?」
「はい」
「って言っても……僕は評論家とかじゃないし」
「私もそうです」
朝日はそう言って、その本の表紙をめくる。開かれたページは栞が挿まれた見開きの――高雄も昨夜に目を通した、その本最初の見開きページだ。
「先輩が昨日の約束を破らなかったのなら、私たちは同じページまでしか読み進めていないことになります」
「そうなるな……っていうか、そこは疑ってないんだ?」
「疑っても仕方がありません」
信頼されている証拠かと思い、高雄は一瞬の嬉しさを感じたが……単に彼女が合理的なだけかとも思い直し、手放しで喜ぶのは止めておいた。
「私と同じページまで読み進んでいる先輩が、どのような感想を抱いたのかを教えていただきたいです」
「……正直に言っていいんだな?」
「正直でない感想を貰っても意味がありませんので」
なるほど正論だと高雄は思い、何も包み隠さずに伝えることを決意した。
その場の空気は、まるでこれから離婚協議を始めようとする夫婦のようである。
「わかった。じゃあ正直に、一言で言わせてもらおう」
「カウントダウンでもした方がよろしいですか?」
「……そういうのは、いいや。ただ聞いてくれれば」
「そうですか」
途中で少しだけ緊張感が削がれたが、高雄はひと呼吸おいてから――彼が昨夜その本を読んだ時に抱いた感想を、一言という範囲内に出来る限り再現して口を開いた。
「……なんだこりゃ」
「ですよね」
朝日は即答で彼に同調した。
高尾の発言を吟味する暇も用いなかったというのが、彼女もその本に対して全く同じ感想を抱いた証拠のようなものだ。
「朝日もそう思ったか……」
「はい。私も同意見でした」
互いの感想が相違無いものであったことを確認すると、彼らはどちらからともなく――『「?」の童話』という名の、その本のページへと視線を向けた。