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第一話:鋼鉄の街②

『夜明けのシュテルネ』第一話の続きです。

第一話が全て書き終わったら、統合します。


※この作品はフィクションであり、実在する人物、団体、事件とは一切関係がありません。


 雲を裂くように、一羽の烏が駆け抜けていく。

 その姿を見送って、イレーネは長いまばたきを一つ落とした。思案の影が、静かにその横顔を撫でていく。

 あの軌跡は、逃れてきたはずの王都の気配を、細い糸のように手繰り寄せる。安息には未だ遠い――そう告げるかのように。


 秋風が優しく窓を叩く。ブロートバウム家の家屋はあたたかい。

 ひととき静けさに身を置くだけで、胸の痛みが和らぐ気がする。それがかえって、イレーネには耐えがたかった。

 巻き込んではいけない。

 そう思うほどに、縋るように門を叩いたあの時の自分の弱さが、重く胸に沈んでいく。カイトの真っ直ぐな瞳を思い出すだけで、その重さは増すようだった。

 それでも、戻らなければならない場所がある。

 残してきたものを思えば、イレーネに選択の余地はなかった。目をそらしても、決して消えてはくれない。


 遠くで烏が一声、鋭く鳴いた。

 まぶたを閉じても、その軌跡は安堵と焦燥の狭間で立ちすくむ心に、暗い影を落としていく。


 イレーネが小さく息を吸い直したとき、扉の向こうで足音がひとつ、控えめに床板を鳴らした。


「……殿下、ヴィルヘルムです」


 扉の向こうから落ち着いた声が響き、イレーネは我に返った。胸元のペンダントが微かに震える。

 装飾を施された銀の台座に琥珀が嵌め込まれたそれが、陽光を受けて鈍く光る。それを確認して、イレーネは静かに答えた。


「入りなさい」


 きしむ音を立てて扉が開く。わずかな隙間から、冷たい空気がそっと流れ込む。

 ヴィルはすぐには踏み込まなかった。

 敷居の向こうで、影が揺れる。柔らかな気配をまとって、扉の傍で静かにたたずんでいる。

 彼は一度だけ視線を床へ落とし、それからゆっくりと顔を上げ、イレーネと目を合わせた。


「夫人は?」

「はい。先ほど市庁舎へお送りしました。街の様子も見てきましたが、異常は見られませんでした」

「ご苦労だった」


イレーネが礼を述べると、ヴィルはふっと眦を緩めた。まっすぐに向けられた眼差しが微かに揺れ、まつ毛の影が小さく震えた。


「……殿下、休めていますか?」

「問題ない。――少し、考え事をしていた」


 そう返すイレーネの声は柔らかい。彼女は眉を下げて微かに笑み、気遣うように目を細める。

 ヴィルもそれ以上追及せず、一歩だけ室内へ入った。扉が閉ざされ、外気が遮られると、冷えた空気がゆっくりと温度を取り戻していく。


「こちらへ……かけなさい」

「ご配慮、痛み入ります」


 促されるまま、ヴィルは丁寧に礼をして椅子へ腰を下ろした。青年の体躯を受け止めるように、古い木が小さくきしむ。


「お前こそ、休めているか?眠れていないだろう」

「そのようなことは……いえ、問題ありません」


 ヴィルは眉をわずかに下げ、静かに微笑んだ。細められた瞳の奥に、ともに超えてきた道程の記憶が滲む。

 しばし、二人のあいだに穏やかな沈黙が降りた。

 その静けさに紛れるように、遠くで馬蹄の音がかすかに響く。


 ――まだ夜も明けきらぬ頃、アイゼンシュタットへ向けて出立した、あの少年。

 イレーネの脳裏に、薄闇を真っ直ぐに駆けて行った細い肩がよみがえる。従順で優しい少年は、何も問わず、それでも与えられた使命を果たそうとしていた。

 その背を見送ったとき胸に走った痛みが、わずかに息を吹き返す。

 イレーネは目を伏せ、静かに唇を結んだ。


「……ヴィル。わたくしたちも、これからのことを考えなければならない」


 静かだが、どこか緊張をはらんだ声音だった。ヴィルは姿勢を正し、イレーネを見つめる。


「殿下のお考えを、伺います」


 風が吹きつけ、古い窓枠がかすかに鳴った。短い沈黙が落ちる。


「あの日から、間もなく一年……王位は空席のまま、国政は滞りなく進んでいる。そんなことが、あり得るだろうか」


 イレーネは膝の上で両手を固く握りしめた。瞼の裏で赤い炎が揺らめく。白銀の甲冑と、悲痛にゆがんだ紺碧を思い出し、彼女の指先が僅かに震えた。


「……だからこそ、逃げ続けるわけにはいかない。白陽卿(ゾンネン・グランツ)の刑が執行される前に王都へ戻らなければ、真相は永遠に葬られてしまう」

「……」


 イレーネの言葉に、ヴィルは俯いた。

 指先が微かに震え、膝の上で結ばれた拳がゆっくりと解かれていく。何かを言いかけては呑み込み、また言おうとして口を閉ざした。逡巡が、彼の舌の上に重く横たわっている。


「……殿下」


 ようやく絞り出した声は、驚くほど低かった。


「危険であることに、変わりはありません。王都に……戻ることは……」


 それ以上、言葉は続かなかった。守るためには制すべきだと分かっていながら、その先を口にできない。

 イレーネは、その沈黙の底に、躊躇と危惧だけではない、別の色を薄く感じ取った。


 ヴィルは目を伏せ、深く息を吐く。

 

「ですが……殿下が進まれるというのなら、私は……必ず、お傍に」


 顔を上げた彼の瞳には、揺るぎない決意だけでなく、仄かな安堵が宿っていた。

 それを認めて、イレーネは胸が締め付けられるような心地がした。自分のために命を懸けようとする忠誠が、誇らしくもあり、同時にやりきれなかった。嬉しさと後ろめたさが、静かに混ざり合っていく。


「……ありがとう、ヴィル。その忠誠に助けられている」


 囁くようなイレーネの言葉に、ヴィルは目を閉じ、深い敬意を込めて一礼した。

 本当なら――今すぐ王都へ駆け戻り、師を救いたいと願っているはずだ。その焦りを胸の奥に押し込め、主君の安全を何よりも優先しようとする。その姿勢は、彼がかつて将来を嘱望された上級騎士だったことを雄弁に物語っていた。

 あの日、駆け付けてくれたのが彼でよかったと、今でも思う。――だが同じだけ、彼でなければよかったとも思うのだ。


 ふと、イレーネの視線が卓上をかすめる。

 そこには、ブロートバウム夫人が朝方に置いていった陶器の杯が置かれていた。温かな薬湯の甘い香りがよみがえり、イレーネはそっと視線を落とした。


「……勝手なことをしているのだろうな」


 ぽつりと零れた言葉は、自嘲にも似ていた。


「夫人も、カイトも。危険を承知で、わたくしたちを匿ってくれている。それなのに……その善意に背を向けるように、わたくしは危険な場所へ戻ろうとしている」


 ヴィルはわずかに目を見開いたが、すぐに穏やかな表情に戻った。


「殿下が、ただ逃げ延びることだけを選ばれる方だったなら、彼らはここまで力を貸さなかったでしょう」


 静かで、しかし揺るぎない声だった。


「彼らも、殿下が背負っておられるものを、きっと分かっているはずです。殿下が危険な道を選ばれたとしても……その志が誤りだとは、誰も思わないでしょう」


 イレーネは目を伏せ、そっと唇を震わせた。


「……そうだろうか」

「はい」


 ヴィルは小さく微笑んだ。


「だからこそ――私たちは、戻るべき時に戻らなければならないのだと思います」


 その言葉は、真っ直ぐにイレーネの胸へ響いた。奥底に沈んでいた決意が、再び熱を帯びていく。

 今はまだ、動く時ではない。だが、進むべき方向はすでに定まっている。


「……夫人が戻られたら、相談しよう。カイトや、ギルドの人々とも」


 イレーネの声は静かだが、その奥に揺らぐことのない信念が宿っていた。

 ヴィルもまた、穏やかに頷く。


「はい。まずは準備を整えましょう。殿下が望まれる道を、最良の形で選べるように」


 窓の外で風が枝を揺らした。

 その微かな気配の中で、二人の決意は静かに、しかし確かにひとつに重なっていった。



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