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月明かりのルージュ

作者: サメラバリー
掲載日:2026/01/31

闇が蠢く。

視界が黒く染まる。

鴉が眼球を突ついてるように痛い。

手に何か鋭利な物が刺さっている。

アイツは……シタ。

あの人は………タ。

生きているのか?俺は。

あの人?誰のことだ?

血塗れで笑っているのはあの人か。

それとも……俺?


✱✱✱


今日も朝ご飯を楽しみにしながら、欠伸を噛み殺した。だが、思わず品無く思いっきり背伸びしてしまう。ここであのお嬢が顔を見せようものなら、軽く鞭打たれるだろう。

香ばしいトーストの香りがする。

アドラー家の食卓は控えめに言っても豪華だった。朝から、ケーキやステーキ等、どうやって華奢な体型を維持しているのか不思議なぐらい高価で豪勢な食糧が食卓を囲んだ。

だが、それは貴族の翼族のみに許された朝食である。

俺達、拾われた身の盗族である貧民にはバタートーストとコーンポタージュとカフェ・オ・レとプリンしか許されなかった。

それに不満を持ったことはない。俺は拾われる前、生のじゃがいもを食っていた。それも近所の畑から盗んだ物だ。

親父もお袋も俺が声変わりする頃には感染病で死んでいた。その頃、疫病が流行り、汚染された水を飲むだけで悶絶するような苦しみを味わいながら、多くの同族が死んでいっていたのだ。

俺は弱り果てつつ街に出て、盗人をしながらお袋の祖母が働いていたアドラー亭の門前で倒れた。

確か俺が14歳の頃だ。

あの時のあの瞬間は今でも鮮明に覚えている。

一番最初に真っ赤に燃える髪色を目にした。揺らぐ視界の中、透き通ったソプラノの声が俺を抱いた。彼女はハッとする程、美しかった。

「ゴミ虫、何処から来たの」

彼女の背が高いのは直ぐに分かった。眼が銀河のように青く時々、流れ星が映るように光って見えた。

意外と少女趣味なのか、或いは両親の趣味なのかピンクのドレスを着ていた。それは俺が今まで盗んで来た物全部売っても金額が届かなそうなぐらい高価な物だと分かった。

「おい、聞いてるの?ゴミ虫」

少し声を荒らげたが相変わらず、心地良いソプラノが俺を抱いた。

燃えるような赤毛に意識朦朧としながら、手を伸ばす。

「綺麗だ」

俺はそう呟くと心の中で本当に一目惚れがあることに感嘆しつつ、春の太陽をバックに芝生の上で意識を失った。


あれ以来、2年が経過して16歳のアドラー亭の使用人として働いている。俺は特にこの屋敷のお嬢、ユミス・アンジェルス・アドラーの付き人だ。彼女は歳の差もそうだが、身長の差も段違いだった。8歳、30センチーーお嬢には色んな意味で敵わなかった。

拾われた時のように春の太陽が煌びやかに顔を照り付けている。お嬢が来るまでにカーテンを開けて、布団を干して、使用人部屋を清潔に保たなくてはならない。と言っても見栄えさえ良ければゴキブリの1匹や2匹、赦して貰えると本気で思っている。

鏡張りの窓を勢い良く開ける。朝の新鮮な空気が肺の中にたっぷり入って来る。小鳥の鳴き声が今日も俺が毎日生きていけるよう鼓舞しているような気がした。

お嬢はサディストだ。あの頃と変わらず、俺のことを「ゴミ虫」と呼ぶし、鞭を常に握り締めている。

俺は俺で変わった性癖はしていない。純粋に女性に免疫が無く、狼狽えるのみである。

お嬢はマゾヒストに興味は無かった。「ゴミ虫」を必要としているーー俺には何となくそんな気がしていた。

今日の俺は良い気分だ。アドラー亭の上層部が街中を賑わす大感謝祭の日のため、お嬢や使用人達は暇を許された。

24歳のお嬢が表立って出られないのは、相続の関係で次期当主になり得ないからだと中年の使用人が噂していた。それをお嬢がどう思っているか考えるとゾッとする。

その時、俺は何も聞かなかったことにして、お嬢にクッキーや紅茶を差し入れすることにした。


小鳥と歌を歌っていると、大柄で品性のある女性が俺の部屋に入って来た。

真っ赤な長い赤髪が口元のルージュと相俟って、色っぽい。ドレスは真っ白だが、手元の鞭が黒く威嚇していた。

「ゴミ虫」

相変わらずのソプラノだ。小鳥達も自分の立場を弁えたのか鳴かなくなった。

俺はお嬢を見上げた。俺が大体150センチでお嬢は大体180センチだ。

「お嬢、おはようございます。今宵も良い眠りに就けましたか」

「ゴミ虫、お前はどう?」

俺は少し考えた。何か昔の夢を見ていた気がする。親父とお袋が死んでからどれだけ大変な思いをしたか。

「まあまあ良い夢を見ましたよ」

俺の返答に、お嬢は素っ気なく呟いた。

「そう」

お嬢が俺に興味を示すことは珍しい。きっと良い夢を見たのだろう。お嬢の権威に怯えていた小鳥達がまた一斉に鳴き出した。

俺はお嬢の足元に跪いた。華奢な靴の歪みを整えてやる。

お嬢は俺を見下ろしながら、気難し気に笑ってみせた。

「気を利かせたつもり?」

「お嬢、俺はアンタの使用人だ。当然のことをしたまでです」

お嬢がソプラノで笑った。多くの人が聞き惚れる声を何度でも聞ける喜びが全身を駆け巡った。お嬢はいつか他の貴族と結婚する。それまでは俺だけのお嬢だった。

「朝食を食べに行きましょ、ゴミ虫」

部屋の掃除具合をチェックした後、お嬢が言った。いつもは俺がお嬢を起こしに行くが、大感謝祭の日は使用人は自由だった。だから、お嬢に積極的に仕える俺は、お嬢の母のヴィーナス公爵夫人からも好評だった。グラトン公爵からは少々嫉妬しているのが、薄々勘づかされざるを得なかったが。

俺はまたトースト脳に戻った。朝のパン程のギルティは無い。やってはいけない、最早背徳的である。

俺とお嬢は狭いが綺麗に整った使用人部屋から出、1階の食卓にゆっくり辿り着いた。

所々、花の香りが漂う。ガーベラやツツジの花が、春の太陽を浴びてスクスクと育っていた。ザッと30人はいる使用人達が毎日、花瓶の水を綺麗に保っているようだ。階段の手すりも埃1つ積もっていない。窓も常にピカピカだ。

食卓では、先に来たリッキー・マルクという先輩の使用人がホットケーキを口にしていた。口の中モゴモゴ動かしながら挨拶する。お嬢はリッキーのことが嫌いだった。お嬢より力があるからだ。

「おはようさん、2人共」

野太い声でリッキーが挨拶する。

お嬢は当然の如くそれを無視し、俺は慌てて改まった。

「おはようございます、マルク先輩」

テーブルは貴族達20人収容できるようシンクのテーブルクロスで囲まれた縦長の大きな物だった。

お嬢が真っ赤な髪をポニーテールに結わえつつ、チョコフォンデュやコールスローを皿に取り分けていた。

俺は使用人専用の料理コースから予定通りの物を並び立てる。そう、バタートーストとコーンポタージュとカフェ・オ・レとプリンだ。

俺は空腹に耐え切れず、咄嗟にバタートーストに齧り付いた。

その途端、ピシャッという鋭い音と共に激痛が左手に走る。

「…ッ!」

「頂きます、は?ノエル・クローズ」

俺は心臓の高鳴りを感じながら、心の中でしくじったと悪態を吐いた。お嬢は決して優しくない。

痺れるように痛む左手を抑えて、素早く両手を合わせた。

「申し訳ございません。お嬢。頂きます」

リッキーが好奇の目で俺達を見ている。リッキーから言わせると、『あんなサディストの付き人をやるぐらいなら、屋敷の金銀財宝を持って逃げるぜ』らしい。

俺は少しはそれを想像した。だが、お嬢に救われた命だ。お嬢が嫁いでからなら出て行くことも考えられるだろう。

サクッとしたトーストの食感を愉しむ。

アンジェルス・アドラー家の家柄は皆、翼族だ。お嬢の背にもルージュのように真っ赤な翼が閉じられていた。赤い翼族は珍しい。故に社会的階級もとても高かった。

天使でも悪魔でもない。赤い翼、それは世界均衡の証として国旗にも描かれていた。

お嬢がわざわざ俺の隣に座って、ルージュの口元にブルーベリージャムのヨーグルトを運んだ。ネットリとしたジャムの咀嚼音が耳をくすぐる。

俺はバタートーストも好きだったが、一番カフェ・オ・レが大好物で毎日飲んだ。盗族は珈琲を好む種族だとお嬢から教わった。

今日は豪邸にいるのは使用人含めて10人程度だ。公爵に気に入られている使用人は有無を言わさず連れて行かれた。大感謝祭では、馬車の上から街の色々な種族に友好の証の印鑑を渡していくのが決まりとなっている。

俺はそういう外交的な態度が苦手なため、不合格になってホッとした。

お嬢は今日のような日が一番ピリ付いている。

鞭打ちは毎日のことだったが、今朝のように小さなことで鞭打つのは両親への苛立ちを隠し切れていない証拠だろう。

バタートーストのバターが熱で溶けかけている。香ばしくも美味い。朝嗅いだ香りはこの匂いで間違いない。

俺の隣でお嬢がサラダにドレッシングをかけて睨んでいた。

「どうされました?お嬢」

「ドレッシングを変えるだけで全然味が違うの不思議」

お嬢のまだまだ未熟な部分が時々愛おしくなる。

「こちらのドレッシングはリュートの森からであちらのドレッシングはドアロ海からの物です。酸味も甘みも全然違って当然ですよ」

「ふーん、詳しいじゃない」

感心した様子でお嬢はドレッシングを振った。舌なめずりしながら、俺に少し好感の眼を向ける。例の銀河のようなまなこだ。

「何処からそんな情報を仕入れるの?ゴミ虫」

俺は得意気にならないよう努力して答えた。

「地下にある書庫で書いてありました。スペリア語だけは俺でも読めるんです。今は閉鎖されていると耳にしましたが」

実際、下町の流行語はほぼスペリア語だったため、本を盗んで学ばざるを得なかった。俺が病気で死ななかったのもスペリア語を学んでどの水が平気でどの水が危険か把握したためである。

お嬢はしばらく俺を見つめて、頷いた。

「お父様、お母様に内緒で地下の図書館に入りましょ。本当は私は今日は自室で数式の勉強をしないといけないけど、ゴミ虫が仮病を使ってくれたら、文句を言う人間はいなくてよ」

俺は分かっていた。お嬢も今日は自由なはずなのに俺をダシにして引け目を取らせたいだけなのだ。

俺は苦笑を隠して深々と頭を下げた。

「お嬢のためなら何なりと」

これは本心からの言葉だった。俺の恋はお嬢だったし、お嬢が本気で当たれるのも俺だけだった。俺達は持ちず持たれずの関係を築き上げていた。

俺はカフェ・オ・レを味わい、お嬢に必要とされている自分に満足の吐息を漏らした。お嬢は野菜嫌いだが、健康のため最後に残していたラスボスのサラダとコールスローに挑んでいるところだった。

朝の陽気さが身に染みる。お嬢と図書館デートは願ったり叶ったりであった。

今はまだ俺のお嬢だった。美しく気高いムッツリ女だった。もう俺から大切な人を奪わないで欲しい。流れ星が降る度何度も願ったものだ。流れ星が願い事を叶えてくれる話はこの歳にしては幼稚過ぎるが。

俺達は食事を終えた。


何度も後ろを振り返る。

俺とお嬢を尾行する不審な使用人はいないようだ。俺達が2人でコッソリ禁断の書庫に入るのを見られるのはあまり喜ばしくない。俺などバレたら屋敷からつまみ出されるだろう。路頭に迷いたくなければ秘密を隠し通さなくてはならない。

「ゴミ虫、暗いわ」

地下を降りる度にお嬢が弱音のような苦情を入れて来る。足元は黒い鉄で出来ており、下手すると滑りそうになる。手持ちのランタンの光が無ければ足場を間違えていただろう。

お嬢は不安そうに俺にくっ付いていた。豊満な胸が肩に当たり、俺の心臓に悪いのがハッキリ分かる。時々、蝙蝠が頭上を飛び去り、地下で暮らしていた時期を思い出した。あの頃はまだ親父もお袋もいた。だが、今の方が心強い。

背の高いお嬢は地下の書庫までの道の天井に頭スレスレだ。蜘蛛の巣にぶつかっては悪態を吐いていた。

ようやく光が見えた。書庫の光までものの20分はかかったのではないだろうか。

お嬢の言う図書館には鍵が掛かっていた。

俺は盗賊だ。この手の鍵は朝飯前だった。実際は朝飯後だったが。

「お任せ下さい」

ランタンの光がチカチカ踊る。お嬢がその時だけは俺を尊敬の眼差しで見ていた。それが嬉しくて俺は迂闊に禁断の書庫を解放した。

突然だった。

凄まじい風が轟き、本が右往左往していた。竜巻が書庫の中心の本の中から現れ、暴れ倒す。まるで龍のように圧倒的な力を発散させていた。

俺達は殴られるように書庫から地下通路に叩き付けられた。

「……ッ!」

「な、何?!」

地の底から響く声が俺達に応答した。

『我を解放した貴様らに与えたい死罪の権利を譲ろう』

俺は光を失ったランタンが割れているのを確認した。今、光っているのはお嬢のランタンでもない。何かろくでもない禍々しい存在の光で、地下が照らされている。硫黄の臭いに辺りが充満した。

お嬢は俺の手を握った。武者震いしながら、叫ぶように言う。

「私が死なせたい人物などいなくてよ!!」

書庫に閉じ込められた怪物は豪快に笑った。地を震わせるような説明のし難い笑い声だった。

『面白い。貴様は親を恨んでいる』

お嬢が恐怖に震えるのが分かった。そんな俺は俺で夢を見ているのだと思い込もうとしていた。言い換えれば現実逃避だ。

お嬢が再び叫ぶ。

「ダメ。お父様、お母様に手を出さないで!」

『無駄だ』と禁断の書庫の魔人は言った。透明に透け、長い髪を青く伸ばし赤い目で俺達を観察している。漆黒のローブが邪悪に渦巻いていた。

『願いは叶えてやる。その代わり、我を国王にしろ』

俺は頭を振った。どういうことか考え、ゾッとした。次期当主のはずのお嬢と結婚するつもりなのだ。

実際、かなりの美男だろう。だが、禍々しい存在に間違いない。国民が虐殺されるのは避けて通れない。俺には魔人の冷酷な眼を見るだけでそれが分かった。

冷たく魔人が微笑する。

禁断の書庫に入れない理由があったのだ。俺達は愚かだった。魔人の瞳に吸い寄せられ、背筋が寒くなる。

お嬢が絞り出すような声を挙げた。

「国王になって何がしたいの。答えなさい」

魔人はお嬢に近付き、右手の人差し指をクイッと上げた。

お嬢が見えない手に首を絞められて宙に舞う。

俺は苦しむお嬢を見て、反射的に激昂した。

「お嬢に何しやがる!!」

お嬢の閉じられていた翼が広げられ、何とか呼吸を確保できるぐらいの高さまで飛び上がった。

面白くなさそうに魔人が手を開く。

お嬢は地べたに這いつくばって首を抱えて噎せ返っていた。

お嬢の咳き込む音が止むのを待って、魔人が語り出す。

『我はインカーバレル。長寿の魔法使いだったが、王族に封印された身だ。お主らの名は?』

俺は恐怖に負けず、お嬢の前にはばかって、インカーバレルを睨み付けた。俺のお嬢の首を絞めた男だ。当然である。

「ノエル・クローズとユミス・アンジェルス・アドラーだ。インカーバレル、貴様は国王になって何がしたいのだ」

インカーバレルはまたしても不敵に笑ってみせた。

『蘇りの薬を家来に造らせ、我こそが世界の王者であることを全世界に示し上げたい』

馬鹿げている。だが、俺は知っていた。蘇りの薬は10万人程の魂と血肉で精製される。インカーバレルは世迷言を言っている訳ではないのだ。

ヤツならそうーー有言実行出来るだろう。

「好きにさせるか!」

お嬢が片脚をひざまづけ、ヨロヨロと立ち上がる。翼族の紋章を掲げ、使用人に命令するように叫んだ。

「帰れ!!!お前の場所に」

インカーバレルは紅い眼で一瞥した後、翼族の紋章の宝石を粉々に砕いた。俺達使用人には絶対的な力を持つ貴重な宝石だった。

『無駄な抵抗だ。我がお妃さん』

俺は単純に驚いた。

「このお方が次期当主だと何故分かった」

『簡単なことだ。我は肉体を持たない。故に肉体からのオーラと今の一撃に耐え得るのは王族しか有り得ない』

お嬢は本気で怒っている。怯えている。どうするべきか計算している。

「ゴミ虫」

お嬢がインカーバレルの視線を直視しながら、口にした。

「今すぐ屋敷を燃やして」

俺は言葉の意味が分からず躊躇した。今思うとこれが分岐点だったのだ。俺はお嬢を見捨てられなかった。

「早く!!」

お嬢が叫ぶ。

俺は困惑したまま、お嬢を抱き締めた。

「無理です、お嬢!」

お嬢は首を絞められた時に落とした鞭を拾うと俺に強く振るった。ピシャリッという音と共に鋭い痛みが全身に走る。それでも俺はお嬢を抱き締めたままだった。

インカーバレルが面白そうにその様子をマジマジと見つめる。リッキーといい周囲のヤツらは能天気なものだ。

何度も鞭打たれて血が滴っても俺はお嬢から離れなかった。

『茶番劇はお終いか』

『そうだな、仮の人間に成り済まさないとな』

インカーバレルの姿が亡霊のような魔人から人間に変身した。禍々しいなんてものでは無い。それはただの恐怖だった。

青い髪がショートカットの金髪になり、深紅の瞳に邪念を映している。

割れたランタンのガラスを血が吹き出すのにも関わらず握り、尖った先をインカーバレルに向ける。お嬢を助けなくてはならない。

お嬢は俺に何度、鞭打ちをしても無駄だと分かったようで、近付いて来る魔人から逃れようと暗い中、がむしゃらに走った。

俺もお嬢の後に続く。何度も足が躓く。蝙蝠が不気味に鳴き叫ぶ。

「無駄だ、無駄。ここに来たことを後悔するがいい!」

地獄の底からの笑い声のような声を後に俺達は何とかボロボロになりながら、地下から脱出した。


それから3日後、お嬢に婚約者が出来た。

金髪で赤目のハンサムな長身の男だ。

お嬢と俺はすぐに気が付いた。インカーバレルだ。

「ルーチャルト・アーミンです。お初にお目にかかれて光栄であります」

インカーバレルは洗脳の技術も持ち合わせるようだ。周りの女使用人が尊敬の眼差しで彼を見つめていた。

馬車に揺れて退屈だったのだろう。幾何学的なキューブを回して遊んでいた。

「私は望んでおりません」

お嬢が断固として拒絶する。

「国民の為の婚姻関係です。私が貴女と結婚すれば、民は救われるでしょう」

「冗談キツくてよ。アンタの私欲で国は滅ぶわ」

「これはお手厳しい」

インカーバレルはいつも笑っている。本当に頭に来ると同時に不気味なヤツだ。

早速、マリーという眼鏡とソバカスの目立つ使用人が恭しくインカーバレルをヤツのお家だった屋敷を案内し始めた。男達は皆、インカーバレルに内心舌打ちして行く。

俺とお嬢は公爵と公爵夫人に叱られること覚悟でインカーバレルの正体を晒すことにした。

だが、迂闊な行動だった。図書館を開けると魔人が出て来たなど、誰も信じなくても無理はない。

「そんなに彼と結婚が嫌か」

グラトン公爵は落胆するようにため息を吐いた。

「流石は私の娘だ。お転婆が過ぎる」

ヴィーナス公爵夫人は同情的だった。

「分かるわ。ユミはノエルのこと大好きですものね。でも、ノエルは何の肩書きも無いの。盗族という卑しい種族として貴女に宛てがわれてるだけよ」

お嬢は苛立ちにカッとした表情で抗った。

「私がゴミ虫に?バカにしてなさるのはお母様よ」

公爵夫人はムスッと顔を顰める。

「そんな言い方しても良いのかしら。貴女なんて貧乏貴族と継がせるしかないのかと諦めていたところよ。これは言い換えれば良い商談なの」

周囲がザワついている。インカーバレルを一目見ようと女の使用人が興味津々に群がっている。クッキーの甘ったるい匂いがした。誰かが媚薬を作っているらしい。

お嬢は公爵夫人を蛇睨みする。

「娘を商談に使うなんて最低。それなら私も手があるわ。もう行きましょ、ゴミ虫」

俺は下層階級らしく何も言うまいとしていた。お嬢からの言葉のドッジボールで発言の権利を得る。

「御意」

お嬢は自分の部屋に入ってから、出て来なくなった。扉に耳を澄ますと嗚咽混じりの泣き声がほんの僅かに聴こえた気がした。


それから3日後程のことだ。

グラトン公爵とヴィーナス公爵夫人が病に倒れた。常に汗だくになる程の熱に魘され、死人を思わせる顔色をしていた。

お嬢はインカーバレルを探し回った。インカーバレルの領土とされるナリア邸に馬車を使って行ってみたもののもぬけの殻だった。

お嬢が泣きそうな目で俺を見る。

「アイツ…!何処に行きやがった」

俺は貴族社会に囚われないお嬢が好きだったから、言葉遣いには寛大だった。

「あの野郎、お嬢の両親を本気で殺しに来やがるとは良い根性してんじゃねえか」

お嬢が右の親指の爪を強く噛む。噛み過ぎて血が滲んだ。

使用人達がやたらと四苦八苦して公爵と公爵夫人を看病していた。しかし、それは功を奏せず、公爵と公爵夫人の病状は悪化していった。

お嬢の両親が死ぬまで1週間もかからなかった。


インカーバレルがレッドウイング邸を君臨した。後はお嬢と正式に結婚するだけだった。

インカーバレルの背には赤い翼が生えている。どんな容姿にもなり得るヤツらしく、それがとんでもなく憎らしかった。

初めて赤い翼がヤツから生えて来るのを見たヤツらの反応は滑稽だった。このため、グラトン氏が失脚したという判断するイカれたヤツらが続出した。つまりはグラトン公爵とヴィーナス公爵夫人はもう用無しなのだ。

俺は青い洋梨を齧りながら、無気力化したお嬢の世話を徹底的に焼いた。お嬢はボサボサの髪でも気にしなくなるぐらいルーズになった。あまり、泣きはしなかったものの、空っぽの人間特有の無力感に苛まされていた。

俺はお嬢を羽の折れた大きな鳥のように扱った。頭を撫でてやり、全身を温かい布で拭いてやった。

お嬢の中で何かが壊れていた。俺はそれを敏感に察知取りどうにか修復しようとした。だが、それは壊れたらもう二度と直らないものらしかった。


ある日、結婚式前夜、お嬢は俺を豪華な自分の部屋の中で待機させて言った。

「私からの最後の命令」

月明かりがルージュ色の髪に絡み付く。誰もが一目惚れする程お嬢は美しかった。髪の中のルージュの宝石がキラキラと輝いている。

「私を殺しなさい、ノエル・クローズ」

その声は毅然としていた。恐怖心を1ミリも感じさせなかった。

正反対に俺は恐れた。

「そんなことお願いされても無理ですよ。お嬢、俺はアンタを愛してるのです」

「それなら尚更、殺しなさい。インカーバレルにミスミス私を譲るつもり?」

俺は唇を噛んで震える手を握り締めた。

この手でお嬢を殺す?インカーバレルに盗られるよりは余程マシだろう。お嬢を殺して俺は貴族に手を付けた罪人として処される。まあ、別にいい。

俺は考えを纏めようと混乱した頭で口を滑らせた。

「どんな死に方がお望みでしょうか」

お嬢は口元のルージュを光らせて言った。

「できるだけロマンチックなのがいい」

俺は盗族のナイフを常備している袋から出して、月光に光らせた。

月明かりに照らされて鋭利に光を跳ね返す。

お嬢は満足そうに微笑んだ。

お嬢の身体が刃物を欲してフカフカのベッドに横たわる。

気付くと俺は両親が死んでからもう二度と浮かぶことのないであろう涙に視界を阻まれていた。

自然とお嬢に向かっていたナイフが俺の首を狙う。一気に貫く。

思ったより凄まじい痛みに一気に背筋が寒くなっていく。痛みより焼きごてを押し付けられたような感覚に気が遠くなる。ゴポゴポと血が首元だけでなく口からも溢れた。

「ぐ…ぐぁぁああああ!!!!」

俺は大声で叫んで、気を失う前にお嬢の心臓目掛けて思いっきりナイフを下ろした。

お嬢が軽く呻く。真っ白な部屋着が真っルージュに染まった。

幸い、2人共致命傷を負った。

ルージュの髪にヨダレを垂らして絶命する。

月明かりが俺達を包み込んだ。

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