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Ranunculus

 放課後の時間をつかって朝日が読み解こうとし、下校時刻になると高雄が彼女の代わりにそれを預かり、そして翌日の放課後に彼女へと返す――そんな行為の繰り返しが、もはや日課のようなものとなって数日が過ぎた。


 二人しか居ない、外の風音と内のストーブ音のみが響く空間。今日も高雄はカウンター内で、朝日はテーブルの最端で。それぞれ、手元の本に視線を向けるだけの時間が過ぎていく。しかし高雄の意識だけは、時折彼女の様子を眺めることにも向けられていたが。


(……飽きないのかな)


 彼は素直にそう思う。朝日の様子は――彼女が今日もこの図書室へと訪れ、彼が預かっていたあの本を受け取り、定位置の椅子へと座ってページを開いたきり。固まったかのようにまったく動きが見られなかった。

 無論、まばたきであったり垂れ下がった髪を手ぐしで直すといった動作こそあれど、『テーブルに着いて一冊の本を読む』という主な動作に変化が見られない。微動だにしないその表情と彼女の雰囲気が相まって、それはまるで氷の彫像のようである。

 だがなによりも彼がそういう疑問を抱いたのは、彼女があの本のページを一向にめくる気配がない為。それはどういうことか――要するに彼女は、初めに開いた見開きのページだけを凝視している……それ以上読み進めている様子が全くないのだ。彼女がこの場所で、あの本を読むようになってから。


「コホン……あの、霧島……さん?」


「はい」


 少しばかりの緊張を伴いつつ、高雄は朝日のもとへ近付いて彼女の名を呼ぶ。幸いなことに今回は一度目の呼びかけで高雄の方へと顔を向けてくれた。意図的ではないにしろ、声掛けを無視されなかったことに喜びと感謝を感じつつ、彼は疑問を口にしようとした。

 音もなく背後から迫る、アルコール臭に身を包んだ人物の気配には気付かずに。


「あのさ、その本のことなんだけ――どぅおぉぉぉっ!?」


 発言の途中で高雄はすっとんきょうな声をあげた――だが仕方ないだろう。背後から突然股間を握り締められるなど、予想出来ているほうがおかしいというものである。


「ぬっふっふー。この程度で騒ぐとは、まだまだ甘いのぅ少年……げぇーっぷ」


 かくして声の主――もとい、高雄の股間を鷲掴みにしている人物は加賀音羽その人であった。突然こんな行為に及ぶ事と、背後から撒き散らされる酒臭い吐息によって瞬時に誰であるのかは予想がついたが。


「ちょっ、先生どこ触っ――うわ酒くさっ!」


「あぁにぃー? こんな美人捕まえて、臭いたぁいい度胸だなぁオイぃぃ……うぇーっぷ」


「い、いやそういうわけじゃ――っていうかなに揉んでいやあああぁぁぁっ……!」


 彼女からの容赦ないセクハラ攻撃に、さすがの高雄も情けない悲鳴を上げざるを得なかった。まるで双方の性別が入れ替わったかのような襲い方と襲われ方である。だがそんな彼の反応が面白いのか不愉快なのか、高雄に対する彼女のセクハラと身体の密着度はさらに激しくなっていく。

 こんな状況でも無表情のまま二人の様子を眺める朝日を前に、高雄は羽交い絞めの状態で床へと押し倒され――どうにか逃れようとする高雄と、逃すまいとしてセクハラを続ける音羽との攻防が続く。


「あぁん……? 全然大きくなってないじゃねーかテメェ……んなにあたしに魅力がないってくあぁっ!?」


「ドコ触ってナニ言ってんですかあんたはっ!」


「だぁれがアラサーの売れ残りだってええぇっ!?」


「言ってない! 言ってませんからいやああぁぁ……!」


 常時泥酔状態が当たり前な音羽ではあるが、今日の彼女は特に酷い。高雄も必死に抵抗はするものの、残念ながら単純な筋力では彼女に軍配が上がってしまう。格闘技の最終ラウンドですらもう少しマシであろう、見るに耐えない組んず解れつな泥仕合――まさに言葉通りの肉弾戦を朝日は無表情を崩さずに眺め続けている。やがて朝日は静かに席を立って、高雄へと質問した。


「お邪魔虫でしたら、おいとまさせていただきますが」


「ちょ、ちょっと待っ……! 行く前に、この酔っ払いを引き離し――ひいいぃぃぃっ!?」


「うえぇーっへへへ。あんちゃん、いーいケツしとるのぅ……ヒック」


「やはり私は邪魔なようですので、あとはお二人でごゆっくりどうぞ」


「待ってぇ! 霧島さんお願い助けてええぇぇ……っ!」


「ヒャッハー! 脱げぇっ! 男だったら裸で語らんかーいっ!」


 偶然にも図書室前の廊下を通りかかった女教師を朝日が呼び止め、全員で音羽の身柄を拘束し場を治めるまでに十分以上の時間を消費するハメになった。

 頭髪も制服も、あらゆる箇所が乱れて息も絶え絶えになっている高雄を他所に、その元凶である音羽は司書室のソファに寝そべってグッスリと夢の中。獣のように豪快ないびきを響かせている。


「……ごめんね? いつも音羽が迷惑かけて」


「いいですよ……もう慣れましたから」


 ため息混じりに諦めの表情を見せる高雄。そんな彼に、まるで自分のことのようにしっかりと頭を下げて謝罪している――朝日が救援として呼んで来た女教師は、伊吹和泉(いぶきいずみ)という名の、社会科教員である。 

 飾り気のない実用性重視な眼鏡に、ふわりとしたナチュラルボブの髪。ボディーラインこそ音羽と比べればさすがに見劣りしてしまうが、それでも外見と内面から溢れ出んばかりに主張する柔らかで優しい雰囲気が見た者を虜にするのか、男子生徒からの人気はなかなかのものである。

 音羽とは同期で同い年の長い付き合いらしく、学園以外の場所でも二人一緒に行動している姿がよく目撃されている。もっともその目撃証言のほとんどが、自由奔放で歩く爆発物のような音羽に振り回され尻に敷かれセクハラされたりと、思わず助けに入りたくなるほど被害を被っている彼女の姿だが。


「実は今ね、来賓の人達が来ちゃってて……ほら、職員室に立ち寄る可能性もあるじゃない? なのにあの娘ったら、いつも通りにお酒をグイグイグイーってしてるもんだから……」


「それで追い出されてここに来たってワケですか」


「そうなの。わたしが同行ってことになって、とりあえず保健室に寝かせてたんだけど……他の先生たちと職員室に消臭剤まいてる間に、ドアを蹴り破って逃げちゃったみたいで……」


 酔いつぶれた音羽をベッドへと寝かせた後で、保健室の扉は外から施錠した……しかしそれはティラノサウルスをニワトリ小屋に閉じ込めたようなものである。目を覚ました音羽にとって何の障害にもなりはしない――それこそ電流付きの金網でも用意しない限り彼女を閉じ込めるというのは不可能だろう。そうなったとしてもどうにか突破してしまいそうなのが彼女の怖いところであるが。


「迷惑ついでなんだけど、あの娘をしばらく置いといてもらえないかな? 下校時間まででいいから」


「和泉先生……安全装置の無い核兵器が隣の部屋にあるようなもんですよ? しかも制御不能な自走機能付きの」


「ごめんねぇ。わたしが付きっ切りで見張ってたいんだけど……どーしても今日中にやらなきゃいけない準備があるの忘れちゃってて」


 高雄は今日一番の深いため息をつき、仕方がないなという態度で和泉の申し出を了承した。皮肉を言いつつも本当は却下する気など最初から無かったのは、彼の人柄である。


「ありがとー。あのまま司書室で寝かせといてくれればいいからね? でもエサは与えずに」


「動物園のパンダか何かですか……」


「あの娘の迎えと、ここの戸締りはわたしがやるから、高雄君はそのまま帰ってくれていいからね」


「はいはい。了解です」


「それじゃまた……あっ」


 シャンプーやリンスか、それとも香水だろうか。癒される花のようないい香りを残して図書室を後にしようとした和泉だったが、何か思い出したか言い残したことがあったらしく唐突に振り返った。


「高雄君は聞いた? 例の事件……」


「ええ。帰りのホームルームで」


 まだ事件と呼ぶべきではないのかもしれないが、隣町で年端もいかない少女が突然失踪したという話である。

 比較的治安も良く、穏やかな雰囲気のこの地域――呉野市(くれのし)ではあるが、だからと言って油断していて良いというわけではない。現代の社会全体に言えたことではあるが……自分には関係のなさそうな事件や事故がいつ身近で起きたとしてもおかしくはないのだ。


「誘拐の可能性もあるし……隣の県でも通り魔事件が起きたばっかりだから登下校時には気をつけるようにって、担任が言ってましたよ」


「そうよねぇ。怖いよねぇ……高雄君も、変な人についていったりしちゃダメだよ?」


「いや、僕よりもむしろ和泉先生が……」


「え? わたし?」


「あ、いや……」


 高雄は口を(つぐ)んだが、その気持ちは至極当然なものである。男女という性別の違いもあるが、それよりも第三者から見たときの彼女は若くて美しく、少々気弱そうでどこかふわふわとしている……なにより学生服だってまだまだ余裕でイケるだろうという、ともすると幼く見えてしまう容姿なのだ。誘拐犯や通り魔が狙うとすれば、まず間違いなく高雄よりも彼女の方になるだろう。


「やだなぁー。わたし、誘拐なんてしないよぉ?」


「いやそっちじゃなくて……まぁいいです」


 自身についてまったく無自覚なのか彼女の受け答えはやはりどこか抜けていた。カーディガンの袖口で親指が隠れてしまっている両手を、屈託の無い笑顔のままプルプルと振るその姿を見れば、彼女に心奪われる男子生徒や男性教員が多いのも何となく理解出来そうである。


「じゃあわたしは行くからお願いね。帰り道には気をつけて」


「はいはい。先生も」


 短い挨拶を交わし、和泉はようやく図書室を後にした。小走りに近いがちょこちょことした歩き方は、音羽や榛名のような豪快さ溢れる足取りとは別次元のものである。


(……あ。そういえば霧島さんは……?)


 はたと気付き、高雄は朝日の姿を探す。パッと見たところ図書室内に彼女の姿はなく、「もしかしたら帰ってしまったのかもしれない」という考えが一瞬頭をよぎるも、すぐにそれは間違いだということが判明した。


「……何をしてらっしゃるので?」


「観察です」


 朝日は司書室にいた。どういうわけかソファで眠っている音羽の枕元にしゃがみこんでいる。

 高雄が背後から話しかけても彼女は振り返らず、その視線は目の前で熟睡している酔っ払い教員の顔にのみ向けられ続けていた。


「本で読んだことはありましたが、『鼻ちょうちん』という物をこの目で見たのは初めてです」


「……そうですか」


「んごごごごぐぐぉごごがぁぁぁ……」


 静かな室内に騒音レベルで響き渡る音羽のいびき声を耳に受けつつ、やっぱりこの少女は謎だと高雄はつくづく思う。

 彼女の言う「鼻ちょうちんの観察」が終了したのはそれから五分ほど後のことだった。



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