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月明かりのルージュ

作者: サーナベル
掲載日:2026/01/31

闇が蠢く。

視界が黒く染まる。

鴉が眼球を突ついてるように痛い。

手に何か鋭利な物が刺さっている。

アイツは……シタ。

あの人は………タ。

生きているのか?俺は。

あの人?誰のことだ?

血塗れで笑っているのはあの人か。

それとも……俺?


✱✱✱


今日も朝ご飯を楽しみにしながら、欠伸を噛み殺した。だが、思わず品無く思いっきり背伸びしてしまう。ここであのお嬢が顔を見せようものなら、軽く鞭打たれるだろう。

香ばしいトーストの香りがする。

アドラー家の食卓は控えめに言っても豪華だった。朝から、ケーキやステーキ等、どうやって華奢な体型を維持しているのか不思議なぐらい高価で豪勢な食糧が食卓を囲んだ。

だが、それは貴族の翼族のみに許された朝食である。

俺達、拾われた身の盗族である貧民にはバタートーストとコーンポタージュとカフェ・オ・レとプリンしか許されなかった。

それに不満を持ったことはない。俺は拾われる前、生のじゃがいもを食っていた。それも近所の畑から盗んだ物だ。

親父もお袋も俺が声変わりする頃には感染病で死んでいた。その頃、疫病が流行り、汚染された水を飲むだけで悶絶するような苦しみを味わいながら、多くの同族が死んでいっていたのだ。

俺は弱り果てつつ街に出て、盗人をしながらお袋の祖母が働いていたアドラー亭の門前で倒れた。

確か俺が14歳の頃だ。

あの時のあの瞬間は今でも鮮明に覚えている。

一番最初に真っ赤に燃える髪色を目にした。揺らぐ視界の中、透き通ったソプラノの声が俺を抱いた。彼女はハッとする程、美しかった。

「ゴミ虫、何処から来たの」

彼女の背が高いのは直ぐに分かった。眼が銀河のように青く時々、流れ星が映るように光って見えた。

意外と少女趣味なのか、或いは両親の趣味なのかピンクのドレスを着ていた。それは俺が今まで盗んで来た物全部売っても金額が届かなそうなぐらい高価な物だと分かった。

「おい、聞いてるの?ゴミ虫」

少し声を荒らげたが相変わらず、心地良いソプラノが俺を抱いた。

燃えるような赤毛に意識朦朧としながら、手を伸ばす。

「綺麗だ」

俺はそう呟くと心の中で本当に一目惚れがあることに感嘆しつつ、春の太陽をバックに芝生の上で意識を失った。


あれ以来、2年が経過して16歳のアドラー亭の使用人として働いている。俺は特にこの屋敷のお嬢、ユミス・アンジェルス・アドラーの付き人だ。彼女は歳の差もそうだが、身長の差も段違いだった。8歳、30センチーーお嬢には色んな意味で敵わなかった。

拾われた時のように春の太陽が煌びやかに顔を照り付けている。お嬢が来るまでにカーテンを開けて、布団を干して、使用人部屋を清潔に保たなくてはならない。と言っても見栄えさえ良ければゴキブリの1匹や2匹、赦して貰えると本気で思っている。

鏡張りの窓を勢い良く開ける。朝の新鮮な空気が肺の中にたっぷり入って来る。小鳥の鳴き声が今日も俺が毎日生きていけるよう鼓舞しているような気がした。

お嬢はサディストだ。あの頃と変わらず、俺のことを「ゴミ虫」と呼ぶし、鞭を常に握り締めている。

俺は俺で変わった性癖はしていない。純粋に女性に免疫が無く、狼狽えるのみである。

お嬢はマゾヒストに興味は無かった。「ゴミ虫」を必要としているーー俺には何となくそんな気がしていた。

今日の俺は良い気分だ。アドラー亭の上層部が街中を賑わす大感謝祭の日のため、お嬢や使用人達は暇を許された。

24歳のお嬢が表立って出られないのは、相続の関係で次期当主になり得ないからだと中年の使用人が噂していた。それをお嬢がどう思っているか考えるとゾッとする。

その時、俺は何も聞かなかったことにして、お嬢にクッキーや紅茶を差し入れすることにした。


小鳥と歌を歌っていると、大柄で品性のある女性が俺の部屋に入って来た。

真っ赤な長い赤髪が口元のルージュと相俟って、色っぽい。ドレスは真っ白だが、手元の鞭が黒く威嚇していた。

「ゴミ虫」

相変わらずのソプラノだ。小鳥達も自分の立場を弁えたのか鳴かなくなった。

俺はお嬢を見上げた。俺が大体150センチでお嬢は大体180センチだ。

「お嬢、おはようございます。今宵も良い眠りに就けましたか」

「ゴミ虫、お前はどう?」

俺は少し考えた。何か昔の夢を見ていた気がする。親父とお袋が死んでからどれだけ大変な思いをしたか。

「まあまあ良い夢を見ましたよ」

俺の返答に、お嬢は素っ気なく呟いた。

「そう」

お嬢が俺に興味を示すことは珍しい。きっと良い夢を見たのだろう。お嬢の権威に怯えていた小鳥達がまた一斉に鳴き出した。

俺はお嬢の足元に跪いた。華奢な靴の歪みを整えてやる。

お嬢は俺を見下ろしながら、気難し気に笑ってみせた。

「気を利かせたつもり?」

「お嬢、俺はアンタの使用人だ。当然のことをしたまでです」

お嬢がソプラノで笑った。多くの人が聞き惚れる声を何度でも聞ける喜びが全身を駆け巡った。お嬢はいつか他の貴族と結婚する。それまでは俺だけのお嬢だった。

「朝食を食べに行きましょ、ゴミ虫」

部屋の掃除具合をチェックした後、お嬢が言った。いつもは俺がお嬢を起こしに行くが、大感謝祭の日は使用人は自由だった。だから、お嬢に積極的に仕える俺は、お嬢の母のヴィーナス公爵夫人からも好評だった。グラトン公爵からは少々嫉妬しているのが、薄々勘づかされざるを得なかったが。

俺はまたトースト脳に戻った。朝のパン程のギルティは無い。やってはいけない、最早背徳的である。

俺とお嬢は狭いが綺麗に整った使用人部屋から出、1階の食卓にゆっくり辿り着いた。

所々、花の香りが漂う。ガーベラやツツジの花が、春の太陽を浴びてスクスクと育っていた。ザッと30人はいる使用人達が毎日、花瓶の水を綺麗に保っているようだ。階段の手すりも埃1つ積もっていない。窓も常にピカピカだ。

食卓では、先に来たリッキー・マルクという先輩の使用人がホットケーキを口にしていた。口の中モゴモゴ動かしながら挨拶する。お嬢はリッキーのことが嫌いだった。お嬢より力があるからだ。

「おはようさん、2人共」

野太い声でリッキーが挨拶する。

お嬢は当然の如くそれを無視し、俺は慌てて改まった。

「おはようございます、マルク先輩」

テーブルは貴族達20人収容できるようシンクのテーブルクロスで囲まれた縦長の大きな物だった。

お嬢が真っ赤な髪をポニーテールに結わえつつ、チョコフォンデュやコールスローを皿に取り分けていた。

俺は使用人専用の料理コースから予定通りの物を並び立てる。そう、バタートーストとコーンポタージュとカフェ・オ・レとプリンだ。

俺は空腹に耐え切れず、咄嗟にバタートーストに齧り付いた。

その途端、ピシャッという鋭い音と共に激痛が左手に走る。

「…ッ!」

「頂きます、は?ノエル・クローズ」

俺は心臓の高鳴りを感じながら、心の中でしくじったと悪態を吐いた。お嬢は決して優しくない。

痺れるように痛む左手を抑えて、素早く両手を合わせた。

「申し訳ございません。お嬢。頂きます」

リッキーが好奇の目で俺達を見ている。リッキーから言わせると、『あんなサディストの付き人をやるぐらいなら、屋敷の金銀財宝を持って逃げるぜ』らしい。

俺は少しはそれを想像した。だが、お嬢に救われた命だ。お嬢が嫁いでからなら出て行くことも考えられるだろう。

サクッとしたトーストの食感を愉しむ。

アンジェルス・アドラー家の家柄は皆、翼族だ。お嬢の背にもルージュのように真っ赤な翼が閉じられていた。赤い翼族は珍しい。故に社会的階級もとても高かった。

天使でも悪魔でもない。赤い翼、それは世界均衡の証として国旗にも描かれていた。

お嬢がわざわざ俺の隣に座って、ルージュの口元にブルーベリージャムのヨーグルトを運んだ。ネットリとしたジャムの咀嚼音が耳をくすぐる。

俺はバタートーストも好きだったが、一番カフェ・オ・レが大好物で毎日飲んだ。盗族は珈琲を好む種族だとお嬢から教わった。

今日は豪邸にいるのは使用人含めて10人程度だ。公爵に気に入られている使用人は有無を言わさず連れて行かれた。大感謝祭では、馬車の上から街の色々な種族に友好の証の印鑑を渡していくのが決まりとなっている。

俺はそういう外交的な態度が苦手なため、不合格になってホッとした。

お嬢は今日のような日が一番ピリ付いている。

鞭打ちは毎日のことだったが、今朝のように小さなことで鞭打つのは両親への苛立ちを隠し切れていない証拠だろう。

バタートーストのバターが熱で溶けかけている。香ばしくも美味い。朝嗅いだ香りはこの匂いで間違いない。

俺の隣でお嬢がサラダにドレッシングをかけて睨んでいた。

「どうされました?お嬢」

「ドレッシングを変えるだけで全然味が違うの不思議」

お嬢のまだまだ未熟な部分が時々愛おしくなる。

「こちらのドレッシングはリュートの森からであちらのドレッシングはドアロ海からの物です。酸味も甘みも全然違って当然ですよ」

「ふーん、詳しいじゃない」

感心した様子でお嬢はドレッシングを振った。舌なめずりしながら、俺に少し好感の眼を向ける。例の銀河のようなまなこだ。

「何処からそんな情報を仕入れるの?ゴミ虫」

俺は得意気にならないよう努力して答えた。

「地下にある図書館で書いてありました。スペリア語だけは俺でも読めるんです」

実際、下町の流行語はほぼスペリア語だったため、本を盗んで学ばざるを得なかった。俺が病気で死ななかったのもスペリア語を学んでどの水が平気でどの水が危険か把握したためである。

お嬢はしばらく俺を見つめて、頷いた。

「お父様、お母様に内緒で地下の図書館に入りましょ。本当は私は今日は自室で数式の勉強をしないといけないけど、ゴミ虫が仮病を使ってくれたら、文句を言う人間はいなくてよ」

俺は分かっていた。お嬢も今日は自由なはずなのに俺をダシにして引け目を取らせたいだけなのだ。

俺は苦笑を隠して深々と頭を下げた。

「お嬢のためなら何なりと」

これは本心からの言葉だった。俺の恋はお嬢だったし、お嬢が本気で当たれるのも俺だけだった。俺達は持ちず持たれずの関係を築き上げていた。

俺はカフェ・オ・レを味わい、お嬢に必要とされている自分に満足の吐息を漏らした。お嬢は野菜嫌いだが、健康のため最後に残していたラスボスのサラダとコールスローに挑んでいるところだった。

朝の陽気さが身に染みる。お嬢と図書館デートは願ったり叶ったりであった。

今はまだ俺のお嬢だった。美しく気高いムッツリ女だった。もう俺から大切な人を奪わないで欲しい。流れ星が降る度何度も願ったものだ。流れ星が願い事を叶えてくれる話はこの歳にしては幼稚過ぎるが。

俺達は食事を終えた。

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