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Ranunculus 3

(……ん?)


 階段を下りる途中で唐突に、そして静かに朝日はその足を止めていた。

 高雄もそれに気付いて足を止め、彼女に問いかける。


「霧島さん、どうかした?」


「そういえばと言いますか、それです」


「……はい?」


「呼び名です」


「え。なにかマズかった?」


「ワガママかもしれませんが、私は自分のことを苗字で呼ばれるのはあまり好きではありません」


 そう口にして段下の高雄を見下ろす朝日。指を指されたりなどはしていないが、感情を感じられない声色と視線は、それに匹敵するような威圧感らしきものがあった。寒気ほどではないが、気圧される感覚は確かにある。


「それに、よくよく考えてみればあなたは私より上級生です」


「うん……知ってるけど」


「なのに、あなた呼ばわりというのはいささか失礼な気がします。というより、私が耐えられそうにないのです」


「そ、そうなのか……あんま考えてなかったけど」


 彼女には悪いかもしれないが、高雄からすればそんなことは些細で、悪い言い方をすればどうでもいいような問題だった。これまでだって彼女の言う「あなた呼ばわり」を失礼だとは感じなかったし、そんな所にいちいち目くじらを立てるような……そこまで神経質な性格ではないと自負している。

 きっと霧島朝日という少女は、厳しいとまでいかなくともそれなりに良い育て方をされてきたのだろうと高雄は頭の片隅で想像する。高雄を含む、他の誰かから指摘されるよりも前に自分から「これは失礼ではないか?」と考え――言い方はどうあれ、それを申し出てくるというところに彼女の内面を垣間見た気がした。


「それに、今気付きました。私はあなたの名前を知りません」


「ああ……そういえば、そうだったね」


「他人事のように返されても少々困ってしまいますが」


「いやまぁ、僕はべつに今まで通りでも……」


 一向に構わないのだと――高雄がそう口にするよりも先に、朝日は階段を下り始める。そして高雄と同じ段で、その足を止めた。

 十数センチの身長差。いつもカウンター越しに会話をしていた時のように、朝日が高雄を見上げる形となる。


「あなたの名前、教えていただけますか」


「………………」


 高雄は見入っていた。手を伸ばせば届く距離にある藍色の髪、水色の瞳、白い肌と小さな唇に。

 引きこまれていた。幼さが残り、どこか儚げで、けれど神秘的な雰囲気を持つ、霧島朝日という名のその少女に。

 彼が自身の胸の高鳴りと頬の高揚に気付き、穴に埋めてしまいたいような気恥ずかしさを自覚したのは、自身の名を口にしてしばらく後のことである。


「赤城……高雄」


「では「アカギ先輩」でよろしいですか」


「……あ……いや、ちょっと待って」


 数秒ほど呆けてしまっていたらしい。彼が朝日の発言の意味について理解したのは、会話を遮ってからおよそ数秒経ってからのことであった。


「その、奇遇っていうかなんていうか……」


「奇遇ですか?」


「うん……僕もさ、自分のこと苗字で呼ばれるの……あんまり好きじゃないっていうか」


「そうでしたか。失礼しました」


「あ、いやいや。べつに謝ってくれなくても……僕も霧島さんのこと、苗字で呼んじゃってたし」


 知ったうえでの行為ではなかったのだから、本来どちらも悪くはない。

 しかし気に病むほどではなくとも、どちらも気にして互いに頭を下げあった。


「んと……じゃあ、「朝日さん」でいいのかな?」


「朝日です」


 高雄は思わず「え?」と聞き返す。

 謝罪のために下げていた頭を上げた彼女の顔はいつもと同じ無表情であるが、それまでに彼が見てきたものより幾分か柔らかに見えた。


「さんはいりません。「朝日」で結構です。私の方が年下ですし、祖父母からそう呼ばれていますので」


「そ、そう……じゃあ、朝日さ――朝日?」


「はい」


 まるで飼い犬の「お手」のような反応だと思い、彼は思わず微笑んだ。

 だが次なる問題は、彼女が高雄をどう呼ぶかということである――彼は悩んだ。

 苗字での呼び名は除外してもらうとして、二文字の名前だけでも「高雄くん」だの「高雄さん」だの「タカ」だのと呼ばれている。どれにしてもらうべきか、と。

 それについては朝日も同じようで、「どうしましょう」と悩んでいるらしい言葉は口にしていた。もちろん表情に変わりはみられないが。


「うーん……まぁ、朝日さ――朝日の好きなように呼んでもらっても……」


「呼び捨てというのはさすがにですので、あの生徒会長さんを参考に「タカ先輩」というのは?」


「なんかしっくりこないっていうか……そう呼ばれたことがないから……」


「では親しみを込めて「タカちゃん先輩」というのは」


「……なんか馬鹿にされているように聞こえるのですが」


「では「赤ちゃん先輩」と」


「確信犯ですよね? 完全に馬鹿にしてるよね?」


 結局「高雄先輩」という案も出はしたが、双方にとってどうにもしっくりこなかったということで……朝日から高雄への呼び名はただの「先輩」に落ち着くこととなった。先輩と後輩という関係上、最もオーソドックスかつ無理のない呼び名だからということである。何を思ったのか「ターちゃん」なる候補まで飛び出したが、高雄は即答で却下とした。


「朝日」


「先輩」


「朝日」


「先輩」


「朝日」


「先輩」


 二人は互いの呼び名を交互に口にし合った。それは一度や二度ではなく、階段を下りて昇降口へと出るまでの間、ずっと継続してである。

 高雄の「呼び名を耳に馴染ませよう」という提案によるものであるが、事情を知らぬ者が目にし、耳にしたら少し引いてしまうであろう状況だ。現に昇降口手前ですれ違った二人の女子生徒は、「なにしてんだコイツら」という奇異な目を存分に向けてきていた。


「先輩、そろそろ馴染みましたか?」


「そ、そうだね……たぶん、もういいかな……メチャメチャ恥ずかしかったし」


「それは私もまったく同意で、穴があったら失礼したかったです」


(例えまで上品だなこの娘は……)


 人によってはくだらないであろう、そんな話をしながら歩を進めているうちに彼らは校門を抜けた。横断歩道を一つ渡り、角を曲がれば商店街の前へと出る。

歩行者信号が青になるのを待っていた時、高雄は朝日が足元をジッと見つめていることに気付いた。


「……どしたの?」


「先輩、靴紐が」


「……ありゃ」


 高雄は指摘されて気付いた。蝶々結びであったはずの靴紐が解けてしまっており、両端はコンクリート上へだらしなく垂れてしまっている。

 結び直すために高雄がその場でしゃがみ込んだのとほぼ同時に、信号が青へと変わった。


「いいよ。先に行ってて」


「そうですか?」


「こっちのも弛んじゃってるし……終わったらすぐに追いつくからさ」


「わかりました。お気をつけて」


 律儀に高雄のことを待とうとしていた朝日を先に渡らせ、彼はとりあえず目の前の靴紐と格闘することに神経を注ぐ。

 面倒な解け方をしてしまったようで、いわゆる『かた結び』の状態になってしまっていた。夜へと向かう中での寒さで指が悴み、意外と難儀してしまう。途中で指先を暖めつつ、爪まで使ってどうにか両足ともにしっかりと結び終えた時には、すでに信号は赤へと変わってしまっていた。


(あちゃー……まぁ、いいか)


 タイミングが悪いとしか言いようがないが、彼はそこまで気にしなかった。朝日が先ほどまでの歩行ペースを維持してくれているのなら、早足程度で余裕をもって追いつけるだろうと計算したからだ。もちろん彼女が全力疾走でもしていたなら話は別だが、いくらなんでもそれは考えられない。


(よし。オーケーですね……と)


 信号機が再び青へと変わったのを見届け、余裕をもって彼も向こう側へと渡る。焦って転んだりしても情けないし、飛び出して車にはねられるのも避けたい。

 ガチガチに凍った道は慎重に、そうでない箇所では早足で進んでいく。


(ん……え……っ!?)


 彼は何事もなく横断歩道先の角を曲がり……その光景を目にした。

 先に行っていた朝日が、強面でガタイのいい男性に捕まっていたのだ。ご丁寧にその男の側には黒塗りの高級車が停められており、本人も黒スーツに黒のサングラス、角刈りで顔に大きな傷まであるといういらないオマケ付きだ。一目で見て只者じゃないオーラ満載である。

 驚くと同時に、高雄は気付けば朝日のもとへと駆け出す――あれこれと悩む前の行動だった。そんな高雄の行動には未だ気付かず、朝日と強面の男は言い争いに近い会話を続けていた。


「ですから、必要ないと言っています」


「いや、そういうワケにも……何かあったら面目が立ちません」


「私の自己責任ということに出来ませんか」


「ですからそうは言いましてもねぇ……」


「――ちょ、ちょっと! そこのアンタ!」


「あん?」


 朝日と男の間に割って入る形で高雄が到着した。

 彼は特に意識もせずかばうように朝日を背にし、二メートル近くはありそうなその男を見上げて睨み合った。

 まるで熊に立ち向かっているかのような威圧感と重圧である。


「――あんじゃあっ!? お前さんはぁぁっ!」


「あ、アンタこそなんなんだ!? 朝日。ここは俺がどうにかするから、とりあえず逃げてくれ!」


「いえ、先輩。その人は」


「どかんかいワレェ! いきなり出てきて、どういうつもりじゃあぁぁっ!?」


「そそ、そっちこそどういうつもりだ! 誘拐か!? 身代金か!? そうはいかな――っ」


「じゃかあしいわぁぁぁっ!」


「い――っぐふ!?」


 声を上げる間も、抵抗する間もなかった。

 巨大な拳が顔面にめり込んだと気がついた時、すでに高雄の身体は数メートル後方へ軽々と吹き飛び、勢いそのままに電柱へと激突した。


「ったく。なんなんですかぃあの若造は……いきなり出てきてお嬢を呼び捨てたぁ、太ぇ野郎だ」


(かつ)さん。あの人は先輩です」


「……へ?」


「――先輩。大丈夫ですか?」


 朝日が高雄のもとへ駆け寄って声をかける。そして「勝さん」と呼ばれたサングラスの男も、ようやく自分がしてしまった早合点に気付いた。


「え……せ、先輩ってーと……もしかして、お嬢の知り合いですかぃ!?」


「その通りです。先輩――先輩?」


「こ、こりゃいけねぇ! あっし、とんでもねぇ勘違いを……!」


「まったくです。先輩、先輩」


 朝日はコンクリートに両膝を下ろし、高雄の頭部を抱えて何度も呼びかけるが、彼からの反応はなかった。吹き飛んだ際に、運悪く後頭部を派手に打ち付けたためか、すっかり目を回し気を失ってしまっている。出血等の外傷こそ見られていないが、ぶつけた場所が場所なだけに軽視するわけにもいかない。


「勝さん。手を貸してください」


「へ、へいっ! あぁ、あっしはなんつーことを……」


「悔やむのは後にしてください。とりあえず先輩をお医者様へ」


「りょ、了解でさぁっ!」


 高雄は二人の手によって運ばれ、彼を乗せた車はタイヤが滑るほどの猛スピードを出して商店街の前を走り去っていく。

 後日、商店街の一部で「黒塗りの高級外車が学生を拉致した」という静かな噂が囁かれるが、そこまで大きなものとはならず無事に立ち消えていった。



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