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Ranunculus 6

「お待たせしました。ささっ、どうぞお乗りになってください」


「は、はぁ……」


 長い長い廊下を歩き、独身者ならこの空間だけで充分生活出来るんじゃないかと思えるほどに広い玄関を出た先に、すでにその車はエンジンの震動に身を震わせながら停まっていた。正勝が後部座席のドアを開け、高雄が乗り込むのを待っているが彼の足はどうにも進まない……だがそれも仕方がないだろう。

 そこにあった車はたしかにあの時、商店街の前に停まっていた――高雄と朝日をこの家まで運んできた車と同じである。同じではあるのだが、今こうして車体全体を確認すると、やはりとんでもない車であったことが改めて把握できた。


 ――メルセデス・ベンツ。

 いくら車に詳しくない……まして高級車になど乗った経験のない高雄でも、その車がどれほど高価で、自分のような庶民では車体に触れることすらおこがましいような車種であるかは容易に理解出来た。

 言葉を失っている彼にそのボディを魅せつけているかのように、黒い表面塗装は鮮やかに光を反射し……ベンツのエンブレムとして知られる『スリー・ポインテッド・スター』がその名の通り、星のように輝いていた。


「……あの、ホントにこれ、僕が乗っても……?」


「何をおっしゃいますか。当たり前ですよ……さっ、どうぞどうぞ」


「は、はい……じゃあ失礼して」


 命綱なし、スタントなしで高山のつり橋を渡る気分だった。もし間違って車体に傷でもつけようものなら、明日の朝を迎えられないかもしれない。

 高雄は神経がすり減るほどの緊張感を持って、これ以上ないほど慎重に後部座席へと乗り込む。その様子たるや、まるで未開人が初めて現代の文明に触れたかのような好奇心と怯えようである。乗り込む直前に「靴は脱がなくていいのか?」と質問したが、気にしなくていいらしいので土足のままである。

 そしてドアを閉めてから、正勝も運転席へと乗り込む。その際に車内が地震のように少しばかり揺れたが、この車を見たときの驚きに比べれば些細なものだ。


「それで高雄さん、ご自宅はどちらで?」


「あ……えっと、商店街前の交差点を――」


「――ああよかった。間に合いましたか……」


 間もなく発進しようとしていたまさにその時。霧島宅の玄関扉が開き、急ぎ足で出てきたのはその手に何やら包みを持った春日であった。正勝が慌てて車を降り、彼女を出迎える。


「春日様。どうなさいました?」


「これを高雄さんにお渡ししようと思いまして……」


「……僕に、ですか?」


 笑顔と共に春日から手渡された、四角い風呂敷包み。両手で受け取るとそれはよほど中身が詰まっているのか、大きさよりずっと重みが感じられた。


「えっと、これって……?」


「たいした物じゃありませんが、煮物などいくつか詰めておきましたので……よろしければ召し上がってくださいな」


「そ、そうですか……わざわざすみません。ありがとうございます」


「いえいえ、何のおもてなしも出来ずに申し訳ございません。本当でしたらお夕飯でも召し上がっていただきたかったのですけど……何しろもうすぐ主人が帰って来る頃でして」


 春日にとっての主人ということは、朝日にとっては祖父ということになる。霧島家の家族構成の全ては知らないが、その人はきっとこの家の主みたいなものなのだろうなと高雄は想像した。


「なんだか慌ただしいところをお見せしてしまって、お恥ずかしいですわ……もしよろしければ、またいらしてくださいな」


「あ、はい……」


「では正勝さん。あとはお願いしますね……道中お気をつけて」


「かしこまりましたっ! ……では高雄さん、参りましょうか」


 その言葉で正勝はさらに張り切った様子である。

 そして二人は再び車へと乗り込み、発進し、正面門をくぐる――やがて姿が見えなくなるその瞬間まで、見送る春日の顔から穏やかな笑顔が消えることはなかった。


 ゆっくりと住宅街を行く車の中で、高雄は後部座席から外の様子を眺め……とりわけ、霧島家の全景を見て今日何度目か分からぬ驚きを覚えた。

 家が何件だとか、そんなレベルの話ではなかった。敷地内に体育館やホールがどれほど建設出来そうかという……それほどの敷地面積である。一体何をどうすればこれほどの屋敷を建てられるのか、今の高雄にはとても想像出来ない。


「……正勝さん、ちょっと聞いていいですか?」


「へいっ! なんでしょう?」


「春日さんが言ってた主人って……朝日のおじい――そ、祖父さんですよね?」


「ああ。旦那のことですかぃ」


「その、どんな人……あ、いや、どんな方なんですか?」


「んー……そうですねぇ……」


 正勝は片手を顎にやり、どのように答えたらいいか考えている様子で――高雄からすれば両手をハンドルにやって安全第一で運転して欲しかったが、車が蛇行などはしなかったので何も言わないことにした。決して悪い人ではないと分かっているつもりだが、余計なことを口走ると小指の一本どころでは済まなそうな雰囲気が未だに拭いきれていない。


「一言で言うなら、『日本男児』ですかね!」


「そ、そうですか……」


 高雄の脳内で、立派なお髭を生やして和服の似合う素敵なお爺様といった……なんとなくではあるが、漠然とした想像上の容姿が形成された。


「とにかく厳格なお方で……少々、頑固なところがありますね。あ、見た目で言いますと立派な髭を生やしておられます」


(ああ……だいたい合ってたんだ)


「あとはそうですねぇ……お嬢をとても大事に想ってらっしゃいます」


「朝日……さんを?」


「ええ。それはもう……目に入れても痛くないとよく言いますが、まさにそんな感じですな。なんせたった一人の孫娘ですから」


 そこまで聞いたところで、高雄はなんとなく理解出来た。先ほど春日が「主人が帰って来る頃」だと言っていた、その真意について。

 たった一人の孫娘――そう、大切な孫娘なのだ。どこの馬の骨とも分からない男子が朝日に近付き、自宅にあがりこんでいるなど――理由や内容はどうであれ、いらぬ心配をしたり問答無用で激怒してもおかしくないだろう。『日本男子』とまで言われる、厳格で頑固なお爺さまとなれば尚更だ。

 おそらく春日は、そうした初対面のトラブルから高雄を逃がしてくれたのだろうと彼の中で合点がいった。


「いやぁしかし高雄さん、なかなかやりますねぇ……」


「え……へ? な、何がですか?」


 霧島家の内情について失礼のない程度に考察していた高雄の意識を引き戻したのは、正勝の口から飛び出した突然のお褒めの言葉だった。困惑する高雄に対して、バックミラー越しの正勝はなぜか嬉しそうな笑顔である。サングラス着用中でも分かるほどに。


「覚えてらっしゃいますか? あっしが早とちりして、高雄さんを殴っちまった時のこと」


「え、ええまぁ……」


 曖昧な返事をしつつ、高雄は包帯越しにプックリと膨らんだ後頭部を撫でる。しかし殴られたはずの左頬は、たいした腫れも痛みも残っていなかった。


「高雄さんあの時、殴られる瞬間に自分から後ろに飛んで威力を殺していたでしょう? ありゃあ素人には出来ない技術ですよ」


「は、はぁ……そうでしたか」


 高雄は顔をうつむける。褒められた喜びより、むしろ恥ずかしさの方が強かった。いくら技術をもって相手の攻撃をいなしていようが、その後の――吹っ飛んだ先の電柱に激突したことを考えればお笑い種にしかならないだろう、と。

 それに、たしかに高雄は自分から後方へ飛び、正勝の放ったパンチの威力を殺していた……だがそれは狙ってやったものではなく、無意識に身体がそうしていただけだ。高雄がそう白状すると、正勝はおおいに笑った。


「狙ってやったんじゃなかったんですかい! いや尚更たいしたもんだ!」


「はぁ……まぁ、昔取った杵柄(きねづか)というか」


「ほほぅ。格闘技か何かの経験でもお有りで?」


「いやその……小さい頃なんですけど、ガキ大将に散々やられていたというか、鍛えられていたというか……」


 自身の幼少時を思い出し、高雄は遠い目をした。

 女の子でありながら地域のガキ大将的存在であった榛名に、深雪と共に振り回されていた日々。「トレーニング」と称して大人でも身体を壊しかねない運動メニューを強要されたり、隣町の子ども達と縄張り争いの戦争に巻き込まれたり……タイマン勝負もこなせるよう、喧嘩の仕方もみっちりと教え込まれた。よくぞトラウマにならなかったものだと彼は心の中で自画自賛する。


「そうでしたか……いやぁ、あの反射神経に身のこなし。ちょっと鍛えればリングの上も目指せると思いますよあっしは」


「そ、それはどうも……」


 どんなに頭を捻って考えてもそのような道を目指す自分の姿が想像出来ないので、高雄はとりあえずお礼だけ口にしておいた。

 そんな世間話をしているうちに、そろそろ商店街前の交差点へと差し掛かった時である。「ちょいと話は変わりますが……」という正勝の言葉を合図に、彼の雰囲気と車内の空気が一変した。


「……突然なんですが高雄さん、二つばかり頼みがございやす」


「は、はいっ……なんです?」


「まず一つなんですが……これからあっしが話すこと、口外しないでいただきたい」


 彼らをとりまく車内の空気は先ほどまでの談笑に適した穏やかな雰囲気ではなく、真剣な話……何かを打ち明ける時のような、少しだけ緊迫した空気であった。「悪い人ではない。悪いようにはされないはずだ」と分かっているとはいえ、高雄の心臓の鼓動も少しだけ激しくなる。


「わ、わかりました……言いません。誰にも」


「助かります。それで、二つ目の頼みなんですが……」


 正勝は車を走らせつつ、後部座席の高雄へと語りかける。黒いサングラスに隠された瞳は、フロントガラスの向こう側を見つめたまま。

 一体どのような話なのか少しだけ怯えながら耳を傾けていた高雄に、正勝は予想外にして拍子抜けしてしまいそうな頼みごとを口にした。


「お嬢と……仲良くしてやってくれませんかね?」


「仲良くって……いやあの、僕達べつに特別な関係とかじゃ……」


「ええ。なにも特別な仲じゃなくったってかまいやしません。ただ普通のご友人ってだけでいいんです」


「普通の……」


 高雄は正勝から受け取った言葉の意味を探す。

 『友人』という関係はなろうと思ってなるものではなく、どちらかといえば無意識に「気付いたらなっていた」というものだと……そういう風に彼の中では曖昧だが定義している。

 わざわざ「普通の友人になって欲しい」と頼んでくる……正勝の発言の真意はどこか。そう言われる朝日は、これまでどんな友人関係を持ってきたのかを、頭の中で迷路のように推測してみる。しかし予想通りというか、朝日について知らないことが多すぎる高雄にその答えを導くことは出来ず、今はただ自分よりも彼女のことをよく知っているであろう正勝の言葉を続けて聞くしかなかった。



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